序章 カミ様と七つの人災
陽が沈みかけつつあった時間帯からポツリポツリと大地を濡らし始めた雨は、時が過ぎるのと比例して激しさを増していき、既に月が天上に昇る頃には土砂降りとなっていた。
季節は冬に差し掛かる今日この日、その雨は凍てつく寒さとなって周囲一帯を包み込む。ぶるりと身体を震わせる、底冷えする温度だ。
それもある意味当然のことで、周囲は巨大な木々に覆われた自然の大迷宮。普通の村人ならば決してよりつかない魔の森と呼ばれている樹海の一画だった。
そんな自然の大迷宮の奥地、珍しくも木々は存在せず、直径数十メートルもの開けた空間となった場所に、人影が一つ。
普通ならば見惚れるであろう、雪化粧を纏った巨大な山を遠方に眺めながら一人の青年が何かに腰掛けながらふぅっと深いため息をつく。
そこにいるのは不思議な青年だった。夜の闇と同化してしまいそうな黒髪は乱雑で、ただ短く切っただけという髪型だ。全くお洒落に気を使ってなさそうな髪形だ。まさに、ただ切っただけというのが相応しいだろう。服装もまた、外見を気にしていない髪形と同じで、遊び心一つない。黒一色で染め上げて、皺が目立つよれよれの着流し姿。見かけだけならば、三十手前くらいに見えるだろうか。心持ち細面で、鼻筋は通り、どこか人の目を惹きつける。ただし、頬や顎に僅かに残されている刀傷が、青年の魅力を半減させていた。いや、それ以上に彼の瞳。何を考えているのか理解できない―――否、何も考えていないだろう虚ろな視線で、天空から降り注ぐ雨をその身に受けながら空を見上げていた。そんな彼の横には、雨に打たれながらも白銀に輝く、見る者の魂までも魅了する不思議な刀が何かに突き刺してある。
こんな天候だというのに、青年は濡れることを全く気にせずに微動だにしていない。天空にも雨雲が広がっており、彼が見上げている空は薄暗いままだ。
どれくらいその状態でいただろうか。やがて雨は小雨になっていき、ピタリと止まった。雨雲も散っていき、その隙間からパァっと月光が地上へと降り注いだ。その清らかな光が暗闇に包まれていた世界を包む。天空を見上げていた青年はそんな光を若干眩しそうに眼を細めた。
そして地上におとされたその光によって、青年が腰をおろしている一帯が暗闇の中から浮かび上がる。
夜風が吹く。本来ならば肌を突き刺す寒さを伝えてくる筈のそれが、異様なほどのぬめりを帯びていた。
どろりとした不吉な空気。普通に暮らしていれば縁遠い、吐き気を催す死の香り。濃厚で濃密な、血臭。それが、今この時この場所で―――あらゆる生物の五感を刺激している。雨が強く降っていたというのに、その香りは弱まることを知らず。
青年を中心として、地面に横たわっているのは数百を超える死体。泥や血に汚されてはいるが、元は綺麗な銀色だったのが予想できる騎士のような鎧を着ている死体ばかりだ。
ある者は首から上を斬りおとされ、ある者は首を貫かれ、ある者は両腕を斬りおとされ、ある者は上半身と下半身を両断され―――誰もが無念と憎悪に塗れた表情のまま事切れていた。
青年が腰をおろしていた場所。そこもまた死体が積み重なれた小山。その頂点にて、なにをするでもなく青年は空を見上げ続けていたのだ。この空間を表現するならばまさしく屍山血河。血と臓物の匂いが支配する、この世の地獄。
「やぁ、調子はどうだい?」
鈴が鳴るような声とでも言えば良いのか。
地獄を連想させるこの場所で、やけに高い声が響き渡った。青年は少し驚いたのか、僅かに眼を見開き、声の発生源へと視界を下ろす。
青年の視界の先、死体の小山の麓となっているその場所に一人の少年―――いや、少女だろうか。神秘的な顔立ちの少女が青年を見上げていた。身長はぱっとみる限り高くは無い。青年が百八十を超えるということもあるが、それに比べると精々が百五十を上回るかどうか程度だろう。さらさらと風に靡く金髪。天上の蜂蜜をイメージさせる、清らかな輝き。肩までかかるくらいの長さで、反射的に触ってみたくなるほどだ。暗闇だからこそ映える、髪と同じ金色の両眼。可愛らしさと美しさの両方を印象付ける顔立ち。ただし服装はまるで青年を真似したかのように黒一色。ゆったりとした漆黒の巫女装束を羽織り、底知れぬ笑みを浮かべていた。道端で通りすがれば百人中百人が振り返るような美貌の少女は、口元を歪めながら、周囲の死体を全く気にするそぶりさえも見せずに、この場に自然体で存在している。
その少女を見た瞬間、言い知れぬ悪寒が青年の全身を包む。身体中のあらゆる毛が逆立ち、鳥肌が立つ。彼の三十年近い闘争の歴史の中で、これほどまでに得体の知れない何かを感じ取ったのは初めてだったのだ。
少女の質問を返すことも無く、彼の取った行動は単純明快。目の前に現れた尋常ではない脅威を切り払うことだった。
死体の山が爆発。幾つもの亡骸が軽々と宙に浮かぶ。それは青年が今まで座っていた死体の小山の頂上から駆け出した反動。ただ足元を蹴りつけただけ。それだけで、そのような現象が巻き起こった。
傍に突き刺してあった刀を引き抜き、一足飛びで地上から己を見上げていた少女へと飛び掛る。それこそ一秒にも満たぬ一瞬の出来事。常人ならば反応も許さぬまさしく疾風迅雷。
闇夜を引き裂く一筋の光が真一文字に銀光を残す。
切り払われた一太刀が、少女の首へと僅かな躊躇もせずに牙を剥いた。空気を引き裂く音も聞こえず、青年の刀が少女の首に叩き込まれる瞬間―――。
「いきなりとは酷いね? ボク以外だったら死んでるよ?」
くすりと少女はかすかに笑っていた。対照的に青年の目がこれまで以上に大きく見開かれた。無表情だった青年の顔に、初めて驚愕が浮かび上がる。
それもそのはず。何人たりとも防ぐことは出来ぬと思われる刹那の一刀を、あろうことか少女は右手の人差し指一本で軽々と受け止めていたのだから。
ミシリと音が鳴るほどに強く腕に力を込めるも、少女は笑みを崩さず空中で右腕はピタリと静止画を見ているかのように止まったままだった。
「正直驚いたね。キミの動きはボクがこれまで見てきたヒトの中でも群を抜いている。流石は世界政府からも恐れ、怖れ、畏れられる七つの人災の一人―――キョウ=スメラギ。キミは本当に素晴らしい」
舌打ちを残し―――キョウ=スメラギと呼ばれた青年は、大きく後方へと飛び下がった。
一瞬前まであった驚愕は既になく、相手の全てを見極めようとするかのように、少女の身体全体を凝視している。
己の全力の一太刀を指一本で受け止められるという理解できぬ出来事を前にしても、キョウの瞳は揺らぎはせず。それはまるで波一つない静かな湖面を連想させる。
「―――【ナン】だ、お前は?」
初めて口を開いたキョウの声は静かな空間によく響いた。少女の声とは真逆に、相手の脳に直接叩き込む深い低音。その声を聞いた少女の背筋にゾクゾクとした快感が電流のようにはしる。
「ふふふ。いいね、やっぱり。ボクを見て、【ナン】だと問えるその慧眼。本当に、キミはいい」
心底嬉しそうに口元を歪め、両手を広げる。
どこか恍惚とした表情で、少女は頬を若干染めつつも、キョウから視線を外さない。
「すまないね。キミを見つけるのが遅くなってしまって。だけどそれは仕方ないんだよ。何せボクからしてみれば、ヒトはあまり区別がつかないんだ。キミ達ヒトが、地上に這う虫を区別できないように」
ぐしゃっと地面に転がっている死体を踏みつけながら少女は足を一歩踏み出してきた。
おぞましい圧迫感がそれとともなって迸ってくる。周囲の空気が凍えていくかのような幻想。圧倒的な強者の気配が、世界を蹂躙していく。
「だからこそ、キミを見つけたときは本当に驚いたものだよ。まさか、本気でボクを殺そうなんて考えているヒトがいるなんて、想像もしていなかったからね」
どこか狂ったような、三日月を思い描かせる酷薄な笑みを口元に浮かべ、少女はゆっくりと歩いて行く。
「キミを見つけたのは一年前かな? それからずっと観察させてもらっていたけど、ごめん。もう我慢できない」
その瞬間、音が聞こえた。パキリと何かが軋む音がキョウの耳に届いた。
その音は一度だけではなく、間断なく続いていく。パキリパキリと何度も何度も何度も何度も。
キョウと少女の周囲―――空間に、まるで壁に皹がはいるかのように、亀裂が入っていく。音が鳴るたびに、その亀裂は数を増していく。こんな異常な事態だというのに、キョウは驚く様子も見せずに、横目でその自分と少女を中心に罅割れていく周囲の空間をちらりと眺めただけで、すぐさまに視線を少女へと戻す。
「ボクは、あまり我慢強いほうじゃないんだ。だから、今ここでキミという名の青い果実は味見させてもらうよ」
周囲一帯―――さらには夥しい死体が転がっている地面さえも、亀裂に埋め尽くされ―――。
「さぁ、喜べ!! 七つの人災の一!! キョウ=スメラギ!! キミが目指す神殺しの最終目標―――カミは、今キミの前にいる!!」
喜びに満ち溢れた宣言を合図に、轟音が鳴り響くと同時に亀裂が入った空間が砕け散る。
激しい音とともにガラスのように砕け散ったそれらは、まるで淡雪のように一瞬で消え去っていく。
キョウの視界に映るのは、純白。一切の汚れ無き真白な世界。天も地も、視界に映る限りがただ白かった。
地面もはっきりとしない、白に包まれた空間だというのに、何故か当然のようにキョウはここを受け入れている自分がいることに気づく。四方八方に一切の障害物もなく、水平線の彼方も見えない。ただ眼が痛くなるほどの純白。
キョウは視線をぐるりと辺りに向けていたが、やがてふぅっとため息をついて再度少女へと戻した。ため息一つついただけで、特に驚愕や恐怖といった感情を見せない様子は、どこか何かが可笑しい。きっと誰もがそう思う筈だ。
「そうか。お前が本当にそうなのか? お前が本当に―――カミだというのか?」
「うん、そうだよ。ヒトからはそう呼ばれている。女神エレクシル―――とね」
キョウの静かな問いに、女神エレクシルと名乗った少女は―――女神というに相応しくない邪悪な笑みを浮かべたまま肯定する。そんな彼女の肯定の言葉を聞いたキョウは、薄く笑みを浮かべた。
目の前の女神を真似するかのように、口角を吊り上げる。それは不吉な笑みだった。人として越えてはならない境界線を越えてしまった者の嘲笑だった。
冷たくも美しい、残酷な表情のまま、キョウは刀を一閃。シャリンっと刃が奏でる金属音が空気に溶ける。
「―――感謝しよう、エレクシル。俺の前に現れてくれたことを。お前を目指し、歩み続けてきた俺の想いが報われた」
両手で握り締める刀の柄が、ミシミシと悲鳴をあげていた。
それはキョウの今の感情を表すかのようで、それほどに強く握り締めている。当の本人は恐らく無意識のうちだろう。自然と身体中から溢れ出す歓喜を、押さえ込めないでいる。
「この日この時この場所で―――果たさせてもらうぞ、我が大願」
轟っと音を響かせるほどにキョウの身体から滲み出る戦意。実体を持ったかのような、形無き黒の刃。キョウ=スメラギがこの世に生を受けて三十年―――殺すことだけに全てを費やしてきた殺戮者の気配は、既に人の枠組みを超えていた。
たった一つの目的だけを追い求め、直進し、邁進し、遥かな高みへと上り詰める。人としてのあらゆる欲求を削ぎ落とし、己の一太刀にのみ命を賭ける。神殺しという目標。誰もに呆れられ、笑われた目的のために生涯を投げ打った剣士の意識は今ここに、極限にまで高められていた。
キョウの肉体から迸る殺気の具現化。本来ならば形を持たない幻想の刃で相手を死に至らしめる―――そこまでに至った殺意の嵐を身体中に浴びてなお、エレクシルは愛おしそうに笑っていた。
まるで最愛の相手を見るかの如く。女神は優しく微笑んでいた。
呼吸を一つ。鋭く短く吐いたキョウは、両足に力を込める。
白色の大地を蹴りつけ、己の頭の中で刀を振るう軌道を描く。エレクシルへと斬り込むイメージを一瞬で固めた。その間、僅かコンマ一秒。
両足に溜めていた力を爆発。頭に思い描いたイメージそのままに、キョウは突撃しようとして―――体が全く動かないことに気づいた。まるで根を張ったかのように、両足がその場から動かない。
いや、足だけではなく、刀を握る両手もそうだ。それ以外にも呼吸さえもままならない。眼球さえも、まるで縫い付けられたように前方にいる女神から逸らすことが出来なかった。
何故だっと頭の中で疑問が繰り返される。
空気が凍ってしまったとでもいうのか、寒さは感じないのにカチカチと歯が鳴っている。
歯だけではない。全身もそれを見習うかのように、カタカタと小刻みに震えていた。
その原因―――それは考えずとも分かっている。
最早数えるのが馬鹿らしくなるほどに奪い続けてきた命。数万数十万にも及ぶ、殺戮の果て―――神殺しという目的を果たすために歩み続けてきた修羅道。感情を殺し、魂までも擦りきり、ようやく辿り着いたこの 領域でさえも、笑ったまま相対できる、カミという名の怪物。
キョウの放つ殺意の刃が、玩具に見えるほどにおぞましい気配。
神々しいという表現に相応しくなく―――キョウの気配よりなお、深く、黒く、暗い。果ての無い深淵。覗き込んだだけで、魂までも引っ張り込まれる漆黒の領域。
自分よりも遥かに小さな姿の少女。だが、それは数百メートルはありそうな圧迫感を持ったナニかが、無理矢理人の姿を取っているだけのような―――。
桁が違うのではなく。レベルが違うのでもなく。
今この世界の支配者である少女の姿を取っているナニかは―――文字通り次元が違う超越者だった。
エレクシルは右手を天に向かって掲げる。
なにをするのかと訝しがる暇もなく、無造作に手をキョウに向かって振り下ろした。
―――瞬間。
ぐしゃり、っと奇妙な音が耳に残った。
全身を襲う激痛。だが、それも一瞬で終わる。キョウの視界の半分は闇に包まれ、霞む最中に上下反転したエレクシルが相変わらず笑っていた。
動かなくてはと朦朧とする意識で、四肢を躍動させようとするも、全く言うことはきかない。どろりとした液体が感覚がなくなっていくキョウの頬にピチャリとかかる。
まさしく一瞬。キョウに避けることも防ぐことも許さない、不可視の鉄槌。
天空より舞い降りた審判の破壊に、彼は四肢を潰され、頭の右半分をこそぎ取られた。どのような手当てをしても延命は不可能。【アナザー】と呼ばれるキョウ=スメラギが生き抜いてきた世界―――そこで七つの人災とまで呼ばれるに至った、剣鬼を瞬く間に屠った女神は、眼前で虫の息となっている青年を愛おしそうに見つめ続けている。
「……これ、が……カミの、領域、か……」
ごぽりっと血が喉元を通り過ぎ、純白の大地を濡らす。
詰まりながらも、そう呟いたキョウの独り言に、エレクシルはコクリと頷いた。
「うん、 これがボクの世界。ヒトでは到達できない次元の話。どう? 自分の身の程を最後に知れた気分は?」
クスクスと笑みをこぼす女神は、何の容赦もなく瀕死のキョウに問い掛ける。脳髄にまで響き渡る不快な嘲笑。
薄暗く染まっていく視界。遠くなっていく意識。それに耐え切るように、キョウはぶつりと最後の力を振り絞り唇を噛み切る。もはや僅かな痛みしか感じないが、ほんの少しだけ意識を取り戻した彼は―――。
「……届かない、ほど……じゃない、な」
―――そう言い切った。
負け惜しみでもなく、強がりでもなく、キョウ=スメラギという剣士は心の底から圧倒的な強さを見せ付けた女神に向かって、かすれた呟きを残す。
何も出来ずに潰されたというのに、そう言い残す男を前にして、エレクシルは―――。
「―――あっは」
心底愉快そうに笑った。
「あは!! あははははははははは!! あははははははははははははははははははは!! あははははははははははははははははははははははははは!!」
嗤う。女神は嗤う。
美しい顔を狂気に歪ませ、エレクシルは嗤い続ける。
存在としての絶望的な差を知ってなお。圧倒的な力の差を知ってなお。次元の異なる恐怖を知ってなお―――自分を斬れるとほざく剣士がとてつもないほどに愛おしい。
彼を見つけたのは奇跡ともいえる偶然だった。
気が遠くなるほどの年月を生き続けてきたエレクシルが、たまたま見つけた剣士。カミを斬ろうと、 世界を敵に回しても歩み続けた剣に狂った若き青年。ヒトという種でありながら魔法も使えぬ身で、その剣一つで最悪の人災とまで呼ばれるに到達した剣鬼。
退屈しのぎにはなるかと軽い気持ちで考えていたが、それは違った。的外れにも程がある。
目の前の人間はエレクシルの予想を遥かに凌ぐ、可能性を秘めている。
「―――ああ、ああ。やはりイイね、キミは。本当に、 カミを斬れるかも知れないよ」
パチンとエレクシルが指を鳴らす。
それと同時にキョウの朦朧とした意識が暗転。それも一瞬で―――次の瞬間には、視界は元に戻っていた。
何が起きたのかと若干驚き、キョウは自分の身体に目を走らせる。全くの無傷。幾つもの古傷は残されたままだが、先ほどに四肢を潰された傷痕は一つとしてなかった。痛みもない。だが、先ほどの出来事は夢や幻ではなく、実際にあったことだと生々しい痛みが伝えてきている。
そんなキョウを見ていたエレクシルは、クスリと笑った。
「 ここはボクの築いた領域。ここでならキミの死程度なら なかったことにするくらい、容易いことだよ」
人の生死すら容易く操る超越神は、事も無げに言い切った。
両腕を天に向かって掲げて、彼女は笑う。
「ボクにそこまでのことを言い切ったんだ。その褒美にチャンスをあげよう。キミが諦め無い限り、ボクと戦える機会を与え続けよう」
笑いながら両手をゆっくりとおろした瞬間、ズズズっと音をたてて女神を中心として爆発的に膨れ上がる黒い旋風。
先ほどの気配を超える殺劇の嵐に、キョウはビクリと一瞬身を竦める。
エレクシルは右手を水平に掲げ、人差し指をキョウに向け、親指を立てる。まるで子供の遊びでやる拳銃の形だ。人差し指の先をキョウの頭へと向けて―――。
「バンッ」
短くそう呟いた。
一度死を体験したためだろうか、先ほどは全く動かなかった肉体が即座に反応した。脳内に響き渡る死の予感を振り払うように、必死に身をよじる。
身体を捻った瞬間、丁度キョウの頭があった空間を、不可視の衝撃が音をたてて貫いていった。ぶわりっと背筋が粟立つ。もしも後一瞬でもかわすのが遅かったならば、間違いなく頭が吹き飛ばされていた。
「―――驚いた。もう 動けるのか。後二、三回は死なないと無理かと思ってたんだけどね」
言葉とは裏腹に全く驚いた表情も見せずに、エレクシルは右手の人差し指を横一閃。
空間をなぞったそれは、音が後からついて来る亜音速の真空波となって、荒れ狂う。もしも色をつけたならば三日月と理解できた不可視の刃が、キョウに向かって弾け飛ぶ。
認視することはできないが、自分へと迫る死の予感を全身に浴びつつ―――。
「―――はっ」
乾いた苦笑を漏らし、全身を切り刻まれ、首を両断され、ゴトリと音をたてて白色の大地へと頭が落ちる。
激痛は一瞬。そして再び意識は暗黒の世界へと導かれた。
そして再度意識を取り戻した時には―――やはり、無傷の肉体。それと、笑みを湛えている可憐でありながらも禍々しい漆黒の女神。
「キミは誇っていいよ。ボクの初撃をかわすことができたのは、キミで 二人目だ」
何度目になるだろうか、クスクスと笑いを抑え切れない女神は、二度目の死を迎えても僅かな絶望も滲ませない剣士に、陶然とした視線を向ける。
「さぁ、キミは果たして 何回の死に耐え切れるかな?」
どこか嬉しそうにそう語るエレクシルとは対照的に、キョウは冷静な視線で女神を射抜いている。
キョウとエレクシルの距離は僅か十メートル。
本来の彼ならば、瞬きする間もなく距離をつめることが可能な間合いだ。
だが、それが出来ない。一歩足を踏み出そうした瞬間、底知れない悪意が少女の背後に立ち昇る。ヒトを斬る事をなんとも思わない剣鬼でさえも、怯ませるに値する威圧感。これに比べたら、キョウがこれまでに戦ってきた強敵も、塵芥に等しいと言い捨てるのも容易いことだ。
鉛をつけたかのように、足が重い。前方へと踏み出すのを身体中が拒否している。
それでも、彼は諦めなかった。臆さなかった。
笑みを浮かべた怪物が、一度目の死を与えてきた天からの不可視の鉄槌を放ってきた。
上空から降り注いでくる悲鳴をあげたくなるほどの圧迫感。この場から逃げ出したいと思う心を押し潰し、視線だけは女神に向けたまま―――。
「ぉぉぉぉぉぉおおおおお!!」
獣のような咆哮をあげ、弾丸の如き一つの物体となって前方へと駆け抜ける。
ズシンっと激しい地響きと震動。白色の世界がぐらりと揺れた。刹那の時をもって命を繋いだ、彼の背後。広範囲に渡ってぶわりと生々しい死の衝撃が、背後からキョウの身体を撫で付けた。
一瞬で相手との間合いを半分以上も詰めたキョウの両足に再度力がこもる。断裂しそうなほどに筋肉が躍動。
次の瞬間には己の刀は、エレクシルの首を刎ねることを可能とする距離まで到達できると確信したその時、薄ら寒い笑みを見た。初撃をかわされた女神は、その行動を褒め称えるように、賞賛を視線に乗せてキョウへと送る。
疑問に思う暇もなく、エレクシルはキョウへと向けた右手の掌をぎゅっと握り締めた。
今度は苦笑を漏らす余裕もない。左右から急激に襲い掛かってきた超重力。
それは易々と人の肉体を砕き、圧し折る。肉と骨が同時に砕け散る音を最後まで聞く事はなく、キョウの意識は闇へと誘われていった。
三度意識を取り戻せば、やはり変わらず十メートルほど前方に女神は優雅に立っている。
圧し折られた肉体は元へと戻り、粉々になったはずの刀も右手で握り締めたままだ。
痛みは既に無くなっているが、圧殺された感覚を思い出し、幻痛がズキズキと体を蝕む。
「……ここまで、容易く殺されたのは初めてだ」
「それはそうじゃない? だってこれまでに死んでたら、キミはここにいないわけだし」
「言われてみればそうだな」
当たり前といえば当たり前の女神の返答に、両肩をすくめて答える。
三度も殺されて多少頭が鈍っているのかもしれない、と自嘲した。
自分が死んだという恐怖。計り知れない激痛。それらを三度経験しても、キョウ=スメラギはどこまでも自然体のままで―――それを見たエレクシルは、言葉では表現できない不思議な感覚を胸の奥に感じた。
「―――まぁ、いい。大体、掴めてきた」
「ん、何―――」
軽く首を捻っていたキョウの言葉に、エレクシルは最後まで言い切ることが出来なかった。
これまでキョウの身体を縛っていた殺気による束縛を、今度は容易く引き千切り、剣士は疾風と化す。
瞬きをした一瞬の間を盗まれ、僅かに驚いた女神の懐深くに踏み込んだキョウは、地を這う下からの半円を描く斬撃を見舞う。その半円はどこまでも美しく、どこまでも華麗で―――だからこそ、恐ろしかった。
一切の無駄のない、見る者の魂までも魅了する、白銀の輝き。煌くのは白色の世界でさえも輝きを残す、強き銀円。
だが、その輝きは必殺とならなかった。死角となった真下からの剣閃を女神はあろうことか、親指と人差し指のたった二本でまるで羽毛を掴むかのように、摘まんで受け止めていたのだから。優しく、軽く、そして愛おし気に。
全力全速の一撃を、軽々と受け止めた女神だったが、彼女の両目には明らかに賞賛の光が見受けられた。まさか自分が防御する必要があるとは思っていなかったのだろう。
彼女が纏う桁外れの戦意は、ヒトが耐え切れる領域を遥かに超えたプレッシャーだ。前へと踏み出してくる勇気と意思を併せ持った人間など、エレクシルが知る限り存在していないし、事実これまで見たことは無かった。
だが、キョウは違う。三度死んでもその心は折れる兆しを僅かたりとも見せはしていない。さらにはあろうことか、カミの放つ重圧を軽々と跳ね除け剣を振るってきた。
「―――ああ、ああ、ああ。イイ。イイ。凄く、イイ」
どろりと、地獄の底の―――更なる深遠から這いずりでてきた亡者の如き、暗い声が女神の口から漏れた。相変わらず耳ではなく、脳に直接響き渡る不快な声。ギシギシと脳髄が痛む。
気がついたときにはエレクシルの小顔がキョウのすぐ横にあった。息が吹きかかるほどに近く、なにやらとろんっと目尻を下がらせ、艶っぽい表情のエレクシルはぴちゃりと音をたてて剣士の頬に舌を這わせる。突然の凶行に、ぞぞっと嫌悪感が背筋を伝う。
何をと問う暇もなく、首元に激痛が奔った。
よく見れば刀を半ばから圧し折られ、折った刀身でキョウの首を掻っ切られていたのだ。
こひゅーっと呼吸が切られた首元から漏れ出る。
痛みに耐え、後方へと逃げ出そうとしたキョウを追いかけるように女神の片手がしなった。軽く振られた筈の掌が、頭に触れた瞬間、弾けた。まるで炸裂弾を叩き込まれたと勘違いするほどに容易く、粉々に人の頭蓋骨は砕け、脳髄が飛び散った。
―――それが四度目の死。
突如ブラックアウトしたキョウの意識が浮上してみれば、またもや白色の世界。
そして、頬を若干赤く染めた狂った女神。それが、キョウの視線の先に立っている。
四回目の敗北を喫したことに、ため息を一つ。ここまで完膚なきまでに敗北したことは一度としてない。それこそ自分と同格扱いされている他の七つの人災と戦った時でさえも、互角以上に渡り合えた。
しかし、目の前にいるカミの底は未だ見えない。ここまでの差を見せ付けられたならば逆に清清しい。いや、逆に感謝の念さえも彼は抱いた。
幼き頃から目指してきた剣の目標。最終到着地点―――それがこれほどまでに高き頂だったことに、口元を綻ばせる。
今度はキョウが動き出すよりも速く、女神が片手を振るう。
ピキリっと空間が悲鳴をあげる。横手に軽く振ったその空間が削り取られ、爆発的な破壊力を秘めた突風となってキョウへと向かって降りかかる。
だが、その行動を読んでいたのか彼は、爆風が巻き起こるよりワンテンポ前に動き出していた。
その場所から大きく右手へと逃げ延びたキョウは、紙一重で命を拾う。物質的な質量さえも持った爆風が直撃していれば、あっさりと五度目の死を迎え入れていた筈だ。
逃げ延びたキョウへと、女神は二度目の戦いのときと同じ様に人差し指を突きつけ親指で立て、拳銃を形作った片手を向ける。バンバンバンっと口ずさみながら、放たれたのは不可視の閃光。
音と指の方向だけを頼りに決死の覚悟で、キョウは回避を試みる。一閃目は、頭をさげた刹那の後に上空を通りすぎていった。ジュワリとかすった髪の毛が幾つも蒸発していく。二閃目は、回避しようとするも間に合わず、直撃は避けたものの左手を半ばから持っていかれた。関節の辺りから消滅するも、血は吹き出なかった。あまりの高温に触れただけで焼け焦げてしまったのだ。片腕が消滅したのと同時に止血にもなったことに、皮肉気に口元を歪ませる。
そして、三閃目。不可視のそれを避けきるのは不可能と断じて、右手の刀を一閃。当然、弾くことが出来る筈も無く、軽々と刀を砕き、消滅させ、胸元を抉り通過していく。胸に開いた大穴に視線を向けるが、ガクリと音をたてて両膝をつく。白色の大地に身体を横たわらせ―――五度目の死を受け入れた。
一体何度目になるかわからない程に蘇生と死亡を繰り返したキョウは、再び意識が浮上するのを自然と感じ取っていた。
慣れたものだと、自嘲しながら視界一杯に広がっている果ての見えない純白の世界に目を細める。ふぅっと息を吐き、首を軽く回す。コキコキと骨が鳴った。
最初に会った時から全く変わらない笑みを浮かべている女神は、そんなキョウの姿を見ながら可愛らしく唇に人差し指をあてて、小首を傾げる。
「凄いね。一体何度死を体験したら、キミの意思は音をあげるんだろう?」
「―――さぁな。まぁ、たかが 十六回程度で折れるほど、軽い気持ちで戦っているわけではないと言っておこう」
「……数えていたんだ。少しばかり驚いたよ」
パチパチと手を叩き、褒め称えるエレクシル。
一方賞賛を送られたキョウは、特に反応することもなく再度ため息を吐いた。
言葉に出したとおり十六度の死を迎え入れた訳だが、それだけの壮絶な体験をしながら当の本人は変わった様子を見せてもいない。ある意味異常なことではあるが、それに気づいているのは気狂いの女神様ただ一人。
「悪いが驚くのは、もう少しだけ取っておけ」
「うん? 何か新しいことを見せてくれるのかい?」
「―――ああ、覚悟しろ。俺のとっておきを見せてやる」
くっと口元を歪め、とんっと軽やかな音をたてて剣士は疾駆する。
確かに速いが、これまでと特に変わったところは見受けられない。速度もタイミングも何もかも、それらは全く同じだ。
面白いものを見せると言った割には、普通すぎて微かに気持ちが沈む。いや、これだけの死を経験してなお、向かってこれる彼が凄いのだと思いなおすも、決して心が折れることの無い鋼の意思を宿した剣士といえど、そろそろ潮時かな―――と、細めた目は絶対零度を思わせるほどに冷たくなっていく。
悠久を生きるこの身。世界を見守り続けて幾星霜。
永遠に続く牢獄にも似た神々の生。そんな時にふと見つけた神殺しを掲げる青年。
泡沫にも等しい、微かな戯れには確かになった。考えていたよりもずっと楽しむことができたのは僥倖だ。
心の底から感謝を捧げ―――エレクシルは、手を掲げ、一直線に振り下ろした。
天と地を割る手刀。一振りの剣をイメージさせる彼女の手刀は、圧倒的な破壊力を巻き起こし、音速の刃となって向かってくるキョウを迎撃せんと飛翔する。
それは人ではかわし得ぬ、超速の衝撃刃。万物一切を切り裂く、神々の斬閃。人とは比べるまでもなく、如何なる魔法も超越した驚天動地の破壊の一閃だった。避ける時間もなく、防ぐ術もない。確実に死を齎す必滅の攻撃。
だが―――。
キョウはエレクシルの放った暴虐の嵐から逃れている。
まるで彼女の攻撃を予知していたかのように、エレクシルが手刀を振り下ろす間際、大きく攻撃範囲から脱出し、間一髪の差で命を拾った。
十七度目の戦い。エレクシルからしてみれば戯れにも等しい殺し合い。だがキョウにとっては、神殺しという大願を果たすための戦闘。両者の戦いに対する姿勢も覚悟も桁が違う。
無駄に殺されていたわけではない。相手の呼吸。相手の癖。相手の間合い。相手の技。それらを僅かたりとも見逃さないように、一挙手一投足を頭に叩き込んでいた。故に―――キョウは、女神の先を取れる。
ヒュウっと女神は口笛を吹く。
必殺の覚悟で放った一撃を避けられたことに、素直に賞賛を抱いた。
白色の大地を激しく蹴りつける、漆黒の獣。黒き服をはばたかせ、刀を携えた剣鬼が世界を駆け抜ける。
そんなキョウに向かって、右斜めに振り下ろした手刀が次元を切り裂く。
三日月型の不可視の筈の旋風が、剣鬼に対して撃ち払われた。しかし、ほんの微かに横に身体をずらしただけで、キョウの迫ってくる速度は緩まない。身体をずらしたその空間を、激しい音をたてて切り刻んでいった。
当たれば死ぬ。それを身を持って知っているというのに、ミリ単位の見切りを示して見せた妙技に舌を巻く。
そこまでの神技を見せ付けたキョウの姿に、くすりと笑みを浮かべた。
二度の神罰を潜り抜け、剣士の姿はエレクシルの間合いを零とする。懐に入り込んだキョウは、一際強く足を踏み込んだ。両足が白色の地面を踏み砕く。世界が怖れた悲鳴をあげる。女神の支配下にある領域を轟かす震脚が、激しく響き渡った。
―――この一撃くらい、受けてあげようかな。
神である自分とここまで戦うことができたのは、人間では間違いなくキョウ=スメラギが初めてだ。恐らくはこれから先にも、彼に勝る者は現れないだろう。そう考えたエレクシルは、口元を歪ませた。
彼女はカミだ。この世界―――アナザーの創世記からあらゆる存在を見守ってきた不老不死の唯一神だ。
故に、どれだけの力を込めようとも、どれだけの妙技であろうとも、ヒトでは決して届かぬ高みに住んでいる。
だからこそ、驕っていた。だからこそ、見誤っていた。
カミを殺すためだけに―――生涯を費やしてきた、キョウ=スメラギの執念を。
彼を見つけたのは一年前。たった一年しか観察していなかった彼女は、キョウの全てを知っていたわけではない。一年という短い期間で、目の前の剣鬼の全てを知ったと勘違いをしてしまったカミは、愚かにも敢えて彼からの一撃を自分と渡り合った褒美に受けて立とうと考えてしまったのだ。
「―――お前を斬るぞ」
気狂い女神を凌駕する、更なる深淵に身を置き続けるヒトの静かな凶声が聞こえた。
バックンっと、エレクシルの心臓が激しく胸を打つ。決して乱れることの無かったカミの呼吸が異様な圧迫感を受けて、喉で詰まった。ぶるりと彼女の身体が痙攣する。
目が覚めるような、純粋な殺意。懐深くに踏み込み、刀を握りしめ、真横からの一閃。円月を描くその斬閃は、これまでのどの軌跡よりも底冷えする気配を漂わせていた。
刀が振り切られるより速く、ぶわっと死の香りが駆け抜ける。流れ込んでくるような、黒い激流。
女神の全身を打ち据える死の突風には、一つしか無かった。迷いも、弱さも、心でもなく―――単純なまでに、カミを殺すという意思だけに覆われた一つの死、そのものだった。
キョウの宣言。
それは、如何なるモノも斬ろうとする、剣を極めたヒトが放つ、一種の究極の一撃。
「―――っ!?」
初めて、初めて女神の表情が揺らいだ。
そこにあったのは歓喜ではなく、恐怖。自分の理解の外の範疇に足を踏み出した剣士の一手。
意味のない言葉がエレクシルの口から漏れ出た。頭の中の考えがぐしゃりと混ざり合い、混沌となる。
ただ、カミとしての本能が全力で訴えかけてきた。
これは、マズイ、と。
自分を満足させた褒美になどという思考は、彼方へと散る。
眼前の敵。爛々と輝く虚ろな双眸と目が合った。悲鳴をあげかけた感情を、奥歯を噛み締めることによってかき消す。
エレクシルの金色の瞳が強い光を放った。その輝きは物理的な圧力を発し、彼女へと迫りつつあったキョウの両腕を根元から切断する。切断された双手は刀を握ったままくるくると宙へと回転しながら舞っている。それに安堵のため息を吐いた女神。
しかし、絶え間ない激痛が襲っている筈のキョウからは呻き声一つ聞こえない。
痛みを感じていないはずもなく、表情を歪める。
だが―――。
地面を蹴りつける音がした。両腕を奪われながらも飛翔するのは、剣に全てをかけた青年。
宙で回転する刀の柄を―――ガチリっと歯で噛み締める。
唖然とその光景を見上げているエレクシルに向かって、急下降。はっと意識を取り戻すもそれは遅く―――。
シャンっと綺麗な響きが二人の耳を打った。
最後の最後まで諦めなかった剣士の最後の一撃は―――カミに届いた。
そう、確かに届いた。
ポタリっと純白の世界に一粒の鮮血が舞い落ちる。
その原因は、エレクシル。間一髪の差で、我を取り戻した彼女が天に掲げた右腕の掌。それに受け止められたキョウが咥えた刀身。ぶつかり合った掌と刀。結果は、ほんの僅かな斬り傷。数ミリ程度の、軽症とも言えない怪我だった。自分が出血したという現実を知り、固まっていたのは数秒。
やがて―――。
「―――あっは」
冷静に彼女は笑った。ほんの微かに彼女は、笑みを浮かべた。
ただそれは―――どこまでも冷たい喜びに満ち溢れた、狂気の入り混じった笑みだった。
地面に降り立ったキョウは、目の前の女神の気配に言い様の無い悪寒を感じる。
これまでとは明らかに異なった気配。これまでが遊びだったとしか表現できないほどに、濃厚な重圧。気配だけで押し潰されそうになる、確かに目の前にいる存在は、如何なる生物も超越したカミを語るに相応しき人外の女王。
そして、キョウ=スメラギも理解する。
今目の前にいる超越存在こそが―――エレクシルという名のカミなのだと。
女神がキョウに感じた恐怖をそのままに、彼もまた女神から得体の知れない恐怖を感じ取った。追撃を仕掛けようという余裕は消え去り、キョウは口に刀を咥えたまま、後方へと跳躍する。
何かがマズイっと第六感が感じ取っていたからだ。
だが、エレクシルは間合いを逃れたキョウを見逃しはしない。
無傷の左手を軽く振る。巨大な塊となった突風が広範囲に渡って彼を包む。ズシンと胸を強打する疾風。咳き込みそうになるのを堪えるが、身体はまるで嵐の海の小枝のように翻弄される。
軽々と上空へと浮き上がらされたキョウが、風が止むと同時に急降下。急激に近づいてくる白色の大地に目を細める。
せめて受身を取ろうと身体を捻るが、身体が大地に激突する瞬間―――ガクンっと他の衝撃が彼を襲った。
キョウが大地にぶつかる間際、エレクシルが左手一本で彼の身体を受け止めていたのだ。
彼女は即座にキョウの喉を掴むと軽々と持ち上げる。ミシリっと骨が軋む音がした。あまりの圧迫感で呼吸も出来ない。もう少し力を込めれば首の骨が折れるのは明白だった。
死の淵に立たされて、絶え間ない激痛に身体を苛まされても、それでもキョウは、皮肉気に口元を歪ませた。まるで一瞬恐怖を感じた己を恥じるように。
「―――キミはやっぱりイイ。本当はこれで終わらせようと思ってたけど、信じられないことにキミはまだ可能性を秘めているね。ボクにも届く、無限の可能性を」
ミシリっと再び骨が軋む音がする。
「ボクはその可能性を見てみたい。だからこそ、キミをあそこに送る。ボクが創り出した箱庭へ」
さらに力を込めたエレクシルの圧迫に、遂に耐え切れずにこふっと咳き込む。
咥えていた刀が重力に負けて落ちていく。その時―――ぎらりとキョウの瞳が妖しい光を放った。
大地に刀が落ちかけたその瞬間、キョウの左足が跳ねる。
蹴り飛ばされた刀が、勢いよく飛ばされる。その鋭い切っ先がエレクシルの喉元へ吸い込まれるように迫っていき―――。
パキィンっと何かにぶつかる音がして、刀はあっさりと砕け散った。
確かに切っ先はエレクシルの喉に突き刺さったというのに、刀の方が跡形も無く砕け散るというのはどういうことか。
「最後の最後まで諦めないその姿勢。期待できるね。ただ、普通の武器ではボクを傷つけることは残念ながら不可能だよ。だから―――さっきの最後のナニかは、ボクの理解を超えていた」
エレクシルが語ったように、キョウが携えているのは確かに名刀と呼ばれる業物。だが、それでもカミと戦うにはあまりにも力不足。それ故に、彼女はたかをくくっていたのだ―――キョウの攻撃では自分を殺めることは出来ない、と。
しかし、そう考えていたからこそ、最後の一撃はあまりにも不可解だった。
あのまま無防備に受けていたら、死ぬことはないにしても―――それに近い状態にされていたことは間違いない。
キョウが語ったように、まさしくとっておき。それには納得せざるをえなかった。
「―――キミのとっておきの正体は、次までの楽しみにしておくよ」
甘く、恋人に囁くように朦朧としているキョウの耳元に口を寄せて囁く。
「キミが今から行く場所は、ヒトと獣と魔族が蠢く戦乱の大地。剣と暴力と魔法が支配する、常闇の領域。ボクがこの世界から隔離した、ボクへと到達させるモノを産み出す蠱毒」
キョウを吊り上げている片手に力がさらにこもる。それとは逆の自由な手が優しく、頬を撫でた。極上の美少女にされているというのに、不思議と嫌悪感しかわかない。
「そんな戦乱の世を生き抜くためにも、キミに一つだけ特別なモノをあげよう。ボクの烙印を。それは力ではなく、魔力でもなく、永遠に戦いを求め続けることができる、不老の呪いさ」
キョウの目が大きく見開いた。
何時の間にか零距離となった女神の唇が、彼の唇を塞いでいたのだから。
「ん……はぁ……ん」
ぴちゃりぴちゃりっと艶かしい水音が二人しかいない純白の世界に響き渡る。
エレクシルの舌が生き物のようにゆっくりと、だが味わうようにキョウの口の中を蹂躙していく。
舌を絡め、唾液を啜り。そして逆に唾液を相手に流し込む。それは甘い蜜のようで、キョウの脳内を麻薬のように侵食していった。エレクシルの瞳が情欲に燃える。金色の瞳が、どこか虚ろが混じっている印象を受ける。
互いが互いに、冷静ではいられない。息が自然と荒くなっていく。女神は頬を染め、幼子みたいに口付けを続ける。しかし―――。
ぶちり、と生々しい音がした。
微かにエレクシルの頬が引き攣る。どこか呆れた様子を垣間見せ、ようやく唇を離した。
自由を取り戻したキョウは、ぺっと唾を大地へと吐き捨てる。その時、唾と一緒に軽い音をたてて転がったものがあった。
大量の赤い血液が混じった唾液。そして―――赤く照り輝いている半分から先の舌。
「―――全く、キミはマナーがないんじゃないかな。普通、接吻の最中に相手の舌を噛み千切る?」
「……無理矢理に、奪っておいて、よく言う」
イタタっと嘆く女神が、眉を顰めて口を開くが―――既にそこには噛み千切られたはずの舌が無傷で存在していた。
そんな姿に、首を絞められ続けているキョウは、途切れ途切れに言い返す。
「まぁ、烙印は刻めれたからいいかな。ああ、そうそう―――キミに与えたのはあくまで不老。剣で斬られれば死ぬし、魔法で焼かれれば死ぬ。それは変わりはしないから気をつけるんだよ」
器用に肩をすくめた女神が、薄く笑いながらそう付け加えた。
「これからキミが生き抜く場所は―――【幻想大陸】。この世界の中央に位置しながら、死の霧に四方を包まれ何人たりとも立ち寄れない未開の領域と呼ばれている場所にあるところだよ」
まぁ、ボクが近寄れなくしているんだけどね、と女神は笑う。
それを合図にキョウの足元から黒い靄が沸き立ち、少しずつ侵食していき始めた。
「そこは異常だ。異様で異質な、異界だよ。キミに匹敵する人間も数多くいる。人智を逸した強大な魔法を操る魔女がいる。あらゆる生命を喰らう魔獣もいる。単騎で国を落とす竜種もいる。幻想大陸を支配しようとする魔族の王達も多くいる」
黒の侵食はとどまるところを知らず。
足から腰にかけてはまるで数万匹の黒い虫に覆われているようにも見えた。
「―――だからこそ、全てを斬り殺すんだ」
女神は、果ての無い期待と信頼を視線にのせ―――。
「殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し続けて―――ボクの前に、もう一度立て」
やがて、黒い靄が全身を包む。
ぐちゅりぐちゅりと闇が蠢き、弾けた。パラパラと粉々になった闇は純白の世界に塗りつぶされるように消えていく。
そこには既にキョウの姿は跡形も無い。まるで今までが夢幻のことだったと勘違いしそうになるほど、後に残されたのは静寂だった。
白の世界。水平線も見えない純白の領域。そこに女神は一人立つ。
今はここにいない―――たった一人のヒトを思い描いて、女神は禍々しい笑みを浮かべていた。
「―――千年くらいは、待っていてあげるよ。キョウ=スメラギ」
エレクシルは、遠い未来に自分と再び戦うであろう剣士の姿を想像し、そう語る。
これは一人の男の物語。
カミに反逆した神殺しを目指した剣士の物語。
伝説には残らない―――だが、誰かの心には刻まれる軌跡。
亀の更新ですが、頑張ります。
喜んでいただけたら幸いです。