第四章:次の獲物を探して
一九八八年。東京は、黄金の都市だった。
地価は高騰し続け、日経平均株価は天井知らず。誰もが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という幻想を信じ、湯水のように金を使い、そして笑っていた。その狂乱の中心に、私はいた。
広尾の豪邸を改装し、私は夜な夜なサロンを開いた。集まるのは、政治家、外資系企業の幹部、新進気鋭のアーティスト、そして怪しげな投資コンサルタントたち。シャンデリアの下、高級ワインが振る舞われ、札束が飛び交う。私は、その宴の女王だった。
私の肩書きは「敏腕女性実業家」。表向きは、インテリアコーディネーターと経営コンサルタントを名乗っていた。実態は、金目のある男たちをそそのかし、詐欺まがいのアドバイスで金を巻き上げる詐欺師だ。だが、誰もそれに気づかない。「女性の自立」を掲げる時代の寵児として、私はメディアにも取り上げられ始めていた。
「マリアさん、今夜も美しい」
「君のような知的な女性には、この宝石が似合う」
男たちは、私に群がった。彼らは皆、金を持っていた。だが、私が求めているのは、ただの金持ちではない。夫から搾り取った二十億など、端金に思えるほどの、桁違いの怪物。国家予算を動かす政治家か、世界を股にかける大富豪か。私は、より高く、より強い光を放つ獲物を探し求めて、毎晩のようにパーティーを渡り歩いた。
そんな私の生活において、娘のラムは、重要な「小道具」だった。
昼下がりのガーデンパーティー。私は、ラムにフランス製のレースのドレスを着せ、髪を丁寧にカールさせる。五歳になったラムは、夫の美貌を受け継ぎ、人形のように愛らしかった。
「ご挨拶なさい、ラム」
私が促すと、ラムは教えられた通り、スカートの裾をつまんでカーテシー(膝を折る挨拶)をする。その完璧な所作に、ゲストたちは感嘆の声を上げる。
「なんて可愛らしいお嬢さんだ!」
「マリアさんの教育の賜物ですね。シングルマザーで一人で苦労して育てられるなんて」
称賛のシャワー。私は、聖母のような微笑みを浮かべ、ラムの肩を抱く。
「ええ、この子は私の宝物ですから。夫が……ああいう形で去ってしまって、寂しい思いをさせていますが、その分、私が愛情を注いでいますの」
嘘ではない。私はこの子に、最高級の服と、最高級の教育を与えている。ピアノ、バレエ、英会話。それは全て、私の「作品」としての価値を高めるためのコーティングだ。ラムが褒められることは、すなわち、製作者である私が褒められること。その快感のために、私は金を惜しまなかった。
だが。パーティーが終わり、ゲストが帰った瞬間。魔法は解ける。
今日は特別なゲストがいた。藤堂という男。不動産開発会社の若手経営者で、資産は五十億とも言われている。私は彼を次のターゲットに定めていた。
「マリアさん、素晴らしいパーティーでした」
藤堂が、玄関で私に微笑みかける。四十代前半。筋肉質の体躯に、強気な目つき。粗野だが、それが逆に男性的な魅力を放っている。
「ありがとうございます。また是非いらしてくださいね」
私は、媚びるような笑顔を向けた。その時、ラムが、私の腕にすがりついてきた。
「マリア先生、あのね、今日ね……」
子供の甘えた声。藤堂の前で、完璧な母親を演じなければならない時に、このタイミングで。私の中で、何かが弾けた。
だが、私は笑顔を崩さなかった。代わりに、困ったような表情で藤堂に視線を送る。
「まあ……この子、疲れてしまったみたいで。父親がいないせいか、躾がなってなくて、困ってしまいますわ」
私の声には、わざとらしい弱々しさが混じっている。藤堂は、その瞬間を見逃さなかった。
「お嬢ちゃん、ママは今、お忙しいんだよ」
藤堂の大きな手が、ラムの肩を掴んだ。ラムがビクリと震える。
「大人の話をしてるんだ。いい子は、静かにしてなきゃね」
そう言って、藤堂はラムを引き離し、一階の奥にある物置部屋へと連れて行った。ラムは怯えた目で私を見たが、私は微笑んだまま、何も言わなかった。
ドアが閉まる音。鍵がかかる音。そして、中から微かに聞こえる、押し殺した泣き声。
「ありがとうございます、藤堂さん。頼りになる方がいてくださると、本当に助かりますわ」
私は、藤堂の腕に手を添えた。彼は満足げに笑った。
「こういうのは、男の仕事ですよ。マリアさんみたいな美しい方、苦労されているのを見ると、放っておけなくてね」
完璧だ。この男は、私のために「力」を使ってくれる。それが彼の価値。ラムの苦痛など、私の計算に入らない。
藤堂が帰った後、私はリビングに戻り、最高級のブランデーをグラスに注いだ。レコードに針を落とす。マリア・カラスのオペラが、部屋に満ちる。その荘厳な歌声は、物置部屋からの微かな泣き声を、完全にかき消してくれた。
それから、私の「教育」は日常になった。
私が電話をしている時に話しかけてきたら、「困ったわ、この子、言うことを聞かなくて」と、その場にいる男に目配せする。男たちは、私の歓心を買おうと、競ってラムを「躾」してくれた。
私の気に入らない服を着たら、「センスがないのよね、教えてあげなきゃ」と嘆く。すると男が、母親の価値観を大事にしないなんてと何時間もラムを説教した。
ラムが何か自分の意見を言って私の機嫌を損ねた時は、「あの子は私をコケにした。きっと怒ってくれる父親がいないからよ。態度も悪くこのまま非行に走らないか心配で…」と囁く。男は理解し、ラムを殴ったり、ジャイアントスイングして壁に投げつけてくれた。
私は一度も、自分の手を汚さなかった。全て、言葉だけで。男たちを操り、彼らにラムを支配させた。それは、まるで指揮者がタクトを振るように、優雅で、そして残酷な支配だった。
ラムは、次第に学習していった。私の顔色を窺い、気配を消すことを覚えた。私が呼んだ時だけ、スイッチが入ったように笑い、それ以外は空気のように振る舞う。素晴らしい。私の望み通りの、手のかからない「置物」になってきた。
ある夜のパーティーで、私は建設会社の社長である剛田という男と飲んでいた。筋骨隆々とした体格で、学生時代は柔道をやっていたという。酒が入ると、やたらと武勇伝を語りたがる、典型的な体育会系の成金だ。
ふと、部屋の隅でラムが膝を抱えて座っているのが目に入った。その陰気な姿が、華やかなパーティーの空気を汚しているようで不快だった。
「まあ、あの子ったら。もっと子供らしく元気に遊べばいいのに」
私は剛田に流し目を使った。
「剛田さん、あの子に『高い高い』でもしてあげてくださる? 三半規管を鍛えると、根性がつくって聞きましたの。私、あの子が将来引きこもりにでもなったらと思うと、心配で心配で……」
私は困ったような顔をして見せた。
「おっ、任せとけ! 俺は柔道部で鍛えてたんだ。子供の一人や二人、軽いもんだ」
酔った剛田は、ラムの元へ大股で歩み寄ると、嫌がる彼女の両足首を無造作に掴んだ。
「そーれ、飛行機だぞ!」
剛田はラムを逆さまに持ち上げ、独楽のように激しく回転させ始めた。
「いやぁぁぁ!」
ラムの悲鳴が遠心力で引き伸ばされる。景色が高速で流れる恐怖。世界が回転し、上下の感覚が失われていく。
私はその光景を、オードブルをつまみながら眺めていた。
「あらあら、元気でいいわね。……もっと回してあげて。胃の中身と一緒に、その陰気な根性も吐き出させればいいわ」
剛田が得意げに「どうだ、これが柔道で鍛えた握力だ!」と叫びながら、さらに回転を速める。
ラムの顔は真っ青になり、口から涎が垂れている。意識が朦朧としていくのが、離れた場所からでも分かった。
やがて、剛田が手を離すと、ラムは放物線を描いて壁に激突し、鈍い音を立てて床に崩れ落ちた。
ゴツン、という重い衝撃音。
ラムの頭部が壁の角に直撃したのだ。
彼女は動かなくなった。額から血が流れ、右目の上が赤く腫れ上がり始めている。みるみるうちに、卵大のたんこぶができていく。
「あはは! いや、久々にいい運動になった!」
剛田が豪快に笑う。周りの男たちも、拍手喝采だ。誰も、ラムの頭から血が流れていることに気づいていない。あるいは、気づいていても、気にしていない。
私は満足げに微笑んだ。
「ありがとうございます、剛田さん。おかげで、あの子も少しは強くなれたかしら」
床に倒れたラムは、片目だけを開けていた。もう片方の目は、腫れ上がったたんこぶに半分塞がれている。焦点が合っていない。天井がぐるぐると回り続けているのだろう。嘔吐物が口の端から零れ、額からの血が頬を伝っている。
その姿を見て、私は静かに立ち上がり、ラムの頭を冷たく見下ろした。
「汚いわね。血も吐瀉物も、自分で片付けなさい」
ラムは答えなかった。ただ、虚ろな目で天井を見つめ続けていた。その瞳の奥で、世界がまだ、永遠に回り続けているかのように。
一方で、私の欲望は、底なし沼のように深くなっていった。バブルの波に乗り、株や不動産で資産は倍増した。三十億、四十億。通帳の数字は増えていく。だが、満たされない。
ある夜、私は鏡の前で、自分の裸体を見つめていた。三十歳を過ぎたが、肌には一点の染みもなく、プロポーションは完璧だ。これだけの美貌と、これだけの富を持っているのに。なぜ、私はまだ「神」ではないの?
周りの男たちは、私をチヤホヤするが、誰も私に「世界」をくれない。どいつもこいつも、小粒だ。私の価値に見合う男が、この日本にはいないのか?
「……もっと。もっと欲しい」
称賛が欲しい。誰よりも高い場所に立ち、下界の人間たちを見下ろしたい。私を崇めよ。私を愛せ。私に全てを捧げよ。
その渇望は、もはや病理だった。私は、承認という名の麻薬中毒者になっていた。より強い刺激を、より大きな獲物を。
一九八九年。昭和が終わり、平成が始まった。日経平均株価は、三万八千九百十五円の最高値をつけた。世の中は、永遠に続く繁栄を信じていた。私も信じていた。私の美貌も、富も、権力も、永遠に右肩上がりで続いていくのだと。
だが、宴には必ず終わりが来る。そして、高く積み上げた積み木ほど、崩れる時の音は大きい。
その足音は、すぐそこまで迫っていた。物置の中で震えるラムの、押し殺した呼吸音のように、静かに、不気味に。




