正体を隠していたのに、幼馴染が怪我の心配しかしない
高校二年生の加山麻衣は、駅前の時計台の下でスマホを見ながら小さくため息を吐いた。
待ち合わせ時間まではあと五分。
グループチャットにはすでに通知が並んでいる。
『あと三分』
『あと二分』
『あと一分』
『実況やめろ』
送信した直後だった。
『いた』
『いた』
『いた』
『囲め』
「何でだよ」
思わず声に出しながら振り返る。
すると、見慣れた三人組が笑いながらこちらへ歩いてくるのが見えた。
「麻衣、また時間ぴったり」
「遅刻してないだけ褒めて」
「面白くない」
「理不尽」
そう言いながら並んだところで、美咲がふと麻衣の顔を覗き込む。
「昨日寝てない?」
「寝たけど」
「嘘」
「何で?」
「だって、目の下のクマ」
「……観察眼が怖い」
「あと、さっきも右目こすってたし」
「……してた?」
「してた」
「……よく見てたな」
「麻衣、寝不足の時だけそれやるじゃん。付き合い長いからわかるよ。ちゃんと寝なよ」
美咲は呆れたように小さく息を吐いた。
麻衣は視線を逸らした。
「…………寝たってば」
「今の間が怪しい」
「何で」
「寝不足でしょ!」
「尋問か!」
奈緒が呆れたようにため息を吐く。
「また朝から始まった」
「いつものことだね」
優香が苦笑しながら続けた。
そんな他愛もないやり取りをしながら、四人は駅前の通りを歩いていく。
今日の目的地は、新しくオープンした大型博物館で開催されている古代文明展だった。
言い出したのは美咲で、三日前から「絶対面白いから!」と熱弁しており、気付けば全員参加になっていた。
もっとも、麻衣自身はそこまで興味があったわけではなく、誘われたから来ただけである。
「そういえば昼どうする? 先に食べる?」
「展示見てからでよくない?」
「絶対混む」
「根拠は?」
「勘」
「信用できない」
「ひどい」
三人の会話は歩きながらも途切れない。
駅前の人通りは多く、休日らしい賑わいを見せていた。
家族連れや買い物客が行き交い、飲食店の前には順番待ちの列もでき始めている。
「どっちでも」
麻衣が適当に答える。
すると三人が同時に振り返った。
「それ禁止」
「何で」
「丸投げだから」
「責任を放棄するな!」
「多数決に参加しろ!」
「面倒」
「出た」
結局、先に昼食を取ることになった。
商業施設のフードコートは予想通り混雑していたが、運良く四人分の席を見つけることができた。
麻衣は空いている席を見るなり自然と壁際の席へ向かう。
「また端っこ」
「落ち着くから」
「麻衣って入口とか通路が見える壁際の席の方が好きだよね?」
「……何でそうなる」
「麻衣、昔からそういう席しか選ばないもん」
「……よく見てるな」
「今さら?」
席に座り、それぞれ注文した料理を食べ始める。
休日のフードコートは思った以上に賑わっていた。
周囲から聞こえてくる話し声や食器の触れ合う音が絶えず、空席を探して歩く人の姿も目立つ。
「そういえば進路どうするの?」
ハンバーガーを頬張りながら美咲が聞いた。
「まだ決めてない」
「もう二年生の夏前だよ?」
「知ってる」
「危機感なくない?」
「人のこと言えるの?」
「私はあるし」
「先週と違うこと言ってる」
奈緒が即座に突っ込む。
「細かいことは気にしない」
「細かくない」
優香が苦笑した。
「結局、美咲は何になりたいの?」
「まだ考え中」
「ほら」
「でも候補はあるから」
「ちなみに何?」
「水族館の飼育員」
「急だな」
「イルカ可愛いじゃん!」
「理由が小学生」
「夢に年齢制限はありません」
美咲が胸を張ると、その様子に三人が笑った。
「麻衣って何でもできそうなのに、全然前に出ないよね」
不意に美咲が言う。
「面倒だから」
「絶対それだけじゃない」
「それだけ」
「嘘」
「何で」
「勘」
「信用できない」
奈緒が即答すると、優香が吹き出した。
「でも本当だよね」
「何が」
「テストも上位だし」
「運動もできるし」
「なのに委員長とか絶対やらない」
「面倒だから」
麻衣はポテトを口に放り込みながら答える。
「文化祭の実行委員も断ってたよね」
「去年も断ってた」
「中学の時も断ってた」
「よく覚えてるな」
「だって毎回同じだから」
美咲が呆れたように肩をすくめた。
「目立つの嫌いなの?」
優香が聞く。
麻衣は少しだけ考える。
「嫌いっていうか……面倒」
「結局そこなんだ」
「そこです」
「本当かなあ」
美咲は納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
話題はそのまま文化祭へ移り、クラスの出し物や準備の話で盛り上がる。
「ああ、うちのクラスまだ揉めてる」
「何やるか決まってないの?」
「決まってない」
「毎年揉めてるよね」
「去年もギリギリだった」
「うちなんてもうメイド喫茶で決まりそう」
「絶対美咲が言い出しただろ」
「何で分かった」
「顔」
「失礼な」
だが否定はしない。
「麻衣は?」
「何が」
「文化祭」
「普通に終わればいい」
「やる気なさすぎる」
「準備面倒」
「出た」
美咲が笑う。
「麻衣って本当に面倒が口癖だよね」
「実際面倒だし」
「でも頼まれたら結局やるじゃん」
その言葉に麻衣は少しだけ言葉を詰まらせる。
「それは……」
「ほら」
「断るの下手だもんね」
「自覚はある」
「あるんだ!」
また笑いが起きた。
その後も夏休みの予定や最近見た動画の話など、取り留めのない会話が続く。
特別なことは何もない。
ただ友人同士で集まり、馬鹿な話をしながら食事をしているだけだ。
ふと麻衣の視線が止まる。
向かい側では三人が相変わらず騒いでいた。
美咲は身振り手振りを交えながら何かを熱弁し、奈緒が呆れた顔で突っ込み、優香が苦笑しながらそれを見ている。
休日のフードコートは賑やかで、周囲から聞こえる話し声や食器の音が絶えない。
何気ない光景だった。
けれど、その様子を見ていると胸の奥が少しだけ温かくなる。
こんな時間は嫌いではない。
むしろ好きだった。
「どうした?」
美咲が聞く。
「なんでもない」
「またそれ」
「何が」
「たまに遠く見るやつ」
「知らない」
「嘘」
美咲はじっと麻衣を見る。
だが、それ以上は聞かなかった。
昼食を終えた四人は、そのまま博物館へ向かった。
館内は想像以上に広く、多くの来館者で賑わっている。
奈緒は展示解説を読み込み、優香は音声ガイドを借り、美咲は気になった展示へ次々と足を向けていた。
麻衣は半分付き添いのような気分で、その後ろを歩いていく。
「ねえ麻衣、この壺いくらだと思う?」
「五百円」
「国宝だよ!?」
「高っ!!」
「感想そこなの!?」
周囲の視線が集まる。
「しー。声大きい」
「誰のせいだと思ってるの」
そんなやり取りをしながら展示を見て回る。
さらに奥へ進むと、剣や鎧が並ぶ展示コーナーがあった。
「これ、本当に使えたのかな」
「振りにくいと思う」
「分かるの?」
「重心が前過ぎる」
「重心?」
「……なんとなく」
「またそれ」
「何が」
「麻衣、なんとなくって言う時ほど、絶対なんとなくじゃない」
その言葉に、奈緒と優香も麻衣へ視線を向ける。
「何」
「いや」
「何で分かるのかなって」
「なんとなくだって」
「前から思ってたけど、麻衣ってたまに変なこと言うよね」
「失礼な」
そう言い返した麻衣だったが、歩き出しかけたところでふと足を止めた。
「どうしたの?」
振り返った美咲が不思議そうに尋ねる。
「……いや、何でもない」
麻衣は小さく首を振り、三人と一緒に次の展示室へ向かった。
そして特別展示室へ足を踏み入れた瞬間だった。
麻衣の足が止まる。
展示室の中央には黒い結晶が置かれており、その横の説明文には『用途不明の鉱石』と書かれていた。
それを見た瞬間、背筋を冷たいものが走る。
見覚えがあった。
忘れられるはずがない。
麻衣は結晶を見つめたまま動かない。
「どうしたの?」
美咲が不思議そうに声を掛ける。
「……出よう」
「え?」
「今すぐ」
「何で?」
「いいから!!」
いつもと違う声だった。
美咲の表情から笑みが消える。
奈緒と優香も顔を見合わせた。
だが麻衣は説明しない。
ただ黒い結晶から目を離さない。
「どういうこと?」
「いいから行くよ!」
自分でも驚くほど強い口調だった。
奈緒と優香は困惑している。
「行こう」
最初に動いたのは美咲だった。
「え?」
「理由は分からないけど」
美咲は一度だけ黒い結晶へ視線を向け、それから麻衣を見る。
「麻衣がそんな顔するのを初めて見た」
少しだけ不安そうに眉を寄せる。
「なんか嫌な予感するけど、こういう時だけは絶対冗談言わないから。だから、行こう」
その瞬間だった。
展示室に乾いた音が響く。
視線を向けると、黒い結晶の表面に細い亀裂が走っていた。
「嘘でしょ……」
麻衣の顔色が変わる。
「……麻衣?」
美咲が戸惑ったように声を漏らした。
次の瞬間、館内に警報が鳴り響いた。
非常灯が点灯し、防火シャッターが降り始める。
防火扉も次々と閉鎖され、特別展示フロアは区画ごとに分断されていく。
来館者たちは慌てて出口へ向かうが、突然の事態に混乱は広がるばかりだった。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
亀裂が走った黒い結晶は内側から軋むような音を立て、次の瞬間には砕け散る。
溢れ出した黒い靄が展示室を覆い、空間そのものが揺らいだ。
防火シャッターの向こう側が霞み、館内のざわめきが遠ざかっていく。
まるで展示室だけが世界から切り離されたかのようだった。
「最悪……」
麻衣が小さく舌打ちする。
「麻衣、何が起きてるの?」
「空間が……閉じた!」
「は?」
「説明してる暇ない!」
黒い靄が展示室の中央へ集まり始める。
その様子を見た瞬間、麻衣は確信した。
靄の中心から現れたのは、身長三メートルほどもある巨大な魔物だった。
一つしかない巨大な眼球が周囲を見回し、異様に発達した両腕がゆっくりと持ち上がる。
その全身を覆う歪な筋肉は人間とはかけ離れており、現代日本の博物館に存在していていいものではなかった。
その姿を見た瞬間、麻衣の脳裏に忘れたはずの光景がよぎる。
石造りの遺跡を進んでいた時のことだった。
崩れた通路の先には砕け散った封印核が転がっており、その周囲には同じような魔物が現れていた。
『逃げろ!』
誰の声だったのかは思い出せない。
それでも、その言葉だけは今も耳に残っていた。
展示室のあちこちで悲鳴が上がる。
逃げようとする人々が我先にと出口へ向かい、その波に押された美咲が床へ倒れた。
立ち上がろうとするが、人の流れが邪魔になって上手く動けない。
サイクロプス亜種がゆっくりと顔を向ける。
そして獲物を見つけたかのように、その巨大な腕を振り上げた。
麻衣は動かなかった。
いや、動けなかった。
理解していたからだ。
ここで動けば終わるし、今まで隠してきたものも全部バレる。
友人たちとの何気ない日常も、こうして馬鹿な話をしながら笑い合える時間も、きっと今までと同じではいられなくなる。
だから隠してきたし、知られないようにしてきた。
普通でいたかった。
学校へ通い、進路に悩み、休日には友人と遊びに出かける。
そんな当たり前の日常を失いたくなかったのだ。
そして、その日常の中にはいつも美咲たちがいた。
朝の待ち合わせも、くだらない会話も、放課後の寄り道も、馬鹿みたいなやり取りも、その全部が当たり前の日常だった。
見なかったことにすれば、まだ間に合うかもしれない。
何も知らないまま終われば、今まで通りでいられるかもしれない。
――でも。
その「今まで通り」の中に、美咲がいないのなら、それは本当に守りたかった日常なのだろうか。
美咲まであと数歩。
サイクロプス亜種の腕はすでに振り下ろされようとしている。
ほんの一瞬、本当に一瞬だけ迷う。
脳裏をよぎったのは、最後に挑んだ遺跡の光景だった。
崩れ落ちる封印区画の中で砕け散った封印核を見上げながら必死に走り、瓦礫の向こうへ消えていく仲間へ向かって手を伸ばした。
だが、その手は最後まで届かなかった。
麻衣は走る。
もう迷っている時間はなかった。
気付けば床を蹴っていた。
美咲の腕を掴み、そのまま全力で横へ突き飛ばす。
「えっ――」
驚きの声が聞こえた直後、振り下ろされたサイクロプス亜種の巨腕が麻衣を正面から捉えた。
轟音と共に身体が吹き飛び、展示ケースへ叩き込まれた衝撃で強化ガラスが砕け散る。
そのまま反対側の床まで転がされ、背中から激しく叩き付けられた瞬間、全身を凄まじい衝撃が貫いた。
肺の中の空気は一気に押し出され、息を吸おうとしても上手く呼吸ができない。
腕にも脚にも力が入らず、身体を動かそうとするだけで鋭い痛みが走る。
服は裂け、床へ流れた血が砕けたガラス片の間をゆっくりと広がっていった。
視界は揺れ、耳鳴りも酷い。
展示室に響いているはずの悲鳴や怒号もどこか遠く聞こえ、このまま意識が沈んでいきそうになる。
「麻衣っ!!」
聞き慣れた声が耳に届く。
麻衣は重い瞼を無理やり持ち上げた。
焦点は上手く合わず視界も霞んでいたが、それでも首をわずかに動かして壊れた展示ケースの向こうを見る。
美咲がいた。
床へ手をつきながら立ち上がろうとしている。
顔は青ざめていたが、あの一撃は届いていない。
それを確認した瞬間だけ、喉の奥から小さく息が漏れた。
助かった。
そう思った直後、全身へ押し寄せてきた激痛に思わず顔が歪む。
胸の奥は焼けるように痛み、身体をわずかに動かしただけで骨の軋む感触が伝わってきた。
普通の人間なら、そのまま動けなくなっていてもおかしくない傷だった。
それでも麻衣は目を閉じない。
サイクロプス亜種はまだそこにいる。
展示室の中には逃げ遅れた人たちもいる。
耳鳴りの向こうから聞こえる悲鳴が、その事実を嫌でも思い出させた。
麻衣は震える右手を持ち上げる。
指先が思うように動かない。
血に濡れた手を傷口へ押し当て、浅く息を吸おうとするが胸の痛みで上手く呼吸が続かない。
「……使い……たく……なかったんだけど……ね……」
掠れた声と共に掌の下から淡い碧色の光が滲むように広がった。
ヒール。
傷口を中心に広がった淡い光が身体を包み込み、流れていた血を止めながら裂けた皮膚を塞いでいく。
だが次の瞬間、身体の奥を走った嫌な感覚に麻衣は思わず服の袖で口元を押さえた。
「っ……」
胃の奥がひっくり返りそうになる。
折れた骨が戻る感覚だけは、何度経験しても好きになれない。
吐き気を押し殺しながら数秒耐えていると、胸を締め付けていた痛みは少しずつ薄れ、乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻していった。
麻衣は何度か呼吸を整えてから小さく息を吐く。
「……ほんと、最悪」
血に濡れた服だけが、ついさっきまで重傷だったことを物語っていた。
美咲たちは言葉を失ったまま麻衣を見つめているが、麻衣はそちらを見ない。
展示室の中央ではサイクロプス亜種が低い唸り声を響かせながら周囲を見回しており、逃げ遅れた来館者たちは物陰や展示ケースの陰へ身を寄せたまま動けずにいた。
「本当に使いたくないんだよね」
小さく愚痴を零しながら麻衣は肩を落とす。
魔法を使うのも戦うのも目立つのも嫌だったが、放っておけば誰かが死ぬ。
それだけは見過ごせなかった。
麻衣は一度だけ深く息を吸うと、サイクロプス亜種から視線を外さないまま周囲を見渡した。
その視界の端に映ったのは、少し前まで四人で見ていた剣と鎧の展示区画だった。
サイクロプス亜種の暴れた衝撃で展示ケースは砕け、その傍らにはさっき話題にしていた儀礼用の剣が転がっている。
麻衣は床を蹴った。
サイクロプス亜種も動く。
一つ目が麻衣を捉え、巨大な身体が唸り声と共に突進してくるが、その一歩早く麻衣は剣の柄を掴んでいた。
立ち上がりながら軽く振り、手首を返して重心を確かめる。
「やっぱり、前重心は嫌い」
見たときと同じ言葉だったが、今度は誰も笑わない。
「ハードニング、エーテルソード」
本来なら戦闘に耐えられない儀礼用の剣を魔力が補強し、その刀身へ淡い光が宿る。
鈍い輝きを纏った刀身は静かに震え、即席の武器とは思えない存在感を放っていた。
麻衣はそのまま剣を構える。
サイクロプス亜種は咆哮と共に腕を振り上げ、その巨大な拳を叩き付けるように振り下ろした。
「フィジカルブースト、クイック」
身体強化の魔力が全身へ広がり、重かった身体が一気に軽くなる。
さらに加速魔法が視界を引き延ばし、迫る拳の動きさえ緩やかに見えた。
そんな攻撃は空を切り、拳が床を砕く頃には麻衣の姿はすでに横へ流れるように回り込んでいた。
サイクロプス亜種は巨大な腕を振り回しながら追撃を続け、展示物を次々と破壊していく。
砕けた破片が飛び散り、床には深い傷跡が刻まれるが、それでも攻撃は麻衣に届かない。
最小限の動きだけで攻撃を外しながら確実に間合いへ入り込んだ麻衣は、大きく腕が流れた一瞬の隙を逃さずその懐へ飛び込んだ。
振るわれた剣は一度だけだった。
サイクロプス亜種は数歩進んだところで動きを止め、その全身へゆっくりと亀裂が広がっていく。
やがて巨体は黒い靄となって崩れ落ち、そのまま空気へ溶けるように消えていった。
展示室を満たしていた圧迫感も同時に消え、歪んでいた景色が揺らぎながら元の姿を取り戻していく。
防火シャッターの向こう側も輪郭を取り戻し、閉ざされていた異空間は静かに崩壊を始めていた。
静かになった展示室の中央で、麻衣は剣を下ろしたまま立っている。
ヒールも、魔法も、戦う姿も全部見られた。
今さら隠し通せるとは思っていないが、それでも面倒なことになったという気持ちは消えない。
そう思った瞬間、美咲が駆け寄ってきた。
「怪我してない!?」
麻衣は固まる。
「……え?」
「大丈夫なの!?」
「いや、そこ?」
「そこだよ!」
泣きそうな顔だった。
「血だらけじゃん!」
「もう治ったから」
「そういう問題じゃない!」
そこへ奈緒が割り込む。
「いや待って。治ったって何?」
「……」
「骨、折れてたよね?」
「たぶん」
「たぶんじゃない!」
優香も腕を組む。
「あと、あの光」
「どの光?」
「とぼけるな!」
「無理がある」
美咲がはっとした顔をする。
「あ」
「今さら?」
「そういえば魔法だった」
「そういえばじゃない」
三人が一斉に詰め寄る。
「説明しろ!」
「全部聞く」
「逃げるなよ!」
「却下」
「却下を却下!!」
「人権は?」
「「「ない!」」」
「酷くない?」
三人が同時に返した。
「いや、こっちの台詞だから」
麻衣は目を瞬かせる。
美咲はまだ腕を掴んだままだし、奈緒も優香も離れる気配がない。
「……何それ」
小さく息を吐いた麻衣は自分の服へ視線を落とした。
服はあちこち破れ、乾き始めた血が残ったままだった。
重傷そのものは治っていても、この格好で駅へ出れば別の意味で騒ぎになる。
「あ、やば」
「何が?」
「帰れない」
三人も麻衣の服へ視線を向ける。
「ああ……」
「確かに」
「職質される」
「だよね」
麻衣は額を押さえたまま数秒考え込み、諦めたように小さく肩を落とした。
「……もういいか」
「何が?」
「今さらだし」
そう言うと麻衣は右手を軽く上げる。
「リペア・クロス」
淡い光が服を包み込む。
裂けていた布地がゆっくりと繋がり、破れていた箇所が何事もなかったかのように元へ戻っていく。
胸元の裂け目も、袖の破れも、引き裂かれていた裾も次々と修復され、数秒後には最初から傷一つなかったかのような状態になっていた。
「え」
美咲の口から間の抜けた声が漏れる。
麻衣は構わず指を軽く鳴らした。
「クリーン」
今度は柔らかな光が全身を撫でるように広がり、服や髪についた血や埃が跡形もなく消えていく。
さっきまで血塗れだった姿は完全に消え、博物館へ来た時と変わらない状態へ戻っていた。
麻衣は袖を引っ張り、肩を回しながら状態を確認する。
「うん。大丈夫」
三人は何も言わない。
ただ呆然と麻衣を見ている。
数秒の沈黙が流れたあと、優香がぽつりと呟いた。
「それ便利でいいな」
「そこ?」
「いや、だって洗濯いらないじゃん」
「発想が主婦」
「まだ高校生なんだけど」
奈緒が額を押さえる。
「いや、そこじゃないだろ」
「そこも大事でしょ」
美咲は麻衣を指差した。
「今、服直したよね?」
「直したね」
「血も消えたよね?」
「消えたね」
「魔法だよね?」
「魔法だね」
「「「説明しろ!」」」
「やっぱりそこに戻るの?」
三人は同時に頷いた。
どうやら逃げ道はなさそうだった。
その後、異空間が完全に崩壊したことで、防火シャッターがゆっくりと上がり始めた。
閉ざされていた通路が姿を現し、その向こうから職員や警備員、救急隊員たちが慌ただしく展示フロアへ駆け込んでくる。
展示室は酷い有様だった。
展示ケースは砕け、床には無数の傷が走り、倒れた展示台や散乱した破片があちこちに転がっている。だが原因となったはずの存在はどこにも見当たらず、異様な静けさだけが残されていた。
警備員の一人が周囲を確認したあと、麻衣たちのもとへ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「はい」
反射的に返事をしたのは美咲だった。
「怪我人はいませんか?」
「たぶん大丈夫です」
「何があったんですか?」
警備員の質問に、麻衣は一瞬だけ言葉を失う。
説明できるわけがない。
そう思った瞬間だった。
「展示物が倒れてきたんです」
先に口を開いたのは美咲だった。
警備員が眉をひそめる。
「展示物が?」
「はい。急に停電して、そのあとシャッターが閉まって」
奈緒が自然に話を引き継ぐ。
「逃げようとしたんですけど、途中で展示ケースが倒れてきて」
「かなり混乱してたんです」
優香も続けた。
「正直、細かいところまでは覚えてません」
三人とも落ち着いた顔をしていた。
誰も視線を合わせないし、事前に打ち合わせをしたわけでもない。
それでも説明は不思議なくらい自然に繋がり、警備員もそれ以上は深く追及しなかった。
「分かりました。とにかく皆さんは安全な場所へ移動してください」
そう言われ、麻衣たちは救護スペースへ案内される。
その途中、美咲がちらりと麻衣を見る。
だが何も聞かない。
奈緒も優香も同じだった。
麻衣は小さく息を吐く。
その後は慌ただしかった。
救急隊による確認や事情聴取が続き、展示フロアにいた全員が病院で検査を受けることになった。
麻衣たちも例外ではなく、そのまま搬送される。
検査の結果、打撲や骨折はもちろん、内出血らしい痕跡すら見つからなかった。
医師は検査結果とカルテを何度も見比べたあと、困ったような顔で首を傾げる。
「本当に展示物の下敷きになったんですか?」
「たぶん」
「たぶんって……」
美咲たちは揃って視線を逸らした。
麻衣も曖昧に笑う。
説明する方が面倒だった。
結局、目立った異常は見つからず、その日のうちに全員へ帰宅許可が出た。
病院を出る頃には空はすっかり夕焼け色に染まり、四人はそのまま駅前まで戻ってくる。
四人が戻ってきたのは、朝に待ち合わせをした駅前だった。
人通りは多く、車の音も絶えず聞こえてくる。
目の前にはいつもと変わらない日常が広がっている。
だが、四人の間に流れる空気だけは朝とは違っていた。
病院を出た四人は駅へ向かって歩いていた。
「で、説明は?」
「月曜でよくない?」
「逃げる気だ」
「逃げるな」
「全部聞くから」
「人権は?」
「「「ない!」」」
「今日二回目なんだけど」
つい数時間前まで命の危険があったとは思えない会話だった。
だが、そのやり取りが妙にいつも通りで、麻衣は少しだけ肩の力が抜ける。
駅前へ到着すると、それぞれ帰る方向が違う三人はそこで足を止めた。
「月曜、絶対来なよ」
「休む理由ができた気がする」
「却下」
「却下を却下」
「それも却下」
三人が笑いながら手を振る。
麻衣も軽く手を上げて応え、その背中をしばらく見送っていた。
すると、少し先まで歩いていた美咲が不意に振り返る。
「麻衣」
「ん?」
「怪我、本当に大丈夫なんだよね?」
最後まで気にしていたのは魔法でも正体でもなかった。
あの時、自分の目の前で吹き飛ばされた幼馴染のことだった。
麻衣は少しだけ笑う。
「大丈夫」
「……無理してない?」
「してない」
「そっか。ならいい」
少しだけ迷ったように視線を逸らしてから、美咲が小さく笑う。
「魔法とかは月曜に聞くから」
「……先そっちじゃないの?」
「今は怪我の方が先」
「……何それ」
「幼馴染だから?」
美咲は少しだけ照れたように笑うと、今度こそ奈緒たちを追いかけていった。
その姿が見えなくなるまで見送ってから、麻衣も帰路につく。
夜になり、自室でベッドへ腰を下ろした頃だった。
テーブルの上に置いていたスマホが震える。
画面を見る。
『帰宅した?』
『月曜逃げるなよ。ちゃんと学校来なよ』
『……善処する』
『予想通りの返事だな。あと説明資料作っとけ』
『却下』
『却下を却下』
『今日は夜更かし禁止』
『命令?』
『命令』
『横暴だ』
グループチャットにはいつも通りのやり取りが並んでいた。
麻衣は画面を見つめたまま小さく息を吐き、そのまま口元を緩める。
少しして、またスマホが震えた。
個人チャットだった。
『起きてる?』
『起きてる』
少し間が空く。
『怪我、本当に大丈夫なんだよね?』
麻衣の指が止まる。
『大丈夫』
『そっか』
さらに少し間が空く。
『あと』
『何』
『勝手に死にそうになるな』
画面を見つめたまま、麻衣は小さく息を吐く。
『……善処する』
『麻衣だから無理そうだけど』
『……かもしれない』
短いやり取りだった。
それ以上、魔法のことも、あの化け物のことも聞かれなかった。
聞かれたのは怪我のことだけだった。
麻衣はスマホを見つめたまま、小さく笑う。
『ありがとう』
『今さら』
返信を見た瞬間、思わず笑みが漏れた。
今日一日で色々なものを見られた。
魔法も戦う姿も、ずっと隠してきたことを全部。
それでもチャットに並んでいるのは追及より先に、いつもと変わらない言葉ばかりだった。
窓の外へ視線を向ける。
夜の街は静かで、遠くには駅前の灯りが見えている。
「……案外、変わらないのかも」
呟いた声は誰にも聞かれないまま夜の部屋へ溶けていった。
その表情は、朝より少しだけ穏やかだった。
こうして、加山麻衣の平穏な日常は少しだけ形を変える。
だが、それは終わりではなく、きっとここから新しい日常が始まる。
これは『ある女子高生の日常が少しだけ変わる』かもしれない物語の始まり。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった」と思っていただけましたら、
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どれか一つでもいただけると、とても励みになります。
ありがとうございました!




