十七章 勇敢なる野兎の館
工業都市ネールの正門を潜り抜けてから早一時間。
キョウとディーティニアは道行く人に《勇敢なる野兎の館》がどこにあるのか尋ね続けていたが、地元の人間を捕まえる確率が低く、なかなか思い通りにいかないのが現状だ。
それでも諦めることなく手当たり次第に聞いているうちに、ようやくそれらしい場所を教えてもらうことが出来た。
そこはネールを四つに分割する十字の大通りから少し裏道に入った通りからさらに離れた場所だ。もし、途中で人に会わずに道順をもう一度尋ねなかったならば間違いなく迷うような、入り組んだ路地の先にあった。
二人が到着した頃には、結構な良い時間になっている。裏通りでも、所狭しと住居が立ち並んでおり、家の中からは魔法の光がほんの少しだけだが外の闇に光を差し込ませていた。
ちなみに現在は本当に二人きりである。コーネル村から苦楽を共にしてきた馬は、街中で連れて回るわけにも行かずに、正門のすぐ横にある馬の預かり所に預けてきたところだ。簡素な藁葺き屋根の預かり所ではあったが、そこの主らしき人物が親切丁寧な対応をしていたために、安心して任せることが出来た。
《勇敢なる野兎の館》と看板に大きく書かれた―――裏通りにあるとは思えない小奇麗さで、三階建てのそこそこ大きな建物の扉を押し開ける。
カランカランっと扉に取り付けてあった鈴がキョウ達の来客を店内に報せる。
「はいはーい。いらっしゃいませぇ。お泊りですかー? それともお食事ですかー?」
パタパタと廊下を走りながら駆け寄ってきたのは、まだ十代半ばくらいの少女だった。そばかすが印象的で、可愛らしい笑顔を浮かべている。
「とりあえず三泊ほどお願いしたいのじゃが」
「ええっと……はい、大丈夫なんですが……部屋が今一つしか空いてなくてですね、二人で一部屋を使用して貰うことになってしまいますけど……」
宿帳に目を通しながら、言い難そうに語ってくる少女。
何故言い難かったのか。それは少女からしてみれば、キョウとディーティニアの関係性がいまいち掴めなかったからだ。《勇敢なる野兎の館》は駆け出しから中級の探求者がよく使用する宿として重宝されている。少女も両親を手伝って、この宿で働いてそれなりに長いため、そこそこの目利きはできるほうだと思っていた。
そんな少女が二人を見たときの第一印象は、親娘だ。だが、どうも雰囲気が違う。兄妹かとも考えたが、良く見れば妹はエルフ。種族が違っていた。では恋人同士かとも考えたが、もしそうだったら年齢は兎も角、身長差を考慮したらどうにも犯罪臭がしてくる。しかし、二人の間にはそんな甘い匂いも感じられない。一番近いのは探求者同士でパートナーを組んでいるといったところだろうか。
うん、それが一番近いかな―――という考えに至って、そこで思考をやめた。客の素性を深く推察するのもあまりよろしくはない。
「俺は別に構わないが」
「……普通こういう状況の場合、ワシの方がそう言うべきではないのか?」
「ん、まぁ……そうかもしれん。というか、お前は嫌なのか? もし嫌なら俺は別の場所を探してくるが」
「嫌とは言っておらぬ。ワシも構わぬよ」
「……それなら最初からそう言えばいいと思うが。とにかく、そういうわけで一部屋で構わない」
同部屋になることに全くの嫌悪感を見せないディーティニアを見て、少女の予測が微妙に揺らぎ始める。
探求者同士、同じ部屋で寝ることに嫌悪感を示さない者が多いとはいえ、それは外にでているとき限定だ。安全な街中で同部屋になるというのに、全く躊躇いも見せないのは少し変だなーと感じつつ、笑顔のまま頷いた。
「有難うございます。ええっと、お一人様一泊朝食付きで、小金貨二枚ですねー。三泊でしたら小金貨十二枚ですけど、部屋のこともありますのでちょっとサービスで小金貨十一枚でどうでしょうか?」
「ほー。なかなかお手頃な価格の宿じゃなー。ほれ、これでよいか」
考えていたよりも宿泊の金額が安いことに感心しながら、懐の財布から大金貨と小金貨を枚数分とりだし手渡す。それを確認した少女がこれまで以上の満面の笑顔を浮かべた。
「はい、確かにお預かりしました。そうそう、うちは安さと食事の味ともう一つで勝負してますからね。えっと、お名前頂いても宜しいです?」
「ワシはディーテ。こやつはキョウと記入しておいておくれ」
「はい。ディーテ様とキョウ様ですね。あ、こちらが鍵になります。三階にあがって一番奥の部屋になります」
宿泊名簿に二人の名前を書きながら、鈍い銀色の鍵を手渡してくる。
それを受け取ったディーテがクルクルと回しながら階段へ向かい、キョウもその後を追う。そしてディーテは何かを思い出したのか、足を止めた。
「そうそう、食事はどうすればいい?」
「あ、朝食でしたら酒場兼食堂のあちらで父さんに名前を言っていただけたら出してもらえますから。もし晩御飯まだでしたらどうぞあちらで。あ、それともしお風呂に入りたければ大銀貨一枚で入浴できま―――」
「風呂に入れるのか、この宿は!?」
それとなく営業をしてくる少女の商魂たくましさに舌を巻きつつ、気が向いたらと返事をし、階段をあがろうとして―――少女の最後の言葉にディーティニアが凄い勢いで振り返った。
そのあまりの形相に少女がびくっと後ろに一歩下がる。
「え、ええ。それがうちのもう一つの売りですから。お風呂を作る場所を確保するために、大通りではなくこんな裏通りに店を構えているんです」
「素晴らしいぞ、うむ。是非お願いしたい」
「でしたら入るときには店の者に声をかけていただければ。一応時間は二十二時で終了とさせていただきますので、時間には注意してください」
「二十二時じゃな。では食事の後にでも入るとするかのぅ」
ディーティニアはこれ以上ないほどに身体全身から歓喜の雰囲気を発散させつつ三階へと階段を上っていった。ギシギシと階段をのぼるたびに木でできた階段が音をたてる。
途中他の宿泊客と遭遇することもなく、三階へ到着。言われたとおり一番奥の部屋を目指す。
外で見たよりも、建物自体の奥行きがあったためか、中は随分と広く感じられた。
鍵穴に鍵を差し込んで回す。カチャっと鍵が開き、扉を開ける。コーネル村で泊まった時の部屋のように木造で、そこまで広くは無い。歩くたびにキシキシと床が悲鳴をあげる。隅には四角のテーブルがチョコンと置かれており、他には椅子が二脚。同じくもう片隅にはベッドが二つ。後は窓が一つだけあるという簡素な内装だった。
荷物―――竜鱗が詰まった風呂敷を背中からおろして、背筋を伸ばす。
この街で竜鱗を売りさばけば、ようやくこれでかさ張る荷物ともお別れだと気分も晴れやかになってくる。そう考えれば質素な内装もどこかの王宮に匹敵するように見えなくも―――ないわけはない。
「さて、荷物も置いたし、食事にでも行こうかのぅ」
「そうだな。流石に腹が減った。干し肉とお別れできるのが正直有り難いぞ」
「それには同感じゃな。新鮮な肉か魚を腹いっぱい食べたい気分かのぅ、今は」
「とりあえず、下の食堂にいくか。もしメニューを見ていまいちそうなら外に食べに行ってもいいしな」
「うむ、その方向にするとしよう」
二人で計画を一瞬でたて終えると、部屋に鍵をかけて一階へと降りていく。
さきほどまで少女が座っていたカウンターの横を通り抜け、併設されている酒場兼食堂に足を踏み入れた。
入るよりも前から聞こえていた喧々囂々とした話し声が、さらにはっきりと聞こえてくる。中は数十人程度が入れそうな一般的な酒場の風体の大広間だった。至るところにある丸テーブルに座って、若者から壮年の男性まで幅広い年齢層の者達が、食事を取ったり酒を飲んだり各々自由に過ごしている。
夜の食事の時間帯にぶつかったせいか、食堂は人で一杯だった。
カウンターまでもが埋め尽くされ、座る場所といったら丸テーブルにて相席するしか方法は無い。
しかし、酔っ払ってる人間と相席して変に絡まれても面倒臭いと考えた二人は、外で食事を取ろうと踵を返した丁度其の時―――。
「ぉぉぉおお!? そこにいるのは、キョウさんとディーテさんじゃないかー!!」
どこかで聞いた声が部屋の奥から聞こえた。
その声に振り返ると、食堂の隅の丸テーブルに座っているメウルーテと、椅子から立ち上がり別れ際と同じ様に手を振っているニルーニャの姿を見つけることができた。
「……ちょっと。ニルってば。恥ずかしいからちょっと静かにしようよぉ……」
「気にしない気にしない!! 二人ともこっちにおいでよー、相席しようよー!!」
騒がしい食堂ではあったが、ここまで大声をあげれば目立つのも自明の理。
そこら中から注目を浴びたキョウとディーティニアは今更、外に向かうこともできずに大人しくニルーニャ達のもとへとそそくさと向かった。くすくすと笑われている気がするのは決して気のせいではないはずだ。
空いている椅子に腰を下ろし、四人でテーブルを囲むことになったが、まだテーブルには何も食事は運ばれてきてはいない。置かれているのはメニューが書かれた薄っぺらい紙だけだ。軽く目を通してみるが、文字は読める―――八百年の間幻想大陸と外界では言語と同じく文字も変化はしていなかったらしい―――のだが、内容ははっきりとわからない。なんとなく分かる程度の感覚だ。さて、どうしたものかと困り気味なキョウに気づいたのか、メウルーテがメニューを覗き込むように顔を近づけてくる。
ふわりっと舞った短い髪が、探求者らしからぬほのかな花の香りを漂わせてきた。頭の上の猫耳が、キョウの頬をかすかにくすぐる。
身形にも気を使うのは珍しいというのがキョウの本音だ。探求者御用達の宿ということもあり、今この食堂にいるのは探求者ばかりだ。そのどれもが、いかにもな格好をしているものばかり。そういった人間達とはどこかが違う雰囲気をメウルーテは持っている。
「えっと……僕のお勧めとしては、これとこれとこれのどれかが良いと思います。この店は価格の割りに量が凄いので、一つに絞った方が無難かと」
「ふむ。この三種類のうちのどれかか……」
「はい。羊か牛か兎のどれが食べたいかで決めればいいんじゃないかと……」
「そうか。ああ、二人はもう注文したのか?」
「え? あ、はい。僕はこれで、ニルはこっちです」
そういってメウルーテが指差したのは牛と兎料理の二種類。
「それなら俺は羊肉にするかな。ディーテ、お前はどうする?」
「ワシは、こっちにするかのぅ。三種の肉盛りセット。今は肉をどうしても食べたい気分なんじゃよ」
二人が決め終わったのを見計らったかのように派手な衣装を着たウェイトレスが注文を聞きに来る。
キョウ達の注文を票に書き留めると、機敏な動作で厨房へと戻っていく。途中酔っ払った客に尻を撫でられそうになるが華麗にかわして去っていく姿が、熟練のイメージを植えつけてきた。
「それにしても本当に来てくれるとは思ってなかったんだけどさー。やー嬉しいね、こういうの」
「うん。僕も二人の姿をさっき見たときまさかって思っちゃったし」
ニルーニャもメウルーテも本当に嬉しいのが表情だけではなく、猫耳と尻尾の動き具合で証明している。
ここまで素直に喜んで貰えるとなかなかにむず痒い。どうもコーネル村でのミリアーナや、工業都市ネールでのこの二人のように、初めて会う人間には不思議な縁でもあるのだろうか、と邪推してしまう。
もっとも、それ以外に親しくして貰えた相手がそういなかったので印象に残ってしまっているのかもしれないが。
「この街は初めてだと言っただろ? だからお勧めのこの宿を探してみたんだ」
「ふーん。でも大変じゃなかったかな? 探求者ならともかく普通の人はあんまり知らないよ、ここ」
「……それは何度も実感したな。まさか辿り着くまで一時間もかかるとは思わなかった」
「あっはっはー。だよねー。私だって油断したら今でも道に迷うもん」
「いや、ニルは迷っちゃ駄目でしょ」
メウルーテの冷静な突っ込みにも、ニルは笑って誤魔化そうとしている。
と、そんな時にウェイトレスが大きな皿を二つ持ってきた。そして、ドスンと音をたてた皿がテーブルの上に置かれた。
それを見てキョウとディーティニアの視線が釘付けとなる。
それもそのはず。その皿の上に乗っている料理の量が―――半端ではない。むしろ異常だ。
二つの皿にはこれでもかっと山盛りに乗せられている肉の山。
「……二人分を合体させた……わけじゃないよな?」
「うん。いやー初見の人は絶対驚くよね。この価格でこれだけの量!! 他の店では絶対無理!! じゃ、いただきまーす!!」
「ごめん、先にいただいちゃってもいいかな?」
「……ああ、うん。どうぞ」
なんとも間抜けな返事をしながらキョウが見ているだけで胸焼けしそうになる量の肉を、二人は凄い勢いで食べ始める。
口いっぱいに頬張りながら、次々と胃袋の中に消えていく肉料理。
それを見ていて、キョウの嫌な予感が消えはしない。この流れでいくと間違いなく―――。
「はい、お待たせしました」
ドンっと置かれる二つの皿。
キョウの前に山のように積まれた肉団子の皿が。ディーテの前に置かれたのは三種類の肉で作られたピラミッドが。
明らかに胃袋よりも多い量の料理を見て、顔を見合わせる。
「……さて、どうする」
「……ま、まぁ。まずは食べるとしようかのぅ」
「そうだな。ああ、ディーテ。この肉団子おいしそうだぞ? 少しわけてやる」
不気味なほどに優しい笑みを口元に浮かべたキョウが実に自然な動きで肉団子をディーテの皿に移していく。
勿論了解を取る前だ。
「ええい、やめんか!! お主こそ羊だけではバランスが悪かろう。牛と兎も譲ってやろうではないか」
ディーテもまた、皿に積まれた肉を―――牛と兎といいながら、もはや羊も混ぜてキョウの皿へと大量に移し変える。
こちらも勿論了解を取る前だ。
「いやいや、遠慮するな。肉を食べないと身長が伸びんぞ」
「お主こそ、遠慮するでない。それだけの体格を維持するにはもっと食べねばならんだろう?」
キョウが肉団子をディーティニアの皿に突っ込めば、ディーティニアもまた三種類の肉をキョウの皿へと突っ込み返す。
そんなことを続けていくうちに―――出来上がったのはキョウの前には三種類の肉の山。ディーティニアの前には肉団子が積まれた山。見事なまでに料理が逆になっただけであった。
「……なにやってんのさ、二人とも」
「いや、面目ない」
「う、うむ……これは言い訳できぬ」
ニルーニャからの突っ込みに、しょんぼりとしたキョウとディーティニアが大人しく謝罪をして、自分の前に置かれた料理に手をつける。キョウは三種類の肉を、ディーティニアは肉団子を口に入れ咀嚼した。
そして、二人の目が大きく見開かれる。
「む、この肉美味いな」
「こちらの肉団子も羊の臭みが全く無い……信じられん」
別の意味で顔を見合わせた二人。
量が量だけに、味は全く期待していなかったのだが、その味はキョウ達の想像を遥かに超えていた。噛んだ瞬間、肉の中からじゅわっと肉汁があふれ出てくる。しかも、とんでもなく柔らかい。歯があっさりと肉を噛み切れる。
特に羊の肉団子は、ディーティニアが語ったように、羊本来の臭みが全く感じられない。幼い羊を使っているのだろうかと考えながら頬張っていく。次々と皿の上の料理は減っていった。
確かにとんでもない量ではあるが、これは手がとまらなくなるのもわかる。
ニルーニャとメウルーテがあれほどの勢いで食べていたのも、これならば納得できようものだ。
「やっはー。どう、吃驚でしょ? ここのは量が凄いから味が微妙に思われてるんだけど、味良し!! 量良し!! なんだよー」
「僕達も最初は驚いたけど、今では感謝してるんだ。この価格でこれは本当に凄い」
ニルーニャ達のしてやったりの顔に、キョウも苦笑しかできない。
これ以上ないほどに良い方向で騙されてしまったが、確かにこれはお勧めしてくる理由もわかる、とキョウは納得することが出来た。
「ああ、これは美味い。良い店を教えてくれて助かったよ、ニルーニャ。感謝する」
「えっへっへー。喜んでもらえたら私も嬉しいかなー」
喜色満面。
ニルーニャが照れたように頭をかく。
「それとメウルーテも、だな。メニューから良い料理を選んでもらって助かった」
「―――え?」
不意打ちとばかりにメウルーテにも感謝を告げたキョウに、ぽかんと呆けたような表情で見つめ返す。
まさか自分にもお礼を言われるとは思っていなかったようだ。それ故に反応が遅れたのだろう。
「あ、うん。いや、別に、うん。そんなお礼を言われることでもないし……」
「うっわー、珍しい。メルが照れちゃってるし」
「て、照れてなんかないもん!!」
顔を赤くしながら吠えるメウルーテとチャシャ猫のように厭らしく笑うニルーニャが言い合っている最中―――。
「まぁ、あやつが選んだ料理はワシが食べておるんじゃがな」
「……仰るとおりで」
至極冷静なディーティニアの一言に、そう返すことしかできないキョウが気まずそうに視線をそらした。
ほぼ同時刻北大陸西方にて。
王の森と呼ばれる異常な広さを誇る森がある。
北大陸の十分の一を占める未知の森。古代の植物、生物を色濃く残した稀有な大森林。
その大森林と人類支配領域である東部を別つ巨人の山々と呼ばれる標高数千メートルの山。
多くの危険生物が住む筈のそこは―――今は生命の光を見つけることは出来なかった。
まるで何かを怖れているかのように、この山脈から逃げ去っている。
人間達の領域となる東側のとある崖。
ごつごつとした岩肌。人の手で整備されているわけでもなく、自然のあるがままだ。
太陽は落ちており、人工的な光も皆無なため周囲は暗く、夜の闇に包まれている。
そんな時、はっきりとわかる地震が発生した。激しい音をたてて、大地が―――いや、山脈が揺れる。
そして、そんな次の瞬間―――光が迸った。周囲一帯を雷光のように、金色の光が埋め尽くす。
圧倒的な大破壊。超圧縮された狂える白光が岩を融解させ、刳り貫き、消滅させていく。数十メートルもの大穴をあけ、その暗黒の穴から飛び出してきた白亜の巨砲が、巨人の山々の東側に広がっている森の木々を薙ぎ倒し、崩壊させ、消失させる。そのままの勢いを殺さずに、やがてその閃光は遥か遠い天空へと消えていく。
残された静寂。
やがて再び地面が規則正しく揺れていく。その地震を発生させている何かが、山脈の横っ腹に開いた巨大な穴を通って姿を現した。
其は神話に語られる獣。
見上げるような獣の巨体がそびえ立つ。いや、これを獣と表現していいのだろうか。あまりにも巨大で、あまりにも異様。頭から尻尾までの全長は二十メートルを容易く超える。二本の前足と二本の後ろ足。ただし、片足だけでサイクロプス以上の大きさを誇る。全身がびっしりと緋色の体毛に覆われているが、その体毛はごわごわとしていて波打っていた。頭部は獅子を連想させるが、額には三つ目の瞳が大きく開かれている。開かれた口には、研ぎ澄まされた牙が何十本も見え、中から赤い舌がうねうねと生き物のように長く蠢いていた。背中には、翼の形をした―――だが、骨格だけしか様相を呈していない奇妙な骨の翼が六本生えている。尻尾もまた異形。獅子の尾と蛇の尾、さらには虎の尾の三本が長くたなびいていた。
様々な獣のあらゆる部位を集めて構成された、不気味な怪物。
怪物は穴から出てくると、ゆっくりと空を見上げた。
夜空には綺麗な星々が瞬いている。それを見つめていた怪物は、愉悦に浸っている眼光を正面に向けなおす。
「―――ゴォォォォォォォォオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
聞く者の魂を奪う咆哮。枷を外された歓喜に満ち溢れた遠吠え。
本能の枷を外された怪物がまた一体。
北大陸を蹂躙するために、緩やかに足を踏み出した。
かつて幻想大陸が、外界より分離されたばかりの時代。
竜種と人間と亜人と魔獣しかいなかった八百年もの昔。未だ魔族なる存在をエレクシルが創り出す以前。
その時代は南の大陸は五つある大陸の中でもっとも自然に満ち溢れていた。だが現在は南の大陸にはなにもない―――ただ魔族だけがいる荒廃した世界。
それはたった一体の怪物が現在のような死の大陸へと変えてしまったからだ。
あらゆる人間を喰らい、あらゆる亜人を喰らい、あらゆる危険生物を喰らった暴食の魔獣。
飽きることなく、目的もなく、ただ喰らうことだけを本能に刻まれた怪獣。
女神が、王位種の本能に枷を刻み込む原因となった最悪の超越存在。
人はこの怪物をこう呼ぶ。
第一級危険生物。魔獣王種が一体。
《大陸喰らい》 陸獣王―――セルヴァ、と。