第七章:娘の反逆
二〇〇一年。二十一世紀が幕を開けた。世間は新世紀の到来に浮かれていたが、私の時間は止まったままだった。ゴミと督促状に埋もれたアパートの一室で、私はカレンダーの日付を指でなぞっていた。
三月。ラムが高校を卒業する。待ちに待った「収穫」の季節だ。
私は、電卓を叩いた。ラムを高卒で働かせれば、手取りで十五万は稼ぐだろう。夜もバイトをさせれば、もっといく。生活費として三万だけ渡して、残りは全て私が管理する。そうすれば、借金の利息くらいは払える。少しずつだが、またブランド品を買う余裕もできるかもしれない。
「……長かったわ」
私は、安酒を煽りながら独りごちた。十八年間。餌を与え、服を着せ、教育を施してきた。その投資を回収する時が、ようやく来たのだ。ラムは私の所有物だ。彼女が稼ぐ金も、彼女の未来も、すべて私のものだ。
卒業式の前日。ラムが帰宅した。いつものように、気配を消して、音もなく部屋に入ってくる。だが、今日のラムは、どこか違っていた。背筋が伸びている。そして、その瞳に、いつもの怯えがない。
「ママ。話があるの」
ラムが、私を直視して言った。その声の低さに、私は眉をひそめた。
「何よ。小遣いの値上げなら認めないわよ。明日からは、あなたが私を養うんだからね」
「就職はしないわ」
ラムは、淡々と言った。私は、耳を疑った。
「……は? 何言ってるの? 大学に行く金なんてないわよ」
「大学には行く。でも、ママの金は一円も使わない」
ラムは、鞄から一枚の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。それは、海外の大学の合格通知書と、奨学金の給付決定通知書だった。
「イギリスの大学に留学するの。学費も生活費も、全額免除の特待生として合格したわ」
私は、その書類を呆然と見つめた。英語の羅列。だが、そこに書かれている数字の意味は理解できた。破格の待遇だ。
「……いつの間に」
私の声が震えた。私は、この子を完璧に管理していたはずだ。学校の成績も、交友関係も、全て把握していたはずだ。それなのに、いつ、こんな準備を?
「ママが外で男と会っている間。ママが電話で嘘をついている間。ママが寝ている間」
ラムは、静かに答えた。その表情には、勝利の笑みも、私への軽蔑もなかった。ただ、事務的な「報告」があるだけだった。
「パスポートも取った。ビザも下りた。明日の夜の便で発つわ」
明日の夜? ふざけるな。私の許可なく、勝手に私の元を去るだと?
「誰か! この泥棒を止めて!」
私は叫んだ。だが、もう周りには誰もいない。男たちも、借金取りも、皆去った後だ。私の言葉に従う者は、もう一人もいない。
私は、テーブルをひっくり返した。空き缶や吸い殻が床に散乱する。
「許さない! 誰のおかげで大きくなれたと思ってるの! 私が! 私の金を削って! お前を育ててやったのよ! 恩返しもせずに逃げるなんて、泥棒と同じよ!」
「止まりなさい!」
私は命令した。いつものように、ラムが私の言葉に従い、動きを止めることを期待した。だが。
ラムは、歩き続けた。
私の言葉が、彼女を止められない。その事実が、私の心臓を貫いた。
「……待ちなさい!」
私は、ラムの腕を掴もうとした。だが、ラムは冷ややかに私の手を払いのけた。
「もう、殴らせない。もう、従わない」
ラムは、私を見下ろしていた。いつの間にか、彼女の身長は私を追い越していた。その瞳。色の薄い、冷たい瞳。そこには、私という存在が、一片も映っていなかった。
恐怖でも、憎悪でもない。「無関心」。彼女にとって、私はもう、恐怖の対象ですらない。ただの、通り過ぎるべき障害物でしかないのだ。
「私は、ママの道具じゃない。ママの作品でもない」
ラムは、私を振り払った。私はよろめき、ゴミの山に尻餅をついた。
「今まで育ててくれてありがとう。……さようなら」
ラムは、足元に置いてあったボストンバッグを拾い上げた。荷物はそれだけだった。私が買い与えたフリルの服も、人形も、何一つ持っていない。彼女は、私に関連する全てのものを捨てていく気だ。
玄関のドアが開く。外の光が、薄暗い部屋に差し込む。ラムは一度も振り返らなかった。鉄の扉が、重い音を立てて閉まる。
ガチャリ。
鍵のかかる音が、私の心臓を貫いた。
「あ……あああ……」
私は、ドアノブにすがりつき、絶叫した。
「泥棒! 裏切り者! 戻ってきなさい! お前は私のものよ! 私のものなのにぃぃぃ!」
誰も答えない。アパートの廊下に、私の汚い叫び声だけが木霊する。私は、また、全てを失った。金も、地位も、そして最後に残った、唯一の支配対象さえも。
それからの数日間、私は抜け殻のようだった。酒を飲み、ラムの部屋(今は物置だが)を荒らし、彼女が残していった教科書やノートをビリビリに引き裂いた。
あの子は失敗作だ。私の教育が間違っていたのではない。あの子の素材が悪かったのだ。そうだ、あの父親の血だ。あの裏切り者の血が、あの子を汚染していたのだ。
私は、そう自分に言い聞かせ、正気を保とうとした。だが、心の穴は、もう塞がりようがないほど広がっていた。寒い。ひもじい。寂しい。誰か、私を見て。私を褒めて。私を必要として。
そんなある日。つけっぱなしのテレビから、臨時ニュースのチャイムが流れた。
『――速報です。ロンドン行きの国際線旅客機が、エンジントラブルにより墜落した模様です。乗客乗員、全員の安否は絶望的と見られ――』
私は、画面に釘付けになった。便名。日付。間違いない。ラムが乗った飛行機だ。
画面には、墜落現場の映像が映し出されている。黒煙を上げる機体の残骸。散乱する荷物。生存者はいない、とアナウンサーが沈痛な面持ちで告げる。
その瞬間。私の口から漏れたのは、悲鳴でも、慟哭でもなかった。
「……は」
乾いた笑い声だった。
「はは……ははははは!」
私は、腹を抱えて笑った。涙が出るほど笑った。
死んだ。あの子は、死んだ。私を捨てて、私から逃げ出して、自由になろうとした罰だ。ざまあみろ。私の元を離れるから、そんなことになるのよ。私という守護者を失ったお前なんて、世界にとってはただの羽虫に過ぎないのよ。
だが。笑いが収まると同時に、底知れない虚無が襲ってきた。
死んだということは。もう二度と、戻ってこないということだ。私が彼女を支配することも、罵ることも、金をせびることも、もう二度とできない。
彼女は、死によって、永遠に私の支配から逃げおおせたのだ。
「……卑怯よ」
私は、テレビ画面に向かって呟いた。
「勝手に死ぬなんて、許さない。私が『死んでいい』と言うまで、お前は生きているべきだったのよ」
私の所有物が、勝手に壊れた。それも、私の手の届かない場所で。そしてラムを通して得られるはずだった財産分与も消えた。これは、私の人生最大の敗北だった。
私は、床に転がっていたラムの写真を拾い上げた。幼い頃、私が着せ替え人形にしていた頃の写真。無表情な笑顔。
私は、その写真をライターで炙った。炎が、ラムの顔を舐め、黒く焦がしていく。
「お前なんて、いなかった」
「私は、最初から一人だった」
灰になった写真を踏みつけ、私は立ち上がった。もう、失うものは何もない。ラムという重荷もなくなった。私は自由だ。
そう。私はまだ、マリア・ミシェル。この程度のことで終わる女ではない。世界が私を否定するなら、私が世界を否定してやる。
私の狂気は、ここから本当の完成を迎える。愛も、絆も、希望も、全てを焼き尽くす、純粋な悪意の炎となって。




