九十六章 竜女王と悪霊の王
闇。ファティエルの見る景色は闇に染まっていた。比喩表現ではなく、現実に。
黒い影によって世界は覆われ、終末を連想させる光景に身体が震えるのをとめられない。
今自分たちがいる小高い丘になっている場所から、遠く離れた場所にてそれでも目立つ巨躯の悪鬼がいる。彼こそが人類の戦力を僅かな時間で壊滅させた原因。離れていながらも彼が放つ尋常ではない密度の圧力によってこの場に跪きたくなる。
悪鬼の足踏み一つで地が揺れて、咆哮一つで大気が震える。
一挙動毎に、大地を軋ませる理解の範疇を超えた存在が、嬉しそうに笑っていた。人類を壊滅に導いた悪鬼が、無邪気に、楽しそうに笑う様は子供のようですらあった。
そんな笑い声を打ち消す、衝撃が幾度となく鳴り響く。
肉を打つ音。骨を砕く音。鳴り止まぬ爆撃音染みた拳による見事なまでのハーモニー。
殴られ、蹴られ、それでも楽しげに笑うヤクシャのに姿を見て、愕然とする。
それを為している人物―――アールマティの姿を見て、ああっと反射的に吐息を漏らした。
一撃一撃が必殺の域。
全てが全て、急所を狙った最速最短にして、命を奪うことを微塵も躊躇わない覚悟を秘めた攻勢。
防御することも難しく、回避することすら困難。
あの悪鬼ですらも、現にその攻撃の前に身体を晒して、殴られるままになっている。時折、反撃をしているものの、それはあっさりと空を切る。一方的な戦いでありながら、それでもヤクシャは倒れない。
全身に刻まれた本来ならば致命傷となる傷が癒えていく。
身体を貫かれようと、心臓を打ち抜かれようと、悪鬼は倒れるどころか勢いを増していく。その反面、時間が経てば経つほど、アールマティから感じられる圧力が減少していく。あれだけの力を発揮するのはそう簡単ではない。何かを犠牲にしなければ不可能だ。故に長時間は持たないのだろうと、漠然とした直感が働いた。
僅かに感じていた希望という名の未来が、パキィリっと罅割れた。
勝敗は火を見るより明らかだ。暴虐の悪鬼が勝ち、そしてアールマティは敗北するだろう。
だが、彼女は戦うことを止めない。全てを塗りつぶす絶望へと戦いを挑み続ける。その姿が眩しくて仕方ない。今の自分には直視できない輝きを放っている。もしかしたら、という望みを抱かせる。
だが―――。
人類の理解を超えた強さを見せ付けたアールマティでさえも、魔王の力の前に敗れ去った。
絶望の具現化。人類のあらゆる希望も夢も未来も全てを砕く暴力の化身。魔王の前では万物等しく散り行くのみ。自分達が間違っていた。生半可な気持ちではなかったが、敵の力を甘く見すぎていた。
全ては自分の責任だと、神聖エレクシル帝国の頂点に立つファティエル=ハイランド=ルーメンアーツは深い後悔に包まれた。彼女が秘していた対魔族用の奥の手である神々の聖域も無意味と消え、もはやアールマティを助ける手段など神の奇跡にすがるしかない。ふと思いついたことを、違うな、と首を振る。例え神の奇跡が起ころうとも、この現状を打破するのは無理に違いない。それほどまでに魔王という名の災害は高く怖ろしかった。
アールマティへと止めを刺すために近寄っていくザリチュを遠めに、誰一人として動けない。いや、アルストロメリアだけが行動を開始する。転がっていた誰の武器かもわからない、ぼろぼろになった剣を駆けるついでに拾い、渇望の悪魔へと吶喊する。
その行動がやはり眩く見えた。如何なる絶望にも負けじと立ち向かう様は、こんな戦場でなお心を感動させる勇気を与えてくれる。
しかい、そんな光景を無意味と断じるのが魔王である。
アルストロメリアの眼前に突如出現した分厚い土の壁。ただの土で出来た壁ではないことなど一目でわかる。ザリチュの魔力で強化された防壁を見ながらも足をとめないハーフエルフが、視認も出来ない速度で剣を振るう。耳を劈く剣撃音を幾つも響かせ、それでも壁には微かな傷痕しか生まれない。放つ氷の槍さえも防ぎきる土壁は、人類と魔族の差を示しているかのようでもあった。
アルストロメリアがザリチュの壁を破壊しようとするのを、ファティエルは小高い丘となっている場所から見下ろしていた。この場所からなら遠く離れている魔王達の姿も良く見える。見えるだけで、それが何になるのか、と自嘲しながら周囲を見渡した。
帝国でも有数の勇者であり強者であった七剣も、近衛騎士も―――皆が皆、心を折られている。この戦場でまだ戦う気概がある者は、アルストロメリアとリフィアの二人だけだろう。だが、肝心のリフィアは既に生き残った騎士達の救出と撤退を促すためにこの場から離れている。アルストロメリアを手助けしようとするものはもはや一人もいなかった。
今度は自分の両の手に視線を落とす。
苦労しらずの白魚のような手が、今では薄汚れている。
こんな手で何かを守れるというのか。守れたというのか。自分には覚悟も決意もあった。あったはずだ―――だが、足りなかった。覚悟も決意も、そしてもっとも重要だった力も。何もかもが足りなかった。
「……終わり、だな。オレ様の代で帝国の終焉か。ご先祖様に悪いことしちまったなぁ」
ファティエルは静かに瞼を閉じた。
閉じた視界。聞こえるのは、障壁を砕こうと剣を振るい続けるアルストロメリアの剣撃音のみ。
誰も彼もが死を受け入れ、誰も彼もが絶望に呑まれる。
これが終焉。これで終幕。人類の歴史は、魔族の手によってついに潰える。
「―――帝国の歴史はくれてやるっ。だけどな、オレ様の矜持までは折らせない。折れてやるものかっ!!」
されど戦場に響き渡る美しくも苛烈な少女の咆哮。
瞼を空けた瞳に、力強い光が灯っていた。ファティエルの握っている錫杖に力が篭る。
深き呼吸を繰り返し、残された魔力と精神力を練り上げていく。周囲のマナがそれに呼応して、弾ける静電気のような音を繰り返す。いや、彼女の中に残っている分だけでは足りない。あたり一面のマナを奪いつくし、それでもまだ足りない。
たりないのならば、持ってくればいい。戦闘が始める前に使用した神々の聖域は、彼女が物心ついたころから意識して蓄えてきた力を上乗せした影響であそこまでの効果を発揮した。現状あれ以上の能力を発揮できるか。答えは否であり、是である。
過去からの力は全て使用してしまった。ならば、今度は未来の自分から前借して来ればいい。これから先、如何なる艱難辛苦が降りかかろうとも、乗り越えて見せよう。打ち砕いて見せよう。例え、二度と能力が使えなくなっても良い。命だって捧げてやる。必要なのは、今。このくそったれな現実を変える奇跡を起こしてみせる。
魔王の圧力も絶望も踏破したファティエルが、己の全てを賭けようとしたその時―――周囲の空気が変わった。絶望入り混じった、冷たくて暗い空気が色を変えていく。彼女は反射的に一歩を踏み出していた。眼下を見える光景に思わず息を呑み、凝視する。
アールマティを抱き支える一人の男。その男の登場によって、この場の流れが音を立てて変わっていく。その光景を見て、ファティエルは悟った。放つ気配だけで魔王さえもその場に押しとどめる男の姿を見て、何故か分からない確信を抱いた。
「……そうか。あんたがそうか。あんたがアールマティが語った男か。信じた男か」
―――どんな絶望的な状況でさえもひっくり返す、あたしが知る限り最強の男がね。
耳に聞こえるアールマティの幻聴に、ファティエルは口元に微かな笑みを浮かべた。
「しからば、オレ様も信じよう。お前が最後の最後まで信じぬいた男のことを」
ファティエルは絶対に退かぬという烈火の意志と、不退転の王者の決意を胸に抱き、錫杖をその場に突き立てた―――瞬間、無明の闇を晴らす漆黒の剣閃が、ザリチュを完膚なきまでに斬殺した。
「……はっ?」
僅かな音さえ聞こえない静寂が訪れる中、ファティエルの間の抜けた声だけが響き渡った。
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轟、と空気をうねらせて、パズズが戦闘体勢であったというのに、ろくな反応もさせずにテンペストが間合いを詰める。気がついたときには既に目の前に竜の女王の姿があった。それは一度翼をはためかせたただけの結果だ。
ヤクシャに比べるまでもなく、細くしなやかな腕。その握り締められた拳が軽くパズズの巨躯に打ち込まれた。ズンっと最初に来るのは軽い衝撃で―――やがて遅れてきたのは魔王の魔力障壁など容易く打ち破る竜王の打撃。血反吐を撒き散らしながら、パズズの肉体が地面を転がっていく。
追撃がくる、と必死になって体勢を整えた彼の真上から降ってくるのは膨大な烈風による圧力。立ち上がったというのに再び風の圧力で地面へと叩きつけられ動きを縛られる。ベキベキっと肉が潰れ、骨が軋む音がはっきりと聞こえてきた。久しく感じていない激痛に、呻き声しか出せないパズズを尻目に、テンペストは悠然と地を歩んでくる。
それは、その戦いは―――観客となっている者から見れば果たして戦いと呼べるものであったのだろうか。
この世のものとは思えない、十メートルもの巨躯を誇る異形の怪物が、東の魔王と称される魔族の王が、彼よりも遥かに小さい人型の何かに滅多打ちにされているのだ。
「―――ぐぬぅぅぅぅうううううううっ!!
吼える獅子頭の怪物は、押し潰そうとする圧力を撥ね退けて立ち上がると両の手を悠然と歩いてくるテンペストへと向けた。
「悪風悪病―――墜ちよ、テンペストォォォォオオオ!!
大気を焼き尽くす熱風の巨大な渦が巻き起こされテンペストの動きを封じる。服を、皮膚をチリチリと焦がす熱波に、僅かとはいえ彼女の顔色を変えさせた。
だが、そこからが本番。両掌から生み出された一条の熱線が、亜光速で竜女王へと迫り行く。間一髪で避けたテンペストの遥か後方へと飛び去っていき、彼方にある巨大な山を抉り焼き切った。
超光速の一撃をかわされたことに驚く悪霊の王は、だがその刹那の後には顎を蹴り上げられて、その巨体が宙へと浮かび上がる。顎が砕け、噛み合わさった歯が折れる蹴撃に、視界が揺れるなか、更なる追撃の一手が襲い掛かる。空へと飛翔したテンペストが、パズズを追い越しさらに上空から冷たい眼差しで一瞥。
「圧壊せよ―――西風の轟風」
力ある言霊の発動と同時に、対象となったパズズの巨躯が地に落ちる。先程受けた重力など歯牙にもかけない膨大な風圧が、彼の肉体を地面へと縫いつける。
パズズの巨体を押し付けられた大地は、放射状に罅割れていく。それでも止まぬ重圧に肺が潰され、呼吸困難な状態にされながら、この状況を打開するために必死になって考えを巡らせる。
強いのはわかっていた。理解していた。この幻想大陸に押し込められる以前より、テンペストの名はアナザー中に轟いていたのだから。それでも、ここまで力に差があるとは考えていなかった。戦力の彼我は予想よりも随分と差が開いていたのだとパズズも魔王としての力量を保持しているからこそ、はっきりと感じ取った。
「だからと言って、諦めるわけにはいかんのじゃ、竜の女王よ!!」
先程のリプレイのように、全身全霊の力を込めてテンペストからの呪縛を振り払う。激しく息を乱すパズズが、上空にて佇む己が敵へと顔を向ける。憤怒と憎悪に染まった獅子の表情が激しく燃え、一際鋭い眼光を放った。その眼光を見た瞬間、テンペストの身体がぐらりっとゆれる。
突如として自分を襲った倦怠感に、テンペストは僅かな驚きを抱いた。もっともその倦怠感は一秒も立たずして消え失せ、身体が自由を取り戻す。されど、その一秒の間にパズズが竜女王の下へと辿り着き、巨人種にも匹敵する肉体から放たれる拳が彼女の身体を強かに殴りつける。咄嗟にとはいえ両腕で防御したとはいえ、その威力は流石は魔王と褒め称えるレベルの一撃で、テンペストとて身体に痺れがはしった。
流れる動作でパズズは彼女の肉体を両手で掴むと、振り回しながら地上へと勢いよく投擲する。流石のテンペストもその勢いを殺しきれず、その肉体が大地へと着弾。激しい衝撃と砂埃。爆塵が、周囲一体へと振りまかれる。
「滅びよ、滅びよ、滅びよ!! 竜女王!! 貴様は今ここで死ねぇぇえええええええええ!!」
未だ粉塵治まらない地上へと向けて、猛る魔王の猛攻が続く。
先程は一条だった閃光が、今度は幾つも螺旋を描きながら眼下を穿つ。それが二度三度と、際限なく放たれていく。それだけでは終わらない。周囲一帯の風をかき集め、身体中の魔力を全て収縮させた、これまでとは異なる巨大さの翠に輝く熱閃が、神罰の如く地上を壊滅させた。大地に巨大な奈落の穴をあけたことから、パズズが放った閃光の威力は推して知るべし。
パラパラと粉塵が降り積もるさなか、パズズは地上の光景をじっと注視していた。
テンペストの死体を見るまでは油断など絶対にしない。ここから如何なる反撃が来ようとも対処できるように集中力を切らさず、戦闘体勢を崩そうとはしなかった。
シンっと痛いほどに空気が静まり、張り詰める中、ガラっと何かが音を立てる。岩でも落ちたのか、と推測したパズズの耳に届くのは、ズンっと巨大な何かが大地を踏み締める音。
「……今のは流石の我も痛かった。流石は噂に名高き悪霊の王よ」
響き渡るのは脳髄まで蕩けさせる美声。
美しさと甘さを、力強さを感じさせるテンペストの語らい。
「今は詫びよう。そなた相手に力を出し惜しむなどと愚かな真似をした我が至らぬさをな」
粉塵に隠された眼下にて、竜女王の台詞は止まらない。
だが、何故かパズズに伝わってきたのは―――かつてないほどの死の予感。
「そしてそれを気づかせてくれたそなたに感謝を。如何なる相手でも―――全力を持って相対すべきだということを改めて理解したぞ」
瞬間、粉塵を暴風が浚っていった。
粉塵が治まった地上に現れたのは、美しい翠の鱗に覆われた巨大な竜。パズズよりも遥かに大きな巨体が煌々と光を発している。鎌首をもたげる竜の顔が、死という存在が具現化された竜の女王が、上空にいるパズズを睨みつけていた。
その眼光に射抜かれた悪霊の王は、言葉を発することなく、陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと口を何度も開閉している。
「これは手向けだ。さらばだ、悪霊の王よ。そなたは強かった。あの世で存分に誇るが良い」
巨体な前足が地を踏み締め、がぱっと大きな口を開け空を仰ぎ見ると同時に長い首の鱗が列を成して開いていき、彼女の身体中から甲高い音を響かせる。ドンっと激しい音をたてるのは、テンペストの美しくも怖ろしい長さの尾。地面を勢いよく叩いた結果それだけで大地震を引き起こす。
大きく開いた顎が、宙の彼方にいるパズズへと照準を合わせる。口蓋の上方に展開された魔力障壁が、中央大陸中の風をかき集め、収束させていく。その障壁にあわせて生み出された翠色の球体が瞬く間に大きさを変えていった。
その対象となっているパズズは、ただ愕然と見ていた。
死ぬ。間違いなく死ぬ。あれを放たせては駄目だ。本能が、直感が痛いほどに叫んでいる。
だが、それでも身体が動かない。神経が通っていないのでは、と勘違いするほどに身体が動くことを拒絶している。
これが―――恐怖か。
獅子の顔を歪ませて、パズズは哂った。
高らかに、大陸中に響き渡るのではと思わせるほど大きく哂った。
「疾駆せよ……輝く東風」
そして放たれる翠の光球。
瞬き一つした瞬間に、それは避ける間も与えずにパズズの巨体を呑み込んだ。
その閃光は、空を射抜き雲の全てが消失し、空に蒼穹の大穴を空ける。昼間でも天に浮かぶ巨大な星目指して駆け抜け、時間にして数秒後にはその閃光は消え去っていた。
悪霊の王パズズと竜女王テンペスト=テンペシア。
超越存在二体による頂上決戦は、これにて閉幕。
結果は―――テンペストの圧勝であった。
主人公が登場したのでまた一話ずつ投稿していきます。文量は少ないですがご了承ください。
テンペストさんは強いのであっと言う間に決着。




