第八章:憤死への道
ラムが死んでから半年。私の世界は、音を立てて崩壊した。
きっかけは、些細なことだった。私が運営していた投資ファンド――実態はただの自転車操業――に出資していた一人の老人が、配当の遅れに痺れを切らし、警察に駆け込んだのだ。
蟻の一穴。そこから、ダムが決壊するように全てが溢れ出した。
ある朝、アパートのドアが激しく叩かれた。
「警察だ! 開けなさい!」
土足で踏み込んできた刑事たちは、私の部屋を――ゴミとブランド品の空箱が散乱する城を――無遠慮に荒らし回った。通帳、印鑑、顧客リスト。全てが押収されていく。
「触らないで! それはエルメスよ!」
「黙りなさい。詐欺容疑で逮捕状が出ている」
手錠。冷たい金属の感触が、手首に食い込む。私は連行された。パトカーに乗せられる瞬間、近所の住人たちが野次馬として集まっているのが見えた。彼らの目は、蔑みと好奇心で濁っていた。
私は、背筋を伸ばし、顎を上げて彼らを睨みつけた。見世物じゃない。私は女王なのだ。お前たちのような下民に見下される筋合いはない。
取調室での日々は屈辱だった。刑事たちは私を「おばさん」と呼び、私の完璧なビジネスモデルを「子供騙しの詐欺」と嘲笑った。
私は黙秘を貫いた。話したところで、この凡人たちに私の高尚な理念など理解できるはずがない。私は彼らに夢を与えたのだ。感謝されこそすれ、裁かれるなど言語道断だ。
結局、私は執行猶予付きの判決を受けた。初犯であり、被害弁済の意思(もちろん嘘だ)を示したからだ。だが、それは自由の獲得ではなかった。本当の地獄の始まりだった。
釈放された私を待っていたのは、民事訴訟の嵐と、借金取りの怒号だった。わずかに残っていた貴金属も、家具も、全て差し押さえられた。住む場所も追われた。
私が最後にたどり着いたのは、川沿いのスラム街にある、築四十年の木造アパートだった。風呂なし、トイレ共同。家賃二万円。かつて私が飼っていた犬小屋よりも狭く、汚い場所。
二〇〇二年、冬。隙間風が吹き込む六畳間で、私は布団にくるまり、震えていた。電気もガスも止められている。手元にあるのは、コンビニで万引きしたカップ酒と、賞味期限切れのパンだけ。
「……寒い」
吐く息が白い。鏡を見る。そこに映っているのは、髪が白髪交じりになり、頬がこけ、目が落ち窪んだ、見知らぬ老婆だった。
四十五歳。まだ人生の折り返し地点のはずだ。なのに、なぜ私はこんな姿をしている?
怒りが、腹の底から湧き上がってくる。熱い。寒いのに、内臓が煮えくり返るように熱い。
悪いのは、誰だ。
バブルを崩壊させた政府か。私を騙した投資会社か。私を見捨てた男たちか。私を逮捕した警察か。
――いいえ、違う。
脳裏に、あの無表情な少女の顔が浮かんだ。ラム。あの子だ。あの子が全ての元凶だ。あの子が私を裏切り、勝手に死んだから、私の運命の歯車が狂ったのだ。あの子が生きていれば、働かせて金を搾り取れた。あの子を餌に、また新しい男を釣れたかもしれない。
「……役立たず」
私は、暗闇に向かって吐き捨てた。
「苦労して手に入れたのに。育ててやったのに。恩も返さずに死ぬなんて、泥棒猫め」
胸が痛む。キリキリと、心臓を針金で締め上げられるような痛み。持病の不整脈が悪化している。薬を買う金などない。
私は、床に転がっていた週刊誌を拾い上げた。そこには、かつて私が狙っていた実業家が、新しい愛人と結婚したという記事が載っていた。写真の中の男は、幸せそうに笑っている。その隣にいる女は、若く、美しく、そして――かつての私に少し似ていた。
ビリッ。
私は雑誌を引き裂いた。許せない。私だけが不幸になるなんて、許せない。私はマリア・ミシェルだ。選ばれた女だ。私が座るはずだった玉座に、他の女が座っていることが許せない。
「私は……正義よ」
掠れた声で、私は誰にともなく宣言した。
「私は何も間違っていない。私が欲しがったものは、全て私が手に入れるべき正当な権利があったものよ」
「金も、男も、名声も、娘も。世界が私に献上すべきだったのよ!」
叫んだ瞬間。ドクン、と心臓が大きく跳ねた。視界が真っ赤に染まる。激痛が走り、私は床に倒れ込んだ。
苦しい。息ができない。心臓発作だ。助けを呼ぼうにも、電話は止められている。声も出ない。
薄れゆく意識の中で、走馬灯が見えた。幼い頃、父に買ってもらったピアノ。夫と結婚した日の、五カラットの指輪。パーティーで浴びた、無数のフラッシュ。そして、クローゼットの中で泣き叫ぶラムの顔。
ああ、なんて美しい人生だったのだろう。私は常に主役だった。私は常に支配者だった。それなのに、なぜ、こんなゴミ溜めで終わらなければならない?
悔しい。悔しい、悔しい、悔しい!
死にたくない。まだ、何も満たされていない。もっと美味しいものが食べたい。もっといい服が着たい。もっと、もっと、もっと――。
「……神に」
最期の力が、喉を震わせた。
「次は……神に、なりたい……」
人間などという不完全な器では、私の欲望は収まりきらない。法も、倫理も、寿命さえも超越した、絶対的な存在。誰にも否定されず、誰からも奪われず、全てを意のままに操る存在。
その渇望だけが、死にゆく脳細胞の中で、超新星のように輝いた。
心臓が止まる。肉体の機能が停止する。だが、私の魂は消えなかった。あまりにも強大な執着と悪意が、魂を現世の理から引き剥がし、次元の狭間へと引きずり込んでいく。
暗黒の中を落ちていく。その底に、微かな光が見えた。それは、天国の光ではない。もっと毒々しく、もっと甘美な、魔力の光。
――聞こえる。誰かの泣き声が。誰かの祈りが。
ああ、いい匂いだ。弱き者たちの、絶望の匂い。そこなら、私は満たされるかもしれない。
私は、闇の中で笑った。待っていなさい、新しい世界。このマリア様が、お前たちを支配してあげる。今度こそ、完璧な王国を作るために。
マリア・ミシェルの肉体は、汚れた畳の上で冷たくなった。その顔は、苦悶と、そして底知れない貪欲さで、醜く歪んでいた。
そして。異世界の貧民街で、一人の赤子が産声を上げた。その瞳には、生まれた瞬間から、無垢な輝きなど微塵もなかった。あるのは、世界を食い尽くさんとする、老獪な怪物の光だけだった。




