クラッシャー
部屋は暗い。デジタル時計が十六時七分を示していた。あと一時間後にはこの部屋を出発し、サークルの飲み会に行く予定にしている。昨日から風呂に入っていない分、身体が臭い気がするし、髪もギシギシになっているように思う。化粧も簡単に落としただけだ。この飲み会で最後にしようかな、と私は思った。心が晴れない。生きる意味もあまり見出せないでいるのだ。
彼にフラれたのは先週の事だった。付き合い始めて三か月ほどが経過していたのだが、彼の二股が発覚したのだ。彼の家に遊びに行って洗面台を借りた時、石鹸がなくなっていることに気付いて、彼の名前を呼びながら、悪意の欠片など塵一つない気持ちで洗面台の下に付いている戸を開けた。まさかそこに、他の女の歯ブラシなどの生活用品が収納されているとは思いもしなかった。私は急いで戸を閉めたが、彼はその開閉を音で理解っていたかもしれない。彼は、今度買ってこないとな、と漏らして部屋に戻った。そのあとの会話はあまり弾まなかった気がした。
別れようと連絡があったのはその翌日だった。別れの理由は、他に好きな人ができたとかいう意味不明で自分勝手なものだった。私はわけもわからず反発したが、彼の気持ちには揺らぎがなかった。一か月も前から関係を持っていたらしい。隠しても意味のないことだとかほざいていた。
私はその別れを承諾した。最初は彼との関係が崩れるのが怖かったのだが、彼の私に対する、その正当性を主張するような口ぶりに、私は呆れていった。最後まで彼の話を聞いた時、彼とは別れるしかないとそんな風に思った。
しかし、それから私の生活はネジの外れた掛け時計のようにずれ始めた。私の心は次第に空虚に支配されていった。水曜日の夜に電話をするという彼との習慣も寂しさを増幅させるだけだった。
楽しかったなあ。
そんな感情が、喉を通って口から漏れ出た。不思議と悲しくなった。彼はきっと今もなお、別の女と一緒に電話をしているのだろう。怒りさえ湧いた。私は、負のループに迷い込んでいることに、自分で気づいていた。
彼が振り向いてくれない世界で、私は何のために生きていくのだろうか。
鏡台の前に立つと、前日の化粧を落とした。それから疲れが見えないように、暖色系のチークを少し多めに置いてみた。髪は霧吹きをかけ、コームで梳き、オイルをつけてアイロンで巻いた。この格好ならいつもの私だと鏡の前で思った。今までお世話になったサークルに顔を出すのにちょうど良い見た目だ。
飲み会は歩いて一〇分の大衆居酒屋で行われた。楽しくはなかった。なにせ人がたくさんいるのだ。六人テーブルで、お酒や料理が運ばれてきて、それを口に移すだけの作業のように感じた。それに話は表面上で行われた。普段どんなことをしているだとか、今まで行ったことのある場所を話すとか、地元の方言で盛り上がるとかしていた。却ってそんな話をしていた方が変に落ち込まなくて済むからありがたいと思う反面、私の悩みはたぶん誰もわからないし、わかってくれないんだろうな、という心地になった。
私はトイレに入った。みんな馬鹿だ。どうせフラフラ生きているんだ。どうせ何も考えずに生きている。こんな悩みなんて抱えず彼みたいに表面の欲望だけで生きているんだ。
トイレの鏡は生気の無い私の顔を映している。いけない、いけない。私は顔を叩いて鏡を見た。そうしてトイレを出た。
飲み会が終わった。三五〇〇円だった。みんなが酒の雰囲気を醸し出していた。リーダー格が、二次会はカラオケに行こうといって人を集めていた。私はとうていそんな気分にはなれなかった。誰が酒を飲んだ素人の下手な歌を金を払って聞きに行きたいのだろうか、と心で毒突いた。
私は帰る旨を伝えた。
結局みんなこうなのだ。他人が苦しんでいることに何の興味もありはしない。飲み会が始まる前、かすかに何かに期待していたのが馬鹿らしくなってきた。まあ、世の中が私と釣り合わないのだということがわかって満足したともいえる。やはり、私を受け入れてくれる世界はここではない。最後に顔を見せに来ただけ偉いと思ってほしい。
私は騒がしい集団から回れ右をして帰途につこうとした。その時、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「晴美さん、お帰りですか」
声の主は一学年下の降田だった。降田は学年としては一つ下なのだが、年齢は同じだった。彼は一年間浪人をしてこの大学に入ったのだ。会った時から大人びた印象だったが、それは今も変わっていない。
「僕も明日早くて、カラオケは行かないんですよ。良かったら途中までご一緒します」
私は降田からの誘いに応じた。特段断る理由も見つからなかった。
酔っ払い集団を尻目に帰途につくと、街灯のある歩道を二人で歩いた。特段共通の話題があるわけではなく、夜はまだ少し冷えるから暖かくしておかないと、というような話に終始した。そんな話をしていると、突然彼が口を開いた。
「最近、なにか悩み事でもあるんですか」
私は、どきりとした。
「え? どうして?」
思わず反射でこう返した。即座に、発言を悔いた。イエス・ノーで答えられる質問に対して、それに答えず理由を訊き返すときは、いつも決まって図星なのだ。
「なんだかいつもよりテンションが低いなと思って。それに少し表情も固かったですし。にしては、化粧が濃くなってるから少し心配したんです」
私は懸命に取り繕いながら、
「全然平気だよ、大丈夫」といった。
降田は口角を少し上げて、申し訳なさそうに頭を掻きながら、
「僕の勘違いならそれでいいんです。あまりにもいつもと違うもんだからつい……。いや、あの、悪口じゃないですよ。僕の目にはそう映っただけですから、僕の目は節穴ですから」と、おどけた調子でいった。
彼は家の近くの公園まで送ってくれた。結局踏み込んだ話はほとんどなく、無言の時間も多かった。あれが私の家だと指させる距離に来たので、ではこのへんで、とそれぞれの帰途についた。
手首の血管を切れば簡単に死ねるらしいという話を聞いたことがあった。もし、酔った衝動で、偶発的にそんなことが起こったとすれば、自殺というより事故に近い死に方ができると思っていた。もとよりそのつもりで、酔っぱらうつもりで飲み会に行ったのだ。酔ってはいないが、酒は入っている。だがそこに、ひとつの躊躇いが生まれていた。
私は部屋で横になっていた。洋服もそのままでベッドに腰かけ、携帯電話を右手に持って、体を横に倒していた。部屋は相変わらず散らかっていた。机の上にいつ食べたかわからないパンやサンドウィッチの包装紙が置かれている。
持っていた携帯電話が震えだした。画面を見ると、それは降田からの着信を伝えていた。私は指をスライドさせ電話をとった。
「もしもし、降田です」
電話口から降田の声が聞こえた。私はすぐに返そうとした。しかし口から出てくる言葉が何かに抑制された。殺伐とした部屋の空気が喉から出てくる声を抑えつけていた。
私が何も答えないでいると、焦った調子で降田は呼びかけた。
「もしもし、聞こえていますか。晴美さん、大丈夫ですか」
私は振り絞って、何とか声を出した。
「あ……聞こえています」
「よかった。家には帰りつきましたか」
「はい、なんとか」
降田は、それじゃといって、電話を切ろうとしたが、それを無視して私は声を出していた。
「あの、あの……」
「はい」
降田はやさしく答えてくれた。私は、電話を持っていた右手にさらに左手を重ねて、携帯電話を両手で握りしめた。
「……私、大丈夫じゃないかもしれない。なんだか、なんだか……」
少しの沈黙があった。
「……ごめんなさい」「すぐ行きます」声が重なった。
「え?」
「すぐ行きます。部屋番号を教えてください」
インターホンが鳴ったのは一〇分後だった。オートロックの玄関の前に降田はいた。水と温かいお茶のペットボトルを抱えていた。
「すみません、遅くなりました」
降田はインターホンの画面越しに話した。息を上げながら「大丈夫ですか」と訊いた。
私はそれに応じながら、自分の部屋を見た。ふと、降田には見られたくない部屋だと思った。
私がまだ何も答えないでいると、降田は下りて来れるなら公園でも、と提案してくれたので、私は返事をして、降田の待つ玄関に向かった。
玄関で降田が温かいお茶を出してきた。私はそれを受け取ってひとくち飲んで、おいしい、と呟いた。降田は柔らかい声を出した。安心した様子だった。
深夜の公園にはほとんど人がおらず、貸し切り状態だった。公園の三人掛けベンチの両端に二人は座った。お互いが端っこに座るので、そのベンチは妙な隙間があった。
私は降田にほとんどすべてを話した。恋人と別れたこととその経緯をつらつらと話した。言葉にすればするほど、自分の小ささを知った。どうして、別れたクズ男のことを根に持って悩んでいるのだろうと思いながら、どうしようもない元恋人の話を延々と続けた。降田はそれを親身になって聞いてくれた。そして、頷いてくれた。
「なんだか、空っぽなんだよね。やる気が起きないというか、動けなくなるというか」
「わかります、その感覚。……だけど僕、気づいたことがあって、たいていそういう時の中身は空っぽじゃないんです。むしろその逆です」
「逆?」
「あふれているんですよ。ドカッと大きなものが入ったり、あるいはその中身を消費する能力が急に落ちたりするときなんかに」
「あふれている……」
「そうです。そういう時はアウトプットが大事です。例えば人と話すのもそのうちのひとつ。歌ったり、気持ちを書き殴ってみたり、そうして気持ちに隙間を作ってあげることで余裕が生まれる」
「……うん」
「だから、だから僕をいつでも頼ってください」
結局、日付が変わる頃まで一時間以上も公園で話していた。私は降田に明日の予定は大丈夫なの、と訊くと、二次会を断る常套句にしているから大丈夫といった。なんだか可笑しくて、思わず笑った。
降田と別れた後、家に帰って彼の言葉を反芻した。
「空っぽではなく、あふれている……」
呟いて、はっとした。本当にそうだったのだ。私が恋人を失って動けなくなっていたのは、その吐き出し口がなくなったからなのだ。嬉しいことも、楽しいことも、辛いことも全部恋人にしゃべっていた。あんな奴でさえ、あふれそうになっていた私の心の排気口だったのだ。きっと今の私にはそんな存在が必要――彼の代わりが必要だとそう思った。
降田とは、二日に一回のペースで電話した。最初の方はフラれた話とかを辛抱強く聞いてくれたが、そのうちとりとめのない話をするようになった。学校で起こったことやバイトのこと、サークルの話をしながら、長電話するのが習慣になった。ただし、彼からかけてくることはなく、いつも私からの電話だった。たまに出てくれない時もあるため、電話を呼び出すときはいつも少し不安になったが、つながって降田の声を聞くと安心した。彼の声を聞くのが楽しみになっていた。
デートに誘ったのも私の方からだった。水族館に行ってアニマルセラピーで癒されたいといったら承諾してくれた。日程も割とすぐに決まり、今週の日曜日ということになった。なんでもこの日は大水槽でナイトショーがあって、より幻想的になるらしい。心が躍った。
デート当日、降田はレンタカーを借りてくれた。公園に迎えに来てくれて、二人きりのドライブデートが始まった。スターバックスのドライブスルーをして、それを飲みながら水族館まで行った。世間話で緊張も和んだ。
「大水槽のナイトショーがあるらしいよ」
私は助手席から、運転席の降田にスマホの画面を見せた。
「いいね」彼は画面をのぞき込んでいった。「楽しみだ」
「んふふっ。楽しみだね」
今回のデートの天王山はここだと、私はそう踏んでいる。具体的なセリフは決め切れていないが、手をつなぐことを提案してみようと考えていた。慎重に、かつ大胆に。
運転席の彼はまっすぐに前を見ていた。澄んだ瞳がきれいだった。
水族館にはいろんな生き物がいた。浅瀬のコーナーではヒトデやウミウシなどがいて、長い足のカニや鋭い歯を持つウツボ、ぷかぷか浮くクラゲなどを、二人で見て回った。水槽のイルカに手を振ったら近づいてきてくれて、二人ですごい、すごい! とはしゃいだりした。
大水槽の前には横長の椅子があった。ちょうど公園にあるような椅子だ。ナイトショーはあと五分ほどで始まるらしい。
「六時からだから、あと少しだね」
私は彼にいってみた。彼は私の横に座っている。公園のベンチに座った時よりも二人の隙間はぐんと小さくなっていた。
「あと少しだ」
そう彼がいった時、彼の携帯電話が着信を告げた。ブルブルと振動音が聞こえている。
「出なくていいの?」とっさに私は訊いた。
「いい。わかっているから」
そういって、彼は携帯を出した。着信は女性らしき人からだった。
「黙っているつもりはなかったんだけど、実は恋人がいるんだ」
私は呆気に取られた。てっきりこんなことまでしているから、相手の女性はいないものだと思い込んでいた。私は、しかし冷静に
「じゃあ、電話に出なくていいの?」と訊いた。
「いいんだ」
そういって彼は笑った。
「君といるときに、彼女を思い出したくない」
彼のその言葉を聞いて、私は心臓がドクンと拍動する感覚があった。体温が上がっている気がする。次の瞬間、私は真横から彼に抱きついていた。
「私も」
「え?」
彼の困惑した声が聞こえる。しかし、私は続けた。
「私も、あなたといるときに、いえ、あなたといない時でも、あなた以外の男を思い出したくない」
私はさらに強く抱きしめた。彼の腕に私の乳房の感覚が残るように、さらに強く、彼を抱きしめた。
くっついた二人の後ろで、ナイトショーが始まるアナウンスが響いた。




