三十章 東大陸へ
北大陸を巻き込んだ第一級危険生物との戦いから早一ヶ月半。
その時間の殆どを治療にあてていたため、結局は北大陸を旅することはできなかった。
しかし、旅は何時でも出来るということで、キョウとディーティニアはまずは目的となった新しい刀を求めて東大陸へと向かう船に乗るために港町に向かうことになった。
旅には《七剣》ラグムシュエナが一緒についてくるようになったことに、最初は不満顔のディーティニアではあったが、東大陸のドワーフの鍛冶師に会うまでと念入りに旅をする期間を決めて事なきを得る。
強引に旅についてきた割にはあまりにもあっさりとディーティニアの提案を受け入れたことに訝しんだが、ラグムシュエナとしてもあまり長期間に渡って《七剣》の仕事を休むわけにも行かないので、実は魔女の提案は彼女にとっても丁度いいものであった。実際にラグムシュエナは休みの確認を第一席のアルストロメリアに取っていないので、今度あったらまずいかも、と考えつつ旅に同行している。
旅が三人になってから変化したことといえば、宿に泊まるときに部屋を二つ取ることになったくらいだろう。ラグムシュエナは一つでも良いとごり押ししてきたが、金銭的にも特に困ることが当分ないのと男一人と女二人で同部屋になるのは、他の客に下世話な想像をされるのも気分が良くないと判断した結果である。
後は道中の会話の多さだろうか。無口というわけでもないが基本そこまで話をするわけでもなかった二人の間に入ったラグムシュエナは、兎に角喋る。黙っている時間の方が短い彼女は、キョウについて多くの質問をしてきた。根掘り葉掘り、それこそ質問は子供時代に何が好きだったか、どんなところで育ったのか、初恋はいつだったのか、といったように多岐に渡る。
ディーティニアといえば、興味がない振りをしつつも長いエルフの耳がぴくぴくと動いていたのをラグムシュエナが見逃すことはなかった。
そしてディーティニアとラグムシュエナの相性はというと、キョウが心配していたようなことは起きなかったのが彼にとっては予想外となる。
てっきりディーティニアが嫌うかと考えていたのだが―――仲が良いともいえる関係になったのだから。
人懐っこいラグムシュエナを邪険にするのも憚られたのか、少なくともキョウが知る限り喧嘩一つせずに旅をしているのだから、胸を撫で下ろすしか他がない。
ディーティニアとしても、自分を恐れたり忌避したりしない人間―――狐耳族だが、と話をするのも久しぶりということもあったのか、三人で旅をするのも悪くはないと多少は感じるものがあった。
それに何よりも、ラグムシュエナの《七剣》という称号はキョウ達が考えていたよりも遥かに役に立つもので、彼女がいれば大抵のことがなんとでもなったのだ。
街に入るときも、《七剣》のお連れの方ならどうぞどうぞ、と。他にも身分証明がいるような時であっても、ラグムシュエナが出れば全てが解決できる。あまりにも便利すぎるため、キョウからの信頼度が鰻のぼりとなっていき―――ラグムシュエナはこの時ほど《七剣》やってて良かったと思った日はなかった。
さらに半月ほどかけて北大陸の東端へと到着。
そこは東大陸との海路を繋ぐ港町であり、東にあったが故にセルヴァの影響を殆ど受けなかった街の一つでもある。
船の便の様子を見に行ったところ、タイミング良くもう暫くしたら出航するということだったのだが、生憎と満員で乗船できない筈だったが―――ここでもラグムシュエナパワーが炸裂。ごり押しして一部屋だけだが客室を用意してもらうことに成功するという快挙を成し遂げる。
船員としても、《七剣》が船の護衛をしてくれるのは大層有り難い話だったらしく、無理矢理乗船した割には感謝されるという不可思議な事態にも陥っていた。
そして船は無事出航して―――現在に至る。
「うっはっはー。良い天気っすよー、お兄さん」
「―――ああ。雲一つない晴天だな。この調子で続いて欲しいものだが」
大型船の甲板にて、手すりに両手をつきながら会話をしているのはキョウとラグムシュエナの二人だ。
他にも多くの乗客も見受けられ、忙しそうに走り回っている船員も甲板を幾人か駆け抜けていく。
キョウの言うとおり、空は天候に恵まれ、雲一つない晴天であった。海から吹く潮風は穏やかで東西南北、四方が全て海しか見えない。既に陸地を離れて結構な時間が流れているので、四方を見渡しても陸地はおろか、島一つないというのが現在のキョウ達の状況だ。
何故二人しかいないかというと、ディーティニアは船が出港した途端に船酔いで倒れて客室のベッドのお世話になっているところだ。本人曰く、なんでも船だけはどうしても酔いに耐えきれないという。
外界は陸地続きが多く、キョウもそれほど船に乗ったことがあるわけではないが、鍛えてある平衡感覚のおかげか特に苦しむことにはならなかった。
「多分大丈夫だと思うっすよー。雨季の時以外はそんなに海も荒れはしないらしいっすからねー」
「それは助かるな。もし嵐でも来たらディーテが死んでもおかしくはない」
「あっはー。それは言えてるっすねぇ。今でも相当苦しいみたいっすから。あの獄炎の魔女ともあろう方が、船酔いに負けるってのもおかしな話―――」
「……ユエナ」
パシンっと隣にいたラグムシュエナの額を軽く叩いて台詞を途中で止める。
「うっ……申し訳ないっす」
何故叩かれたのか、すぐに理解した彼女は叩かれた額をさすりながら、舌をだして謝ってきた。
獄炎の魔女やディーティニアという名前を聞かれては面倒なことになるのは痛いほど分かっているので、口に出さないように注意はしているのだが、ラグムシュエナは時折ぽろりっと漏らしてしまうことが多々ある。悪気があってというわけではないので怒るわけにもいかず嗜める程度で済ましているのだが、誰かに聞かれでもしたら一大事だ。
周囲を見渡してみるが他の客は自分達の会話に夢中になっているし、船員も近くは通っていなかったようで今のところは問題がないようだ。
ふぅ、と安堵の息を吐きつつ、視界すべてを埋め尽くす海へと視線を戻す。
空には鳥が飛んでおり、海面には魚影がところどころ見えていた。
「それにしても、幻想大陸の海は平和だな」
「そうっすか? まぁ、確かに雨季以外は航海に全く問題ない天候が続くっすからねー。決められた航路をいけば、危険生物とも滅多に出くわさないってのもあるっすけどね」
「ああ、そうなのか? てっきり危険生物に毎回襲われてるかと思ったが……」
「海に生息している危険生物はそんなに多くないっすからねぇ。かといって準備しておかないといざ襲われたときはどうしようもないし、特に海の上だとどこにも逃げる場所がないっすからね」
「流石に海はな……俺もこんなところで放り出されたら厳しいと思う」
果ての無い四方の水平線を順番に見比べてキョウも同意をし、ラグムシュエナも同感だと言わんばかりに頷いていた。
「―――そういえばお兄さんは外界からきたんっすよね? 外の世界はどんな感じだったんっすか?」
「……外界のことユエナには話してなかったか?」
「お兄さんが外からきた送り人ってこと先日教えてくれたばかりじゃないっすかー。まだ聞いてないっすよー」
ディーティニアには外界のことは結構はなしていたので、キョウ自身ラグムシュエナにも話したつもりになっていた部分があり、思い返してみれば確かに彼女には語った記憶はなかった。
キョウにとってもあまり楽しい記憶ではないので語るのを一瞬躊躇われたが、きらきらと瞳を興奮で輝かせている目の前の少女の期待を裏切ることは出来ず、まだ数ヶ月も経っていない故郷のことを思い出す。
「外界もここと同じで酷い世界だったぞ? 幻想大陸は魔族と戦争を続けているみたいだが、外界では国と国―――つまり人間同士が日々殺しあっていたからな」
「人間同士が戦争? なんでそんなことやってるんっすか?」
理解できない、という様子のラグムシュエナがキョトンっと首を捻る。
「外界には魔族や魔獣といった存在はいないんだ。だから国同士で領土を巡ったり、宗教で対立したり、中には狂った国の王が快楽のために他の国を侵略したり―――まぁ、色々だ。ようするに、外は余裕があるんだよ。人間同士で戦争ができるな」
「幻想大陸は魔族の脅威があるから人間や亜人が対立しないで済んでいるってことっすかね?」
「……そんな単純でもないと思うがな。それも理由の一つにはなっているんじゃないか」
「なるほど。それはそうと、やっぱり外は滅茶苦茶広大な世界が広がっていたりするんっすか?」
「あー、そうだな。凄まじく広い―――らしい」
キョウのはっきりとしない肯定に、ラグムシュエナが再び首を捻った。
彼が暮らしていた世界だというのに、何故あやふやな答えなのだろうと疑問に感じていると、キョウが黙り込む。何かを考えているのか、しばらく空を眺めていてたが、自分の中で答えを見つけたのかラグムシュエナへと視線を下ろした。
「例えばの話になるが、工業都市ネールの周辺を幻想大陸と考えてくれ」
「う、うん? 了解っす」
「それで、だ。それ以外の北大陸を外界とすれば大体イメージできるか?」
「……まじっすか!? 凄く広いんっすねー外って……」
「ああ、さらに―――北大陸を囲っている海を俺達は外海と呼んでいる。常に天候が荒れ狂っていて、座礁が多く、海流も激しい。一度紛れ込めば生きては帰れない広大な海の世界だ。そんな海が外界を囲っている。ようするに、幻想大陸を覆う死の霧みたいなものだ」
外の世界の海はそんな危険だったのか、と目を大きく見開いて驚くラグムシュエナ。
それならば幻想大陸の海が平穏だと言ったキョウの発言にも納得がいくところがある。
「その外海を越えた先には更に広大な大陸が広がっているという話だ。その大陸には外界では絶滅した魔獣や幻想の生物。エルフやドワーフといった亜人も生き残っていると噂されている。様々な国が毎年多くの船団を送っているがどうなっているか……帰ってこれるのは本当に一握りの人間だけだしな。人類未踏領域と名付けられた未知の世界―――外で俺達が暮らしていけているのは気が遠くなる広大な世界のほんの一部だけらしい。新説創世記の始まりが書かれた書物によれば、精々が十分の一程度と言われているな、外界で人間が暮らしている土地は」
「すごいっすねぇ……なんか夢が広がるじゃないっすか。ちょっと憧れちゃうっす……」
「まぁ、そうだな。俺も一度は目指そうと考えていたんだが……ある奴に邪魔されてな。結局は外海も越えられなかった」
未だ見ぬ外界に思いを馳せているのだろうか。
ラグムシュエナは手すりに両手を置いて、遥か遠い彼方へと視線を向けた。
随分と長い間話していたのか、太陽が水平線の向こう側へ落ちていこうとするところで。赤い陽射しが海面を照らし始める。
「なんだ、冒険とか好きなのか?」
「好きっすよー。元々《七剣》に選ばれたのも、探求者として幻想大陸を駆け巡ってたときにたまたまアルス姫様の目に留まってスカウトされたっす。自分で見たことがない物を新たに見れたときの感動が好きなんっす……」
くるりっと振り返り手すりに背をもたれさせ―――ラグムシュエナは夕陽を浴びながら楽しそうに笑っている。
「もしも、もしもの話っすけど。死の霧が無くなって外界を旅することが出来たなら―――お兄さんに案内してもらいたいっすね」
「……俺も外では敵が多いからな。幻想大陸でのディーテみたいなものだ」
「お兄さん何やってるんっすか!? 実は犯罪者だったんっすか!?」
外の世界でのディーティニアみたいなものと例をあげた瞬間、噛み付く勢いで迫ってくる。
本気で驚いたのか、あまりの激しさゆえに唾が顔に飛んできたので、慌てて手で防御し―――後で洗っておこうと硬く心に誓う。
「……似たようなものかもしれん。いや、あいつより酷い状態かもな」
「獄炎の魔女より酷い状況ってなにやらかしたんっすか!?」
「―――てぃ」
獄炎の魔女と叫んだラグムシュエナの喉元に地獄突きを見舞う。
ごぶぅっと少女があげる声とは思えない悲鳴をあげて、甲板に蹲った。
幸いなことに、今度も誰にも聞かれていなかったようで―――キョウは安堵する。
例え甲板に呻き声もあげれず蹲っている尊い犠牲があったとしても。
眼帯狐耳少女は二分程度蹲っていたが、何度か咳を繰り返し立ち上がったが、キョウを見る目が多少恨みがましかったとしてもそれは当然のことである。
「あー、もう。お兄さんって結構外道っすよね。普通うちみたいな女の子にはもうちょっと手加減するもんじゃないっすか?」
「ああ、悪かった。まぁ、お前は少し特別だからな」
「と、と、特別!?」
キョウの特別発言にキュピーンっと右の赤い瞳を輝かせ―――。
「特別って、やっぱあれっすか……その、女とし―――」
「お前は頑丈だし、そのあたりは信頼してる」
「……やっぱりそんな感じっすよねー」
がっくりと肩を落とし、ラグムシュエナがとぼとぼと部屋に帰ろうと歩き出す。
流石にそんな彼女を可哀相に思ったわけではないが。
「―――まぁ、外界くらいは案内するさ」
「……約束っすよ?」
「ああ、約束だ。波乱万丈な旅になることだけは確定しているが」
「……それでもいいんっすよ。お兄さんと一緒ならどんな旅でも凄く楽しくなるっすから―――」
夕陽を浴び、両手を広げ、満面の笑顔を浮かべたラグムシュエナは―――。
「―――約束っす」
本当に楽しそうに笑っていた。
幻想大陸最北端の地である《竜園》。
広大な土地には中位竜種が蠢き、空には飛竜が飛翔している。
約七百年以上も昔の統一王であるアルベルト以来、誰一人としてこの竜園には足を踏み入れたものはいない。
第一印象として、竜園は荒れ果てたこの世の地獄―――と思われているが実際には少々異なる。
草木は他大陸以上に生えているのだ。土地の半分は森に覆われており、樹海とも言って良い広々とした自然が広がっている。竜種は基本的に他の動物を襲うことは無いので、ある意味この土地が動植物にとって最も栄えている場所といっても過言ではないだろう。
そんな竜園の奥地。丁度中央には巨大な峡谷がある。
そこには下位竜種、中位竜種が近づくことは無く―――峡谷の下にある巨大な洞窟の入り口は高位竜種によって守護されており、侵入することは不可能となっている。
その洞窟を進んでいる二人の人影があった。
竜王種の中でも最強と名高い悪竜王イグニード・ダッハーカ。
同じく竜王種の、竜女王テンペスト・テンペシア。
彼らは北大陸から期間すると、暫くの間テンペストは眠りに着いた。
キョウ達との激戦は、彼女に深い爪痕を刻んでおり、傷を癒さねば危ない所でもあったのだ。
好敵手の前では無様な姿は見せられないと強気ではあったが―――実は彼女自身もそこまで余裕があったわけではない。
「やぁ。調子はどうだい、テンペスト」
延々と続く洞窟の途中、一人の青年が両腕を組んで壁に背をもたれさせて佇んでいた。
男にしては長い髪。女性でも嫉妬するような金色に輝き、誰もが見惚れる中性的な容姿。見目麗しいと称するに相応しい青年だった。青年は、前を先導するイグニードを無視する形でテンペストへと駆け寄り―――。
「爺どもに呼ばれてんだ。また後でな、ヴァジュラ」
背後からイグニードに首根っこを掴まれ、ヴァジュラと呼ばれた青年は洞窟の入り口に向かって放り投げられる。
軽く投擲したとしか思えないが、青年は叫び声をあげながら平行に飛ばされていき―――遥か遠い彼方で何かとぶつかる音がして悲鳴が止まった。
そして二人は何事もなかったかのように歩みを再開させる。
傾斜した細い道が地下へと続いていき、空洞から生暖かい風が吹き付けてきた。
巨大な洞窟は、剥き出しの岩肌の様相で深くまで続いており、右へ左へとうねって先が見えないようになっている。
この洞窟の奥へ進む時はまるで、この世とあの世を繋げる不吉な道を歩いている錯覚を感じてくる。そんな弱気になっているイグニードは薄く笑みを浮かべた。
生暖かい風は止み、無風となった洞窟でありながら、奇妙な息苦しさを覚えながら、地下へと淡々と進み続ける。
時間にして十分程度は歩き続けただろうか、洞窟は突如巨大な何かで刳り貫かれたように終わりを告げていた。
広大と言ってもいい空間が広がっている。
小さな人間の村ならば軽々と収容できそうな広さを誇っていた。洞窟の終わりは切り立った崖に面しており、二人は翼をはためかせて二十メートルほど下にある広間へと着地する。
広間は洞窟と異なり、床が透き通るような何かが敷き詰められていた。
冷たくて足を滑らせる―――輝きを放つ氷。永久に溶ける事の無い氷塊によって、この広間の床は造られていたのだ。
広間の先、二人の視線には相変わらず場違いなモノが二つ鎮座していた。
まるで人間の王族が使用するような、豪華絢爛な巨大なベッドが二つ、ぽつんっとこの広大な空間に置かれているのだから、初めて見る人がいれば驚いたに違いない。
生憎と二人はもはや見慣れた光景なので特に感想もなく、そこに近づいていく。
ベッドの上に胡坐をかいているのは二人の少年少女。
一人はドレスを着た十歳を超えたかどうかの少女だ。一切の汚れの無い蒼空で染めたかのような見事な蒼髪が、彼女の着ているドレスに良く似合っている。年齢に相応しい無邪気な笑顔を浮かべて、イグニード達を迎え入れていた。
もう一人はドレスを着た少女よりもやや年上である。それでも十五は過ぎていないと思われる。少女の色鮮やかなドレスとは異なり、少年は茶色を基本として、幾何学的な刺繍が施された服で着飾っている。
一ついえることが、両者とも目が奪われるほどの容姿をした少年少女ということだ。
成熟した色香や容姿といった点では、テンペストとは比べるまでも無いが、未成熟な青い果実を思い描かせる魅力を彼女達は自然と放っていた。
「わざわざすまないな、二人とも」
凛っと空間に響くのは、見かけ十歳とは思えない強靭さを秘めた少女の声。
意識せずとも感じられる威容な圧迫感に、テンペストは知らず知らずのうちに息を呑む。
「いや、構わないぜ。それよりも報告するのが遅れて悪かったな」
対してイグニードは全く気負う様子も見られない。
この男の図太さだけは、同じ年月を生きても得られることはないだろう、と軽く予想がついた。
「僕達にとっては、瞬きする程度の時間だよ。気にすることも無い」
少年が両肩を竦めて、冷笑を浮かべる。
相変わらず薄ら寒くなる笑みを浮かべる相手で、テンペストは昔からこの二体の化け物に多少苦手意識を持っていた。
少年の名は、屍竜皇フレースヴェルグ・ラタトスク。
少女の名は、終竜ミッドガルド・エッダ。
女神エレクシルによって、外界の遥か南方に位置する竜の楽園より連れて来られた竜王種。
人間達の前に姿を現していない、残された竜王種の二体である。
彼らが生きた年月は、気が遠くなる歳月。幾度も人間の文明が崩壊し、新たに始まる時代を見届けてきた歴史の生き証人ともいえる存在達だ。もはやどんなことにも興味を抱くことも無く、この竜園の深奥にて眠り続けている超越存在。
一度寝れば百年単位で起きない二人が珍しく眼を覚ましていることに多少疑問を抱くが、イグニードは二人に前に頼まれたことを報告しようと背後にいるテンペストをちらりと一度見てから、前方のミッドガルド達に視線を戻す。
「まぁ、あれだ。女神の狙いは正直な話良く分からん。俺達超越種をぶつけて鍛えようとおもってるんじゃねーか、というのが俺の推測だな」
「……流石にそれはないのではないか? 送り人といってもたかが人間に女神が何の期待をするというのだ?」
イグニードの発言にミッドガルドが眉を顰める。
全く同感なのか、フレースヴェルグも特には会話に割ってはいる様子は見られない。
「それを言われたらどうしようもねーんだがな。でも、あいつは面白い逸材だったぜ。あの小僧を倒そうと思ったら俺も全力を出さないと無理そうだし」
「―――お主がそこまでいうほどか」
まさかイグニードがそこまで評価する人間がいるのか、と珍しく目を丸くして驚いているミッドガルド。わかりにくいが、隣のベッドにいるフレースヴェルグの笑みも若干深くなっていたのをテンペストは捕らえていた。
「まぁ、まだ俺達竜王種は様子見でいいと思うがね。後先考えない魔王や魔獣王種が動き出すだろうし。あいつらは完璧に気狂い女神の支配下にあるしな。あいつらじゃー来るべき時のために、役に立たん」
「……かといって、人間が我らと同じ領域に立てるとは思えんぞ?」
「それはどうかな。人間ってのは可能性の塊だ。何にでもなれる可能性を、何でも為せる可能性を―――そう、女神だって殺せる可能性を秘めているかも知れんぜ?」
「……お主が何故そこまで人間に期待するかわからんが。お主の判断どおりとりあえずは暫くの間様子見でよかろう」
「おうおう。そんじゃ、報告は以上だ。とりあえず俺達竜王種は静観の立場ってことで。女神が何か言ってきたら俺に回してくれれば良いぜ」
テンペストが一礼して、翼をはためかせて洞窟へと続く洞穴へと飛翔して戻っていく。
それに続いてイグニードも飛び立とうとして―――。
「待て、イグニード」
フレースヴェルグの声がかかり、翼を止める。
上空から下を見下ろしてきているテンペストに、先にいってくれと手を振って合図を送ると、彼女は渋々といった様子で洞窟へと消えていった。
残されたイグニードを見る、二人の視線は冷たく、底冷えする恐ろしさを秘めていて。
「なんだよ、何かあったのか?」
「……特にはない。だが、女神から何もないのが逆に僕達は恐ろしいのさ」
「別にそれは何時ものことだろう? あいつは気づいてても多分面白がって放置してるぜ」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。だが、女神の力は強大だ。僕達と同格の竜種を遊びのように消してきた正真正銘の神様だ。僕達でも遠く及ばない―――真の意味での超越存在だ。そんな相手に―――」
「―――おいおい、まさか。命が惜しいって言うんじゃないだろうな?」
じゅわりっと広間の床を構成する氷が解けてゆく。
ゆっくりと、だが確実に。解けた氷がぬらぬらと、床を濡らして行く。
「何万年生きたか知らんが、それがお前らの辿り着いた答えなら―――俺はもう知らん。俺達竜王種は別に仲良しこよしの集団ってわけでもないんだよ」
解けた氷さえも、一瞬で蒸発して。
イグニードの放つ悪炎はとどまるところを知らず。
「―――なぁ、婆ども。なんなら今此処でお前らの無駄な竜生に終わりを告げてやってもいいんだぜ?」
大気が揺らされ、地震を引き起こし、次元の歪みさえ明瞭にさせる悪竜王の桁が異なる重圧が迸る。
もしもこの場にテンペストがいたら、ヴァジュラがいたら―――どう思っただろうか。普段の穏やかな彼が、ここまで恐ろしい殺意を漲らせることができることを。
パチリっと三人の間で火花が散った。
ミッドガルドの。フレースヴェルグの。イグニードの視線が、質量をもって激突する。
ミッドガルドを纏う蒼色の気配。フレースヴェルグの纏う土色の気配。イグニードの纏う黒炎の気配。
そのどれもが、竜王種を名乗るに相応しい強大さを証明していた。
誰もが退く事もなく、圧されることも無く―――三人の力は確かに拮抗している。
睨みあっていたのは数秒だったのか。数十秒だったのか、もしくは数分もたっていたのか。
時間が凝縮されたこの空間で、カタンっと天井から落下してきた岩石が音をたてて地面に転がった。
それを合図に、三人の気配は突如として消失。
狂暴な威圧を撒き散らしていたイグニードは、口に手をあてて一礼した。
「かっかっかっか。冗談だ、冗談。悪いな、お二人さん。ちょっと言い過ぎたぜ」
頭をあげて、快活な笑みを浮かべたまま。
「それじゃあ、俺は行かせてもらうからな。また何かあったら連絡しにくるわ」
今度こそ翼をはためかせ、上空にある洞窟へと戻っていった。
フレースヴェルグも今回は引き止めるようなことはせず、イグニードが去っていくのを黙って見つめている。
彼が広間からいなくなり、しばしの間無言の時が流れるが―――。
「たかが二万も生きぬ若造が我らと比肩するか―――悪竜、め」
搾り出すような声がミッドガルドの可憐な唇から漏れた。
第一級危険生物。竜王種の一。悪炎を纏いしモノ。生きた大天災。炎の超越種。幻想大陸最強の存在。
悪竜王イグニード・ダッハーカ。
その称号に偽りは無い。




