第五章:バブル崩壊
一九九〇年。その音は、風船が割れるような軽快な音ではなかった。巨大な鉄骨が、錆びついてゆっくりと崩れ落ちていくような、重く、鈍く、そして絶望的な地響きだった。
株価が暴落した。最初は「調整局面だ」と誰もが笑っていた。すぐに戻る、押し目買いのチャンスだと。私もそう信じていた。私の資産は、永遠に増え続けるはずだったからだ。だが、数字は戻らなかった。赤や緑の電光掲示板が、私の資産を食い荒らすピラニアの群れに見えた。
不動産融資の総量規制。地価の下落。昨日まで銀座で豪遊していた不動産王たちが、一夜にして借金まみれの敗残者へと転落していく。私が狙いを定めていた「五百億の男」たちも、次々と姿を消した。ある者は破産し、ある者は逮捕され、ある者は夜逃げした。
私の足元も、揺らぎ始めていた。元夫から毟り取った十五億と、バブルで増やした資産。合わせて四十億近くあったはずの私の財産が、みるみるうちに溶けていく。含み損。追証。聞き慣れない、不愉快な言葉が私の生活を侵食する。
「……どういうことよ」
リビングで、私は証券会社の担当者に電話を怒鳴りつけた。
「損切り? ふざけないで! 私が損をするなんてありえないわ! 今すぐ何とかしなさいよ!」
受話器の向こうで、担当者が蚊の鳴くような声で謝罪する。役立たず。どいつもこいつも、無能ばかりだ。
私は受話器を叩きつけた。呼吸が荒くなる。胸の奥の穴が、かつてないほど大きく広がり、冷たい風を吹き込んでくる。金が減る。それは、私の血液が抜かれていくのと同じことだ。私の価値が、私の存在意義が、数字と共に削り取られていく恐怖。
イライラする。何かに当たり散らさなければ、気が狂いそうだ。
ふと、視界の端に、ランドセルを背負ったラムが入ってきた。小学校から帰ってきたのだ。
「……ただいま」
ラムは私の顔色を窺い、蚊の鳴くような声で言う。
その怯えた目。夫に似た、あの目。
――お前のせいだ。
唐突に、どす黒い感情が湧き上がった。この子が生まれてから、私の人生は少しずつ狂い始めたのではないか? この子がいなければ、私はもっと身軽に動けたはずだ。もっと早く、もっと賢く、資産を海外に移せたかもしれない。この子は、私に寄生し、私の運気を吸い取る「疫病神」なのではないか?
「……ちょっと、来なさい」
私は低い声で呼んだ。ラムがビクリと震え、足を引きずるように近づいてくる。
「今日は、お出かけよ」
「え……どこへ?」
「いいから、乗りなさい」
私の声には、有無を言わせぬ冷たさがあった。ラムは怯えながらも、私の命令に従う。それが、彼女に刻み込まれた恐怖の条件反射だった。
私たちはジャガーに乗り込んだ。向かったのは、都心のオフィス街にある、怪しげな投資顧問会社のビルだった。「絶対に損をしない裏技がある」という噂を聞きつけたのだ。藁にもすがる思いだった。
ビルの前の路上に車を停める。真夏の午後二時。アスファルトからの照り返しで、外気はサウナのように熱い。
「ここで待っていなさい」
私はラムに命じた。
「ママは大事な話があるの。絶対に車から出るんじゃないわよ。誰かに見られたら誘拐されるかもしれないからね」
「……うん。わかった」
ラムは素直に頷いた。
私はエンジンを切り、窓を閉め切って車を降りた。エアコンを切った車内がどうなるか、想像しなかったわけではない。だが、ガソリン代が勿体なかった。それに、エンジンをかけっぱなしにして車を盗まれたらどうする? このジャガーは私の数少ない残されたステータスなのだ。子供の命より、車の方が大事だった。
投資会社での話は長引いた。男たちの話は胡散臭かったが、私は必死だった。「月利一〇%」という甘い言葉に、残った資金を賭ける契約書にサインをする。気づけば、三時間が経過していた。
ビルを出ると、日は傾きかけていたが、暑さはまだ残っていた。私はジャガーに戻り、ドアを開けた。
むっ、とした熱気が顔を打つ。車内は、オーブンのようだった。
助手席で、ラムがぐったりとしていた。顔は真っ赤で、呼吸が浅い。汗で髪が額に張り付き、目は虚ろに半開きになっている。脱水症状。熱中症。死にかけている。
その姿を見た瞬間、私が感じたのは「焦り」でも「心配」でもなかった。
――汚い。
革張りのシートが、ラムの汗でじっとりと濡れている。高級なコノリーレザーに、シミがついたらどうするの?
「……起きなさい」
私は、冷ややかな声で命じた。ラムは反応しない。ただ、浅い呼吸を繰り返しているだけだ。
「だらしない顔をして。みっともない」
「……ママ……?」
「生きてるわね。ならいいわ」
私は運転席に乗り込み、エンジンをかけた。エアコンの冷風が吹き出す。ラムは、ガタガタと震え出した。急激な温度変化に体がついていかないのだろう。
私は、バックミラー越しに娘を睨みつけた。
「あんたのせいで、シートが台無しよ。クリーニング代、あんたのお年玉から引いておくからね」
ラムは何も言わなかった。ただ、窓ガラスに頭を預け、空っぽの目で流れる景色を見ていた。その目は、私を恨んでいるようにも、諦めているようにも見えた。
その日を境に、私の中でタガが外れた。
イライラすると、付き合っている男にラムの悪口を吹き込んだ。
「あの子のせいで、私は不幸なの」
「あの子、あなたの財布からお金を盗もうとしていたわよ」
嘘だ。だが、男たちは私の言葉を信じ、激昂してラムを叱りつけた。時には、殴った。私はそれを、ワインを飲みながら、まるでショーを観るように眺めていた。
株が下がると、ラムの食事を抜いた。男に振られると、ラムをベランダに閉め出した。
ラムは、私のサンドバッグだった。私の不幸を吸い取ってくれる、便利なゴミ箱。男たちが彼女を痛めつけるたびに、少しだけ胸のつかえが取れる気がした。
「お前は私の作品なのよ。完璧でなければ価値がない」
「お前がいなければ、私はもっと幸せになれたのに」
私は呪いの言葉を吐き続けた。それは、自分自身への言い訳でもあった。私が落ちぶれていくのは、私のせいじゃない。この子のせいだ。時代のせいだ。私は悪くない。私は被害者なのだ。
一九九一年。バブルは完全に崩壊した。私の資産は、全盛期の三分の一にまで減っていた。かつて私に群がっていた人々は、潮が引くように去っていった。電話は鳴らない。パーティーの招待状も届かない。
鏡の中の私は、まだ美しい。三十代半ば。女としての盛りだ。なのに、なぜ? なぜ世界は、私を無視するの?
焦燥感が、私を狂気へと駆り立てる。まともな方法では、もう這い上がれない。ならば、手段を選んでいる場合ではない。
私は、黒い手帳を開いた。そこには、まだ金を持っていそうな、数少ない男たちの名前が記されていた。彼らを騙し、骨の髄までしゃぶり尽くす。詐欺でも、恐喝でも、何でもやる。
「……見ていなさい。私は必ず、玉座に戻ってみせる」
私は、震える手で口紅を引いた。その赤は、血の色のように鮮やかで、そしてどこか、死化粧のように見えた。
隣の部屋から、ラムの咳き込む音が聞こえる。風邪を引いているのだろう。だが、ラムに与える薬などに使う金はない。私はテレビのボリュームを上げ、その音をかき消した。
私の狂乱の宴は、まだ終わらない。終わらせてなるものか。地獄の底まで落ちようとも、私は、私の欲望を離さない。




