十六章 工業都市ネール
若草色になびく草原を馬に乗って進む人影が二つ。
二人乗りのためか、ゆっくりと街道を行くのはキョウとディーティニア。
太陽は西に傾き、もう小一時間もすれば夕陽が差し込む時間帯となるだろう。街道を歩いているだけあって、本日は何回も途中で人とすれ違っていた。商隊が反対方向からすれ違うこともあれば、急いだ馬に乗った人間が追い越すときもある。
街道とはいえ野生動物や危険生物が時折近寄っては来る。街の外である以上、危険は零ではない。そのため各自自衛の手段は用意してある。商隊であれば傭兵を雇うなど、生き延びるために全力を尽くす。
しかし、キョウとディーティニアは危険生物など全く気にせず、静かでゆったりとした時間を感じながら馬を走らせる。
遠くの空を、黒い影が飛んでいく。名前を思い出せない、渡り鳥だ。多くの群れをなして、遥か彼方へと飛び去っていく。そのついでに空を見れば、今日は雲一つ無い晴天。見ていて気持ちがいい。
空から見下ろしてくる太陽は、何時もと同じく穏やかで昼寝をしたくなる快適さだ。
かといって、キョウは馬の手綱を握っている身。居眠りなどとんでもない―――例え前に座っているディーティニアが舟をこいでいたとしても。
街道は整備されてから間もないのか、非常に綺麗で馬を走らせたやすい。
「……ああ、平穏だ」
ふぅっと空を見上げていたキョウが穏やかな笑みを浮かべる。
追っ手がかかっていない旅とはこんなにも気楽なものなのか、と感動さえしつつ平穏な空気が流れ続けた。
やがて一刻ほど馬が歩みを進め夕陽が差し込んでくる時間帯―――平原を抜けた視界の先に、巨大な建造物が広がっている。見えてきた建造物は工業都市ネール。本来の目的である場所へようやく到着した。それを遠目で眺めていたキョウからほぅ、と感嘆の呟きが漏れた。
幻想大陸へ来て最初に訪れたのがコーネル村。そのためにこの大陸の街を侮っていたのかもしれない。
コーネル村とは比較にならない巨大な街だ。左右に広がる石造の壁。並みの危険生物では破壊することはおろか乗り越えることもできない。五メートル近い石壁が延々と左右に展開しており、キョウの前方に映るこれまた大きな門でしか、街の内部に入ることは出来なくなっている。その前には、街の内部へ入るための身元の確認をされているのだろうか。鎧に身を包んだ門番らしき警備隊の人間が、門の前に立ち入り口を塞いでいる。その前にはずらっと並んだ様々な服装の者達。
荷馬車の御者台に座った商人らしき人物。家族旅行でもしてきたのか、妙齢の男女と彼らと手を繋いだ幼い子供。馬の手綱を引いている身形の良い青年。軽鎧を着た―――猫耳を頭に二つ生やした少女。そんな猫耳少女と瓜二つの……少女。いや、若干精悍な顔立ちの少年だった。少年もまた少女と同じ猫耳がピコピコと自己主張している。二人ともが剣を携えており、見た限りそれなりに腕はたつ。
そんな多種多様な種族職業の者達が門の前で順番待ちをしていた。
そのうちの一人―――列の一番前にいた人間が呼ばれ門の中へ入っていく。
「あ、おにーさん。馬から降りていたほうがいいよ?」
果てさてどうしたものか―――並んでいる人数の多さに多少辟易としたキョウにそんな声がかけられた。
どこか面白がるような響きを乗せて、確かにキョウの耳へとその声は届く。
その声をかけた発生源―――猫耳の少女がにへへっと笑いながら馬上のキョウに小さく手を振っていた。
列の最後尾。キョウ達のすぐ前。そこに並んでいた猫耳少女だ
「どうせもうちょっと時間かかるから、お尻痛くなっちゃうかも?」
「ん? ああ、すまない」
忠告通りに馬上から降りると手綱を掴んで、少女の後ろに改めて並ぶ。
ディーティニアは半分寝かけているので起こさずに馬上へ放置したままだ。
「おお、おにーさん素直だね。人の話をすぐ聞くなんて」
「……まぁ、流石に馬に乗って列に並ぶ奴はいないだろう?」
「いやいや、意外とお偉いさんなんかは乗ったままだったりするんだよねー。ここはまだましだけどさ」
「ほー、そうなのか?」
「うんうん。王都なんかもう特権階級の集まりだし、ひっどいもんだよー」
声はひそめているが平然と上を批判する少女に、隣にいた少年が周囲を気にするように少女の脇腹を肘で小突く。
「……ニル。あまりそういったことは言わない」
「はーい。メルは心配性なんだから。皆これくらい言ってることじゃんかー」
「それでも。そんな事ばかり言ってて捕まっても知らないよ?」
「むー。わかったわかったって。ちゃんと気をつけるよ」
キョウは二人の少年少女がを改めてよく確認してみる。
ニルと呼ばれたのは猫耳少女の方だ。綺麗なセミショートの茶色の髪。大きな瞳が印象的で、くりくりと輝いている。しなやかな肢体は、搾られており無駄な脂肪が一切見られない。やはり印象的なのは頭から生えている猫耳だろうか。彼女の感情を表現するかのように、ぴこぴこと忙しなく動いている。その耳と連動しているのか、腰のあたりから生えている猫の尻尾がゆらゆらと揺らいでいた。
メルと呼ばれたのが猫耳少年、の方だ。姿形はニルと瓜二つ。いや、恐らくは双子。それくらいに同一人物に見える。違いがあるとすれば、ニルよりも短い茶色の髪。ショートヘアに切りそろえられている。それ以外は似通っていた。
しかし、話には聞いていたが本当に猫耳族なるものが存在しているとは……と、少年少女達の頭の耳をじっと見つめてしまうキョウ。エルフであるディーティニアがいるのだから、本当にいるとは思っていたが、実際に目の当たりにすると反射的に触ってみたくなる欲求を抱いてしまう。
「うんー? おにーさん、私達の耳ばっかり見てるけど、どうかした?」
「いや、失礼した。何分、猫耳族は初めて見たので。不躾な視線を送ったのは詫びよう」
「えー。猫耳族を初めて見たって……どれだけ田舎から来たのさー」
本気で驚いたのかニルは大きい瞳をさらに大きく広げて驚く。
彼女が驚くのも無理は無い。この幻想大陸では人間と亜人は協力して暮らしている。大抵の町には人間の方が多いとはいえ、亜人も少なからず見つけることが出来るからだ。東の大陸に関しては人間と亜人の比率は逆転するが、亜人の中でも人口が多い猫耳族を見たことがないという人間はそこまで多くは無い筈なのだが―――キョウが外界から来たということを知らない彼女らが驚くのは当然のことだった。
「ん……コーネル村の方から来たところだ」
「コーネル村!? 北の僻地にあるところだっけ……うっわーそれは仕方ないかもね」
コーネル村の方、とぼやかして答えたキョウの思惑通りに、見事に勘違いをしたニルが一人で納得をしている。
メルもパチクリと大きな目を瞬かせていた。咄嗟に脳内で北大陸の地図を描き、コーネル村の場所を探し出す。ニルが呆れたように、北も北。竜園に最も近い場所にある村として有名な、田舎の村だ。
「また辺鄙なところからきたねー、おにーさん。あ、ごめんごめん。こんだけ話しておいて何だけど、名前まだ言ってなかったよね。私は《ニルーニャ》。宜しくね」
「僕は《メウルーテ》。呼びにくかったらニルみたいに、メルって呼んでくれてもいいけど」
どうやらニルとメルという呼び方は、呼び易いように縮めていた名前らしい。
確かにニルとメルが本名だったならば、区別がつきにくい。親もそこら辺は考えてつけたのだろうが、結局縮めて呼び合っているのだから皮肉なものだ。
「ああ、だからこの街について詳しい話を聞かせてもらったら助かる。俺はキョウ。それでこっちは―――」
「……ワシはディーテ。宜しく頼むぞ、猫耳族よ」
キョウ達の会話で目が覚めていたのか、馬上からの挨拶。
ふわっと、周囲から見られないように口を手で押さえて欠伸をする。目尻から涙が一筋流れ、ディーティニアはそれを手の甲で拭った。どうやらようやく完全復活といった姿のディーティニアにキョウは近づくと、両脇に手を入れてひょいっと持ち上げて地面に降ろす。二人にとって既にこれが馬を下りるときの見慣れた光景だ。
「あ、連れはエルフなんだ。ほー、へー。随分とちっこいけど……妙な雰囲気纏ってるねー」
「……ニル。妙な雰囲気とか、結構失礼な言い方だよ」
メウルーテの嗜めるような発言に、ごめんっと軽く頭を下げるニルーニャ。
さして気にもしていないディーティニアが工業都市ネールへと続く門の方角を見やり、腕を組む。
「やれやれ。まさかここまで混んでいるとは……到着する時間帯が悪かったかのぅ」
「なんとも言えんな。ああ、二人の様子からいってここは初めてではないようだが……何時もこんな感じなのか?」
「んやー。今日は何かやけに混んでるね。いつもはもっとすんなり入れるんだけど」
「……あっ」
ニルーニャが普段と異なる街の様子に首を捻るが、一方メウルーテが小さく声をあげた。
まるで何か心当たりに思い至ったかのような様子だ。
「んー? 何か思い出したの?」
「……多分。確か今朝探求者組合で小耳に挟んだんだけど、第八級以上の探求者は強制的に依頼を受けさせられてた。何でも西の方でサイクロプスがでたって……」
「え、なにそれ!? 巨人の山々からこんな方まで出張ってきたの!?」
声を顰めていたメウルーテとは異なり、彼の口から出たとんでもない台詞に叫び声をあげたニルーニャ―――当然周囲の注目を集める結果となり、恥ずかしそうに顔を俯かせる。
双子ということもありメウルーテも、若干頬を羞恥で赤くしながら、誤魔化すようにごほんっと咳払いをした。
「いや、まだ情報が確定したわけじゃないらしいけど。もうちょっと手前の西の山脈で、巨人種が確認されたって。それで騎士団と探求者が合同で捜査にあたるんだって。それで街の警備が薄くなっているから、外から来る人には多少警備の目も厳しくなってるんじゃないかなぁ」
「なるほどね。と、いうか……私達も参加したかったなぁ。一旗あげるチャンスだったのに」
「どーだかね。命あっての物種だと思うけど」
ニルーニャとメウルーテがごそごそと話している間に、キョウとディーティニアが目配せをする。
まさかそんな大層な事態になっているとは考えていなかった。鉱山から逃げ出した人が巨人種のことを報告したのかとも考えたが、鉱山から定期連絡がいかなかったら結局は巨人種襲来はすぐにばれる結果になるのだから、果たしてどちら経由で情報がまわったのだろうか、と首を捻る。
派手に―――主にディーティニアだが、暴れまわったせいで地形が削れるというとんでもないことになっているため、犯人がばれないように二人ともが天に祈った。
「そういえば二人は、探求者―――でいいのか?」
「うん、そーだよ。北大陸に探求者は数いれど、私達に勝るものは無し!! 私達こそが北大陸にも名を轟かす若き探求者!! 人呼んで《双剣》のニルーニャとメウルーテ!!」
キョウの今更な問い掛けに対して、声高らかにニルーニャが胸を張って宣言する。
ドンっと背後に効果音でもついてそうな勢いで、名前を語った彼女ではあったが、再び他の待ち人達から注目されてしまった。調子にのっている彼女は兎も角、メウルーテは肩身が狭そうに身を縮こませ、今度は顔を真っ赤に染めている。
正直気持ちがわからないでもないキョウは、やりきりない憐憫の情を抱く。
「……双剣? 聞いたことないけどなぁ」
「俺も聞いたことないなー。誰か知っている人いるか?」
「人呼んで……? 誰が呼んでるんだよ」
「あの二人が自分で呼んでるんじゃないの?」
「それ人呼んでじゃねーし。自称じゃん」
ぼそぼそと聞こえる周囲の人間からの呟きがグサグサと音をたてて二人に突き刺さる。
メウルーテは可哀相なくらい縮こまり―――いや、既に体操座りまでして、膝の間に顔を隠していた。頭の上の猫耳は、元気なくぺたりとたれている。
一方のニルーニャは、そんな嘲笑にも似た周囲の言葉に、くっと歯を食いしばるも、未だ胸を張ったままだ。
「ふ、ふんだ!! すぐ有名になるんだから、私達!! 今から名乗っててもいいじゃんかー!?」
若干逆ギレにも見えなくは無いが、ガーっと周囲の人間を威嚇するように雄叫びをあげる。
一緒に話をしていたキョウとディーティニアにも、生暖かい視線が送られてきており、多少居心地が悪く感じられた。
「ん……で、その《双剣》の二人は、第何級の探求者なんだ?」
「……」
双剣と言って貰えたニルーニャがパァっと顔を明るくするも、キョウの言葉の続きを聞いて、正反対に表情に影を落とす。
聞いてはいけないことだったか……と後悔するも、それは遅い。一体話のどこに地雷が埋め込まれているか察知しにくい相手だと、ため息を吐きそうになる。
「……ま、まだ第九級……」
「ん、ああ―――九級なのか。てっきり十級かと思っていたが、凄いじゃないか」
「えへへ。そうそう、昨日第九級まであがったんだよ!! ってキョウさん……実はあんまり褒めてない?」
「いや、褒めてるぞ。凄く褒めてる」
「う、うーん。そうかな……」
いまいち納得しきれないニルーニャが両腕を組んでウーンと唸り始める。
実際、全体的な身体の動かし方にまだ素人臭さが残っていたため、まだ駆け出しだろうと踏んでいたが、どうやら一応は初心者の域を脱しているようだ。それに素直にキョウも驚いている。
そうこうするうちに結構な時間が経っていた様で、並んでいた人間も減っていき、ニルーニャとメウルーテの順番となった。二人は地面に置いていた荷物を担ぎ上げると、キョウとディーティニアに手を振って進んでいく。二人の性格を現すように、ニルーニャはぶんぶんと激しく手を振り回し、メウルーテは遠慮がちに小さく振っていた。
「まったねー、キョウさん!! 私達は《勇敢なる野兎の館》ってところに泊まってるから、暇があったら遊びにきてねー!!」
最後まで騒がしく去って行ったニルーニャを見送り、キョウとディーティニアは顔を見合わせた。
なんとなくあの明るさはミリアーナを二人に思い出させたからだ。空を見上げれば赤く染まっていた空から太陽は消えている。段々と薄暗くなっていく周囲に、なんとか今夜は宿で寝れそうだと安堵のため息をつけた。
「―――次の方。どうぞこちらへ」
門番に呼ばれ、キョウとディーティニアがそろって案内される。門を潜る手前、門に併設する形で扉があり、そこの中へと通された。
通された部屋はそれほど広くない。石造りで、明かりは天井から吊り下げられている魔法の光を灯した照明のみ。真ん中には木造の四角のテーブル。椅子が幾つか並べられており、テーブルの奥と向かい合う形で一人の警備兵が座っていた。
促されて椅子に着席。特に悪いことをしていない―――幻想大陸にきてからの話だが―――が、どうもこういうところは無駄に緊張すると、居住まいを正す。
「ええっと、お待たせして申し訳ありません。何分立て込んでおりまして……」
「いや、構わぬよ。思っていたよりもはやかったからのぅ」
「……ん、失礼」
警備兵から見えない位置から肘をディーティニアの脇腹に叩き込む。こういうときくらい敬語を使えという意味合いの突っ込みであったが、ごふっと咳き込み、眉を顰めて睨んできたが無視しておく。
しかし、その恨みを忘れず、彼女はおもいっきりキョウの足を踏んでくる。小柄な肉体の攻撃なのでたいして痛くも無い。全く痛がる様子を見せないキョウに、ディーティニアは舌打ちをするのが聞こえた。
「それで、お二人はどのようなご用件でこちらに?」
「実は先日北にあるコーネル村から旅にでることにしまして。それでまずはネールにてご厄介になろうかと。ああ、これが村長からの紹介状です」
「おお、拝見致しますね」
一体何時の間にそんなものを貰っておったのじゃ、と目を丸くするディーティニアに、ふっと苦笑を送る。
色々と説明することが面倒だったために、コーネル村に居た時に報酬の代わりとして紹介状を書いてもらっていたのだが、念のため用意していたそれが役に立つとは嬉しい誤算である。
「ええ、問題ありませんね。暫くこちらでご滞在の予定ですか?」
「はい。まずは街を観光させて貰おうかと」
「失礼ですがコーネル村とは規模が違いますので。慣れるまでは大変だと思いますが、頑張ってください。おっと、失礼―――あまり長い間引き止めるのもあれですし、どうぞ」
長引きそうだった話を切り上げてくれた警備兵が、立ち上がり扉を開けてくれる。想像以上に手早く終わったことに、コーネル村の村長に無言で感謝を告げた。
警備兵に見送られ、キョウとディーティニアは二人揃ってそのまま工業都市ネールの街中へと足を進めていく。
二人の前方に広がるのは―――見渡す限りの人、人、人、人。
歩くだけで肩がぶつかるのでは、と感じさせるほどに大勢の人間が歩いていた。
今、キョウ達が出てきた場所が、工業都市ネールの正門。北側に存在する、最も交通量が多い場所だ。そこから南へ一直線に伸びる大通りが一つ。其の途中で幾つか左右に別れている小道もあるが、そういった方面はまず通らない方がいいのはどの街でも一緒だ。道が複雑で間違いなく迷うということもあるが、小道を奥へ奥へと進んでいくといわゆる裏通り。様々な危険が潜んでいる―――かもしれない。
そこから数キロも続く大通りは中央で東西南北の十字路に行き当たる。それら東西南の門まで伸びた大通りもやがてそれぞれの門へと到達するが、基本的に南の門は閉鎖されている。何でも昔にとある事件があったせいで、使用されなくなったという噂だ。東西の門は北の正門に比べてやや小さい。だが、そこを訪れる旅人は正門よりも同等かそれ以上だ。
街には大小の家が建てられているが、流石にコーネル村の木造とは異なり、石造である。綺麗に色も塗られている家も多く、外観も良い。大通りには多くの露天が並んでいる。縦一直線の大通りは、その名に相応しく道幅が十メートル近くもあるが、その両側には延々と露天が並んでいるのだ。それを目当てでこれだけ多くの人が歩いているのか、と納得する。
周囲に響くのは露天商のいきの良い声。何々を安くする、何個サービスする、何かをオマケでつけるといった声が飛び交っていた。
「さて、どうするか」
「ふむ……露天を見て回るのもよいが、先に宿を取るとしようか。後になって満員で泊まれんと言われたら洒落にならんしのぅ」
「同感だ。さて、どこかお勧めはあるか?」
「さて。ワシもここは二年ぶりじゃしな。あまり長いこといたためしもないから良く分からぬ」
「《勇敢なる野兎の館》というところでも探してみるかな」
「あー。まぁ、そうじゃな。あやつら程度の探求者が泊まれる所ならば、そう高い店ではあるまいし。だが、あまりにも酷い宿だったら他の場所に変えるが、構わぬな?」
「ああ、勿論だ。お前の金なんだから、俺は文句を言える立場にない」
「ふむ。こーいうのをなんというのか。ヒモ、で良いのか?」
「……否定できないのが辛い」
やれやれと首を振ったキョウが、肩を落とす。
幻想大陸へ来て日が間もないので仕方ないと言えば仕方ないが、費用は全てディーティニア持ちというのが少々後ろめたい。早く竜鱗を捌いて、現地のお金を手に入れねば、と割りと本気で考え始める。
「とりあえず、《勇敢なる野兎の館》を探すとするか」
「そうじゃな。まぁ、何人かに聞けば見つかるじゃろう」
気楽にそう考えていた二人だったが、駆け出しの探求者が泊まれる宿は、ディーティニアの予想通り小さい宿であり―――知っている人を探すまで少々の時間がかかることになるのだった。
北大陸の辺境。
コーネル村よりも随分と東に行ったところにある港町コール。
海岸沿いに建てられたその町は、漁業が盛んでありそれを町の柱として成長していった。
それほど大きな町というわけでもないが、人口は数千人に達し、ようやく村から町への発展を遂げつつある場所だ。
まだ年端もいかない少女が、波止場で海を眺めていた。
漁に出た父がそろそろ帰ってくる時間。それに気づいた少女は、大好きな父を迎えに波止場に訪れたところだった。
三十分程度まっていただろうか。少女の視線の先、水平線の彼方からゆっくりと波止場に向かってくる一艘の船があった。
その船に乗っていた男性が波止場から手を振っている少女に気づき、立ち上がった。そして手を振り返そうとして―――。
ぐちゃっ。
遥か遠くの出来事が、妙に生々しい音を確かに少女へと伝えてきた。
突如海から現れた何かが、父親の上半身を食いちぎったのだ。残されたのは、鮮血を吹き上げている下半身のみ。何が起きたのかわからない少女は、ただ茫然とそれを見ていた。
ざぱんっと海面が盛り上がり何かが這い上がってくる。
海水のように綺麗な蒼肌をした巨大な竜種。テカテカと海水で濡れているのは、肌を覆う竜鱗。
十メートルはある巨躯をひきずりながら、第四級危険生物―――中位竜種の一。水竜が這い上がってきた。
一匹だけではない。地響きをたてつつ次々と姿を現してくる。その数は五を超え、十を超え、二十になったところでようやく止まる。
少女はなにもわからない。何も考えられない。
父が死んだショック以上に、今の事態を脳が受け入れられなかった。
その瞬間、急に空が暗くなった。まるで太陽が雲に遮られたかのように、陽光を止める。
いや、違う。雲が、光を遮ったのではない。別の何かの身体によってだ。
バサバサっと何かがはためかせる音がする。
空中に広がるのは数十を超える飛竜。数メートルの巨躯が雲霞のように空を支配していた。
そのどれもが少女の肉の味を想像しているのか、欲望に塗れた眼光を送っている。
そんな異常事態にようやく気づいた町の人間は、悲鳴をあげることも忘れて空と大地を茫然と眺めている。
本来ならばこんな光景は有り得ない。竜種は単体でも恐ろしい戦闘力を発揮する。それ故に基本的には群れで動いたりはしないのだ。下位竜種ならば数匹程度で纏まって動くこともあるが、数十単位という数で街を襲うということは、歴史上一度たりともなかったことだ。
一体でもこの程度の町を壊滅させることができる怪物が、これだけ姿を現している事実に誰もが恐怖で震えて動くこともっできない。
「そこのヒトよ。少々聞きたいことがある」
ビクンっと少女の身体が反応した。
ああ、なんだこの声は。身体が拒絶している。脳が拒絶している。この声を発している《存在》を見るな、と。今すぐこの場から逃げ出すんだ、と。人間としての本能が、必死で拒絶を繰り返す。いやだいやだいやだ、と。もう聞きたくない。もう、関わりあいたくない。今すぐ死んだ方がマシだと。
そんな絶望を体現した存在が天にいた。
飛竜よりも遥かに巨大な怪物。
ねじくれ曲がった人間よりも大きな角。竜と蛇が混ざり合ったような頭。十メートルを超える胴体。そこから生える長い尾。獅子の前足と巨大鳥の後ろ足という混沌とした姿だった。背には、飛竜の全長とほぼ同じ大きさの翼。それが空中で動く度に、地面に風が巻き起こる。
怪物が喋った―――少女が考えたそれは、間違い。
そんな化け物の背に、小さな一つの人影が佇んでいた。
そこに居たのは人間だ。その姿は人間にしかみえないが―――怪物の背にいる以上、人間のはずが無い。なによりも、伝わってくる恐怖が、巨大な怪物よりも、その女性から感じるもののほうが遥かに大きかった。
言葉では表現できない。少女はその女性を見てそう思った。
美しかった。あまりにも美しすぎた。絶世の美女という言葉も、相応しくない。神話の中の女神と表現しても罰は当たらないだろう。
豪勢なエメラルドグリーンのロングヘアーが腰まで伸びている。先端だけが少しだけロールしているのが印象的だ。そんな髪の隙間、米神のやや上のあたりから二本の角がはえていた。全身から滲み出ている気品が、周囲の存在全てを掌握する。薄く細く形作られた眉に、程よい大きさの目。瞳までもが、髪と同じく翠に輝いている。口元は引き締められ、赤い唇に視線が釘付けとなる。服の隙間からは、滑らかな白雪のような肌が見えた。幻想大陸では珍しい、ゆったりとした着物といわれる黒い衣を纏っている。
「さて、そなた達。ここ一月程度の間に幻想大陸へ訪れた送り人を知らぬか?」
脳内を蕩けさせる絶望の声が、少女だけではなく町全体の人間に届く。
だれもが、答えることが出来ない。知らないということもあったが、女性の言葉を聞いて正気を保っていられる人間がその場にはいなかっただけだ。
「やれやれ、無駄足だったか。我の勘はあてにならないな」
「―――どう致しますか?」
女性が乗っていた怪物がしゃがれた言葉を発する。
見かけはどうみても言葉を理解するように見えないが、それを覆すようにはっきりと確かな口調だった。
女性は、さてっと考え込む振りをするが―――。
「知らぬのならば、もう用は無い。喰っていいぞ」
そして、地獄の晩餐が始まった。
飛竜が、水竜が、それらの巨体を揺るがし、人々を喰らい始める。
時折あがる悲鳴は、彼らにとって最高のスパイスにしかならず。一方的な捕食しかそこにはなかった。
少女もまた、水竜の開けた大口を見ながら―――襲い掛かってきた激痛を感じるのも一瞬。意識を失い、生を終えた。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
人が喰われ、潰され、引き千切られ、恐怖の声のみが、港町コールの葬送曲となる。
そんな眼下を全く気にも留めず、女性は唇に人差し指をあて、何かを考え込むようにして物思いに耽る。
「―――何かござましたか?」
「いや、なに。あの気狂い女神が―――今更我ら王種の本能の枷を取り払う理由がいまいち掴めんのだ」
「……そうですね。何故でしょうか」
「果てさて、我にもわからぬな。或いは本当にあの気狂い女神が語った理由が全てかもしれん」
「……はぁ」
くくっと笑みを溢した女性は、眼下で行われている竜種達の晩餐会を眺めながら―――。
―――キミ達の本能の枷を取り払う返礼として、ボクはキミ達に一つだけ要求しよう。この一ヶ月以内に幻想大陸へ現れた《送り人》と戦え。そのためならば、どれだけの人が死のうが、国が滅びようが、幻想大陸が消滅しようが構わない。
あれほど幻想大陸の均衡に力を入れていた女神が、一体どういう風の吹き回しだろうか。
首を捻りたくなるが、それも追々判明していくか。そんな判断を下し、女性は未だ見ぬ《送り人》の姿を想像しながら怪物の背で佇んでいた。風が翠の髪をたなびかせる幻想的な光景。
女性は口元に浮かんだ期待の笑みに、まだ気づくことは無かった。
其は絶望そのものだ。其は恐怖そのものだ。其は混沌そのものだ。
この幻想大陸全ての生物の頂点。生きる天災。荒れ狂う災厄。単騎で幻想大陸を滅ぼせるモノ。
伝説に名を残す最強の種。伝承に語られる究極の生命体。
あらゆる竜種の王の一人。あらゆる竜種の始まりの一人。竜種の神祖。竜種の源流。
第一級危険生物。竜王種の一。
女性の名前は―――竜女王テンペスト・テンペシア。
最悪の災厄が嵐を巻き起こしながら動き出した。
6/10は帰宅がやや遅いので更新は出来るか今のところわかりませんが、21-22時の間にできるようならします。