終電を逃した夜、私を『代わりはいくらでもいる』と言った元カレと会社が崩壊していくのを眺めながら、私の価値を最初から見抜いていた彼に求婚されました
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「……やっぱり、私たち終わりにしよう」
深夜23時47分。終電まであと3分。
がらんとしたプラットホームに、冷たい風が吹き抜ける。私——水無瀬凛は、スマートフォンを耳に当てたまま、電光掲示板の数字をぼんやりと眺めていた。
「君といると、俺のキャリアに響くんだ。会社の専務の娘と婚約することになった」
3年間聞き慣れた声。藤堂誠司。私の恋人だった——いや、『だった』人の声。
(ああ、やっぱり。そういうことだったんだ)
不思議と、心は凪いでいた。
この3ヶ月間感じていた違和感の正体を、私はようやく理解した。急に増えた残業。既読無視。先週の記念日——3年目の記念日のドタキャン。
全ては、彼が「より良い相手」を見つけたからだった。
感情認識AIの開発に7年携わってきた私が、自分の恋愛の終わりを予測できなかったなんて。
いや、違う。
予測していた。データは揃っていた。ただ、認めたくなかっただけだ。
「3年間、ありがとう」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「……それだけ?」
電話の向こうで、誠司が戸惑う気配がした。
「お前、怒らないのか?」
「怒ってほしかったの?」
沈黙。
私は彼が何を期待していたのか、正確に理解していた。泣いて縋る私。怒り狂う私。そうすれば、彼は「仕方なく別れた」という物語を完成させられる。悪者にならずに済む。
——残念ながら、そのストーリーには協力できない。
「元気でね、藤堂くん」
「凛——」
通話を切った。
スマートフォンの画面が暗くなる。そこに映る自分の顔。黒縁眼鏡。化粧っ気のない地味な顔。「いるかいないか分からない」と言われ続けた、存在感のない女。
(7年間、恋愛感情を分析するAIの開発に携わってきた私が、自分の恋愛の終わりを予測できなかったなんて、皮肉な話)
いや——予測はしていた。
「君の才能を理解している」
3年前、誠司はそう言った。だから私は彼を選んだ。
でも実際は、彼が理解していたのは「私の才能を利用できる」ということだけだった。私が設計した「Heartlink」のコアアルゴリズム。会社の売上の40%を支える技術。その全てが、上司の城島部長の名前で発表されている。
誠司は営業部門の人間だ。彼は知っていたはずだ。
——この会社で、誰が本当に価値を生み出しているのか。
終電のアナウンスが流れる。
『まもなく、1番線に——』
立ち上がろうとした瞬間、私は足を止めた。
同じホームのベンチに、一人の男性が座っている。
高級そうなスーツは皺だらけで、どこか疲れ切った様子。俯いた横顔は整っているが、覇気がない。まるで、全てを失った人のような——
目が合った。
「……すみません」
男性はかすれた声で言った。
「この電車、新宿方面で合ってますか」
私は頷いた。そして、気づけば口が動いていた。
「終電ですよ。乗らないんですか」
男性は苦笑した。その笑みには、自嘲と諦めが滲んでいた。
「乗れないんです。乗ったら、明日また同じ毎日が始まる」
その言葉に、私は既視感を覚えた。
(この人も、今夜、何かを失ったんだ)
終電のベルが鳴る。
ドアが開き、数人の乗客が駆け込んでいく。
私たちは顔を見合わせた。
そして——どちらからともなく、乗らなかった。
ドアが閉まる。電車が動き出す。テールランプが闇に溶けていく。
「……終電、行っちゃいましたね」
男性が呟いた。
「行っちゃいましたね」
私も呟いた。
不思議と、後悔はなかった。
むしろ、どこか清々しささえ感じていた。終電という「日常への帰還」を拒否したこと。それは、今までの自分との決別のようだった。
「近くに24時間のカフェがあります」
私は立ち上がった。
「始発まで、そこで待ちませんか」
男性は驚いたように私を見上げた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「……ありがとうございます。あ、申し遅れました。榊、榊翔太と言います」
「水無瀬凛です」
深夜のホームに、二つの影が並んで歩き出す。
冷たい風が、今度は背中を押すように吹いた。
◇ ◇ ◇
同じ頃——藤堂誠司は、通話が切れたスマートフォンを握りしめていた。
「……あっさりしすぎだろ」
高級マンションのリビング。ワイングラスを片手に、彼は舌打ちする。
泣くと思った。縋ると思った。3年も付き合ったのだから、もっと感情的になるはずだった。
そうすれば、罪悪感も薄れたのに。
「まあ、いいか」
誠司はグラスを傾けた。
明日から、人生のステージが変わる。専務の娘、白河真理亜との婚約。出世コースへの切符。地味な技術者なんかといつまでも付き合っている場合じゃない。
「代わりはいくらでもいる」
城島部長がよく言う言葉。あの女——水無瀬凛は、まさにそういう存在だった。便利だが、替えが利く。誰にでもできる仕事をしている、目立たない女。
……そのはずだった。
誠司がこの夜の選択を後悔するのは、もう少し先の話。
彼が「代わりはいくらでもいる」と切り捨てた女が、実は唯一無二の存在だったと気づいた時——全ては、もう遅かった。
◆ ◆ ◆
深夜1時。駅前の24時間カフェ「ムーンライト」。
窓際の席で向かい合った私たちは、それぞれホットコーヒーを啜っていた。
「……それで、技術パートナーが直前で裏切ったんです」
榊翔太さんは、疲れ切った声で語った。
「明日——いや、もう今日か。投資家へのプレゼンが午後3時にある。でも肝心のデモができない。コア技術を持っていかれた」
創業10年のスタートアップ企業「ネクストエモーション」の代表取締役。恋愛相談AIアプリの開発を目指していたが、共同開発者が競合に引き抜かれたらしい。
「恋愛相談AI……」
私は思わず呟いた。
「ユーザーの感情を分析して、適切なアドバイスを提供するシステムですか?」
「ええ。感情認識の精度が肝なんですが……」
榊さんは頭を抱えた。
「そこの技術が抜けた。ゼロからじゃ、とても間に合わない」
感情認識AI。
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
(……言うべきだろうか)
迷った。でも、この人の目を見ていると、不思議と言葉が出てきた。
「その分野、私も……少しだけ」
「少しだけ」のはずがなかった。
気づけば私は、7年間培ってきた知識を語り始めていた。感情認識の理論的フレームワーク。微表情分析とテキスト感情解析の統合手法。マルチモーダル学習による精度向上——
話すうちに、榊さんの目が変わっていった。
疲弊から、驚愕へ。驚愕から、確信へ。
「待ってください」
彼は身を乗り出した。
「あなた、もしかして——『Heartlink』のコアアルゴリズム設計者じゃないですか」
心臓が止まるかと思った。
「……なぜ、それを」
「業界では伝説なんですよ、あの技術を作った人物」
榊さんは熱っぽく語り始めた。
「マッチング精度87.3%。業界平均の1.4倍。しかもユーザーの潜在的な相性まで予測できる。あのアルゴリズムを作った人物を、うちの業界は『幻の設計者』って呼んでる」
「幻の……」
「公式発表では城島武彦って人の名前になってますけど、技術者の間では常識です。あの人にあんな革新的なコードが書けるはずがない。本当の開発者は別にいるって」
——知っている人がいたんだ。
私の仕事を、ちゃんと見ていた人が。
視界が滲んだ。涙が頬を伝う前に、慌てて眼鏡を外して拭った。
「あ、すみません、泣かせるつもりじゃ——」
「いいんです」
私は首を振った。
「嬉しくて。誰にも認めてもらえないまま、7年間……」
声が震えた。
城島部長に功績を奪われ続けた7年間。「サポートスタッフ」として扱われた7年間。誠司にすら、本当の価値を見てもらえなかった7年間。
それを、初対面の人が——
「水無瀬さん」
榊さんは真剣な目で言った。
「お願いがあります」
「……なんですか」
「今日のプレゼン、手伝ってもらえませんか」
◇ ◇ ◇
翌朝9時。
私は会社に電話をかけた。
「水無瀬です。本日と明日、有給休暇をいただきます」
『は? 今日? 急に言われても——』
総務部の担当者が戸惑う声。当然だ。私は7年間、一度も急な休暇を取ったことがなかった。
『城島部長に確認を——』
「有給休暇の取得に上長の許可は不要です。届出制ですから。よろしくお願いします」
通話を切った。
隣で、榊さんが驚いた顔をしていた。
「いいんですか? 無理に——」
「いいんです」
私は笑った。不思議と、晴れやかな気持ちだった。
「昨日、3年付き合った人に振られたんです。『君といると俺のキャリアに響く』って」
「……それは」
「だから今日は、自分のために動こうと思って」
榊さんは少し目を見開いた。そして、ふっと笑った。
「奇遇ですね。僕も昨日、信じていた人に裏切られたんです」
「お互い、散々な夜でしたね」
「ええ。でも——」
彼は窓の外を見た。朝日が差し込み始めている。
「終電に乗らなくてよかったのかもしれない」
私も、そう思った。
◇ ◇ ◇
同じ頃——会社では異変が起きていた。
「どういうことだ!」
城島武彦は、デスクを叩いて怒鳴った。
「Heartlinkがシステムダウン? メンテナンスチームは何をしている!」
「それが部長……」
部下の一人が青い顔で報告する。
「水無瀬さんが有給を取っていて。彼女じゃないと対応できないエラーが——」
「あいつが? 代わりはいくらでもいるだろう!」
「そ、それが……」
部下は震える手でタブレットを差し出した。
画面には、エラーログが表示されている。システムの中核に関わる暗号化キーのアクセスエラー。
「この暗号化キーの管理者権限……水無瀬さんだけが持っているみたいなんです」
「なに?」
城島の顔から血の気が引いた。
「どういうことだ。俺は何も聞いていないぞ」
「部長が『細かいことは任せる』とおっしゃったので……水無瀬さんが独自にセキュリティを構築されて……」
7年間、「サポートスタッフ」として放置してきたツケが、今になって回ってきた。
城島は慌ててスマートフォンを取り出した。水無瀬凛に電話をかける。
コール音。コール音。コール音——
『おかけになった電話番号は——』
繋がらない。
「くそっ!」
城島は歯ぎしりした。
「あの女、よりによってこんな時に……!」
彼が「代わりはいくらでもいる」と公言していた女。実際は、代わりなど一人もいなかった。
◆ ◆ ◆
そして、午後3時。
港区の高層ビル、会議室。
十数人の投資家を前に、榊翔太は壇上に立っていた。
「本日は、弊社の新規事業についてプレゼンテーションをさせていただきます」
スライドが切り替わる。
「恋愛支援AI『Encounter』。ユーザーの感情を高精度で分析し、最適なコミュニケーションをサポートするシステムです」
投資家たちの表情は懐疑的だった。当然だ。こんな話は腐るほど聞いてきたはずだから。
「では、デモンストレーションをお見せします」
榊さんが合図を送る。
私は深呼吸をして、キーボードに指を置いた。
一晩で設計したプロトタイプ。完璧とは言えない。でも、核心部分は動く。
画面に映し出されたのは、リアルタイムの感情分析チャート。投資家の一人に協力してもらい、サンプルテキストを入力すると——
「感情推定:期待40%、懐疑35%、興味25%。潜在的ニーズ:安心感の提供。推奨アプローチ:具体的な数値とエビデンスの提示」
瞬時に解析結果が表示された。
どよめきが起きた。
「精度は……」
投資家の一人が身を乗り出す。
「現時点で89.7%です」
私は答えた。
「従来の恋愛マッチングAIの平均精度は62%。業界トップの『Heartlink』でも87.3%。このプロトタイプは、一晩で開発したものですが、既に業界最高水準を超えています」
静寂。そして——
拍手が起きた。
最初は一人。次第に広がり、会議室全体に響き渡る。
「素晴らしい」
最前列に座っていた年配の男性——後で榊健一郎さん、翔太さんのお父様だと知る——が立ち上がった。
「榊くん、この技術者は誰だね」
「水無瀬凛さんです。業界では『幻の設計者』と呼ばれている方です」
健一郎さんは私を見た。その目は、城島部長とは正反対だった。値踏みではなく、敬意が込められていた。
「この技術者を手放すな。会社の宝だ」
私は——初めて、自分の価値を正当に認められた気がした。
そして、その瞬間。
会議室の後方で、ドアが開いた。
見覚えのある顔。
「凛」
藤堂誠司が、そこに立っていた。
◇ ◇ ◇
「凛、話がある」
誠司が会議室に足を踏み入れる。その顔には焦りが浮かんでいた。
「戻ってこないか。俺が間違ってた」
投資家たちがざわめく。榊さんが私の前に出ようとしたが、私は手で制した。
大丈夫。これは、私が片付けるべきことだ。
「藤堂さん」
私は振り返りもしなかった。
視線は、スクリーンに映し出されたデモ画面に向けたまま。
「プレゼンの最中です。ご用件は後にしていただけますか」
「後じゃ困るんだ!」
誠司の声が荒くなる。
「Heartlinkがダウンしてる。お前じゃないと直せないって——」
「それは城島部長にお伝えください。私はもう、御社の『サポートスタッフ』ではありませんので」
「サポートスタッフ? お前が言ったのか、そんなこと——」
「城島部長が、ずっとそう言っていましたよ」
私はようやく振り返った。
誠司の顔を、まっすぐに見る。
「『代わりはいくらでもいる』って」
誠司が息を呑んだ。
「凛、俺は——」
「藤堂さん」
私は一歩、彼に近づいた。
「昨夜、あなたは私に言いましたよね。『君といると俺のキャリアに響く』って」
周囲の投資家たちが、興味深そうにこちらを見ている。
「私、ずっと考えていたんです。なぜあなたが私と付き合ったのか」
「それは——」
「私が『Heartlink』の開発者だと知っていたからでしょう?」
誠司の顔が強張った。図星だ。
「営業部門にいれば、技術部門の噂は入ってくる。城島部長の名前で発表されている技術が、実は私のものだって。あなたは最初から知っていた」
「違う、俺は本当に君のことを——」
「『君の才能を理解している』」
私は彼の言葉を引用した。3年前、告白された時の言葉。
「あれ、嘘じゃなかったんですよね。理解していた。だから利用した」
「……っ」
誠司が言葉に詰まる。
私は続けた。穏やかに。淡々と。
「でも、専務の娘さんとの縁談が来た。『より良い相手』が現れた。だから私を切った。合理的な判断ですよね」
「凛——」
「お断りします」
私は背を向けた。
「藤堂さん、私はもう前を向いているので。あなたのことを考える時間が、もったいないんです」
それだけ言って、私は壇上に戻った。
誠司の顔が歪むのが、視界の端に映った。怒り? 屈辱? それとも——後悔?
どうでもいい。もう、どうでもいい。
「失礼しました」
私は投資家たちに一礼した。
「プレゼンを続けさせていただきます」
◇ ◇ ◇
会議室を追い出された誠司は、エレベーターホールで拳を壁に叩きつけた。
「くそっ……!」
あの水無瀬凛が。地味で、目立たなくて、いつも俯いていた女が。
あんな目で、俺を見るなんて。
『あなたのことを考える時間が、もったいないんです』
——俺を、切り捨てた?
スマートフォンが鳴った。婚約者——白河真理亜からだ。
「もしもし——」
『誠司さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
真理亜の声は、いつになく冷たかった。
『Heartlinkがダウンしてるの、知ってる? 私、あのアプリのプレミアム会員なのに、朝からずっと使えないんだけど』
「ああ……それは今、復旧作業を——」
『それと、もう一つ』
真理亜が言葉を切った。
『あなたの元カノ、水無瀬凛さんって人。Heartlinkのコアアルゴリズムを作った人なんですってね』
誠司の心臓が跳ねた。
『SNSで話題になってるわよ。「幻の設計者が姿を現した」って。投資家向けプレゼンで、業界を揺るがす新技術を発表したって』
「待ってくれ、真理亜——」
『あなた、その人のこと「地味で目立たない」って言ってたわよね?』
沈黙。
『人を見る目、ないんじゃない?』
通話が切れた。
誠司は呆然とスマートフォンを見つめた。
——嘘だろ。
凛が? あの凛が、業界の伝説?
3年間、隣にいたのに。
何も、見えていなかった。
◆ ◆ ◆
プレゼンは大成功だった。
複数の投資家から出資の意向を取り付け、榊さんの会社は息を吹き返した。
「水無瀬さん」
片付けをしている私に、榊さんが声をかけた。
「本当に、ありがとうございました。あなたがいなければ——」
「私の方こそ」
私は首を振った。
「久しぶりに、自分の技術を自分の名前で発表できました。それだけで十分です」
「十分じゃありません」
榊さんは真剣な目で言った。
「水無瀬さん。うちの会社に来てください。共同創業者として」
「え——」
「給与は今の1.5倍を保証します。役職はCTO。あなたの技術には、その価値がある」
私は言葉を失った。
CTO。最高技術責任者。「サポートスタッフ」ではなく、経営の中枢。
「即答は求めません」
榊さんは微笑んだ。
「でも、考えてください。あなたの才能が、正当に評価される場所があるってこと」
◇ ◇ ◇
その夜。
私は親友の神崎遥に電話をかけた。
『で、どうするの?』
遥はいつものようにストレートだった。
「……迷ってる」
『凛、あのさ』
遥の声が、少し柔らかくなった。
『お前、昔から自分を安売りしすぎなんだよ』
「……」
『城島に功績取られても黙ってた。誠司に利用されてても気づかないふりしてた。全部、「自分なんか」って思ってたからでしょ』
図星だった。
私はずっと、自分の価値を信じられなかった。だから、誰かに認めてもらうことで、自分を保っていた。
でも——
「榊さんは、最初から私の価値を見抜いてた」
『それよ』
遥の声が弾んだ。
『やっと、ちゃんと見てくれる人に出会えたんじゃん。行きなよ。新しい場所に』
私は窓の外を見た。
夜空に、星が瞬いている。
「……うん」
声に、力が戻っていた。
「行く。私、行くよ」
◇ ◇ ◇
翌日。
私は会社に辞表を提出した。
「待ちなさい、水無瀬!」
城島部長が血相を変えて追いかけてきた。
「Heartlinkはどうするんだ! お前がいないと——」
「代わりはいくらでもいるとおっしゃっていましたよね」
私は振り返らなかった。
「私も、そう思います。頑張ってください」
それだけ言って、私はオフィスを後にした。
7年間過ごした場所。でも、振り返る気にはならなかった。
私はもう、前を向いている。
◆ ◆ ◆
三ヶ月後。
「ネクストエモーション」のオフィスは、港区の新しいビルに移転していた。
共同創業者兼CTOとして迎えられた私は、チームを率いて「Encounter」の開発を進めていた。
「水無瀬さん、ちょっといいですか」
榊さんがオフィスに顔を出した。
「投資家の榊健一郎さん——父ですが——が、新しい技術者を紹介したいって」
「お父様が?」
「ええ。それと……」
榊さんは少し言いにくそうに続けた。
「Heartlinkの件、ニュースになってます」
私はタブレットを受け取った。
画面には、業界ニュースの見出し。
『大手IT企業、主力アプリのシステムダウンで株価急落 技術流出問題に発展か』
記事を読み進める。
——Heartlinkのシステムダウンは、1週間以上続いた。
——主要開発者の退職により、コア技術の保守が困難に。
——研究開発部長の城島武彦氏は、技術管理の不備を問われ降格処分。
城島部長が、降格。
私は何も感じなかった。復讐心も、痛快さも。ただ——当然の結果だと思った。
「水無瀬さん」
榊さんが心配そうに言った。
「大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫です」
私は微笑んだ。
「もう、あの会社のことは——」
スマートフォンが鳴った。
見慣れない番号。出ようか迷ったが、直感的に応答した。
「……もしもし」
『凛? 凛なの?』
母の声だった。
「お母さん? どうしたの、急に——」
『テレビで見たの。あなた、すごい人だったのね』
母の声が、震えていた。
『お母さん、ちゃんと見てなくてごめんね。あなたがずっと、頑張ってたこと——』
「お母さん……」
私の目から、涙が溢れた。
7年間、誰にも認めてもらえなかった。
城島部長に功績を奪われても、誠司に利用されても、黙って耐えてきた。
でも——本当は、誰かに見ていてほしかった。
「ありがとう、お母さん」
声が震えた。
「でも、私——もう大丈夫。ちゃんと見てくれる人たちに、出会えたから」
『そう……そう、よかった』
母も泣いていた。
『あなたの価値は、誰かに認められなくても変わらない。でも——認めてくれる人がいるなら、その人を大切にしなさい』
電話を切った後、私はしばらく動けなかった。
「水無瀬さん」
榊さんが、そっとハンカチを差し出してくれた。
「……ありがとうございます」
私はハンカチを受け取り、涙を拭いた。
「すみません、仕事中に——」
「いいんです」
榊さんは穏やかに笑った。
「泣きたい時は、泣いていい。我慢しなくていいんです」
その言葉が、胸に沁みた。
誠司は、私の涙を見ても「めんどくさい」という顔をした。城島部長は、部下の感情など気にもしなかった。
でも、この人は——
「榊さん」
私は顔を上げた。
「なんですか」
「……いえ、なんでもないです」
言葉にするには、まだ早い。
でも、胸の奥で、小さな火が灯った気がした。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
藤堂誠司は、自分のデスクで呆然としていた。
婚約は破棄された。真理亜は「人を見る目がない男とは結婚できない」と言い放ち、去っていった。
出世コースからも外れた。Heartlinkのシステムダウンの責任を、なぜか営業部門にも問われたのだ。「技術者との連携不足」という名目で。
「藤堂くん」
同僚が声をかけてきた。
「元カノの水無瀬さん、すごいことになってるね。新会社のCTOだって?」
「……」
「あの人、Heartlinkのコア技術作った人だったんだろ? 3年も付き合ってて、気づかなかったの?」
気づいていた。
気づいていて——価値を、見誤っていた。
誠司はスマートフォンを取り出した。凛のSNSを開く。
新しい投稿。新会社のオフィスで、チームメンバーと笑っている写真。
隣には、榊翔太。
二人の距離が、近い。
「……くそ」
誠司は画面を閉じた。
謝りたい。復縁したい。でも——
『私はもう前を向いているので。あなたのことを考える時間が、もったいないんです』
あの言葉が、頭から離れなかった。
凛は、もう戻ってこない。
自分が捨てたものの大きさを、誠司は失ってから初めて理解した。
◆ ◆ ◆
半年後。
「Encounter」は正式リリースを迎えた。
業界を揺るがす高精度の感情認識AI。リリース初日でダウンロード数100万を突破し、投資家たちからの追加出資が殺到した。
メディアは「Heartlinkを超えた新星」と報じた。
私——水無瀬凛の名前が、ようやく正当に世に出た瞬間だった。
「水無瀬さん」
リリースパーティの喧騒の中、榊さんが私を呼んだ。
「ちょっと、外に出ませんか」
「外?」
「見せたいものがあるんです」
私たちはパーティ会場を抜け出し、タクシーに乗った。
車窓を流れる夜景を眺めながら、私は榊さんに聞いた。
「どこに行くんですか」
「もうすぐ分かります」
榊さんは、少し緊張した様子だった。
◇ ◇ ◇
タクシーが止まったのは、見覚えのある場所だった。
「ここ……」
「覚えてますか」
榊さんが先に降り、私に手を差し伸べた。
深夜の駅。がらんとしたプラットホーム。冷たい風が吹き抜ける。
半年前、私たちが出会った場所だった。
「なんで、ここに——」
「水無瀬さん」
榊さんが、私の正面に立った。
「いや……凛さん、と呼んでいいですか」
「え……」
「ずっと、言いたかったことがあるんです」
榊さんの目が、真剣だった。
「あの夜、僕は全てを失ったと思っていた。技術パートナーに裏切られ、会社は潰れかけ、明日が見えなかった」
「……」
「でも、あなたに出会った。終電に乗らなかったから」
榊さんが、一歩近づいた。
「凛さん。あなたは僕の会社を救ってくれた。でも、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「僕の人生を、救ってくれた」
私の心臓が、激しく打ち始めた。
「凛さん。僕は——」
電光掲示板の時刻が、23時47分を示した。
半年前と、同じ時間。
「あなたを愛しています」
榊さんが、小さな箱を取り出した。
「結婚してください」
私は——泣いていた。
嬉しくて。幸せで。信じられなくて。
7年間、誰にも認めてもらえなかった。
3年間、利用されていただけだった。
でも——この人は、最初から私を見ていた。私の価値を、最初から分かっていた。
「はい」
声が震えた。
「はい、喜んで」
榊さんが——翔太さんが、私を抱きしめた。
冷たい風が吹く深夜のホーム。でも、彼の腕の中は温かかった。
「あの夜、終電に乗らなくてよかった」
翔太さんが、私の髪を撫でながら呟いた。
「本当に」
私も呟いた。
終電が過ぎた深夜のホームで、二つの人生が交差した。
そして——新しい物語が、始まった。
◇ ◇ ◇
エピローグ
1年後。
榊凛——かつての水無瀬凛は、新居のリビングでタブレットを眺めていた。
画面には、業界ニュース。
『旧Heartlink開発企業、業績不振で子会社化 技術流出問題が尾を引く』
城島武彦の名前は、もう記事に出てこなかった。降格後、依願退職したと風の噂で聞いた。
藤堂誠司についても、時々耳にする。出世コースから外れ、地方の営業所に異動したらしい。婚約破棄後、新しい恋人もできていないという。
私は——何も感じなかった。
復讐心も、同情も、優越感も。
ただ、彼らのことを考える時間が、もったいないと思うだけだ。
「凛」
翔太さんが、コーヒーを持ってきてくれた。
「何見てるの」
「昔の会社のニュース」
「ああ……」
翔太さんは、私の隣に座った。
「後悔してる?」
「全然」
私はタブレットを閉じた。
「むしろ、感謝してるかも」
「感謝?」
「あの人たちのおかげで、あなたに出会えたから」
翔太さんが笑った。私も笑った。
窓の外には、春の陽射しが差し込んでいる。
私は、新しい人生を歩んでいる。
自分の価値を認めてくれる人と一緒に。
自分の才能を正当に発揮できる場所で。
終電を逃した夜に始まった物語は、こうして幸せな結末を迎えた。
——いや、結末ではない。
これは、始まりだ。
私と翔太さんの、新しい物語の。
《完》




