第三章:計算された破綻
狩りの基本は、獲物を飢えさせることだ。満腹の獣は、罠にかからない。孤独と欲求不満で判断力が鈍った時こそ、彼らは最も愚かな行動に出る。
私は、家庭内での「兵糧攻め」を開始した。
まず、寝室を別にした。「ラムの夜泣きがひどいから」という、誰も否定できない理由をつけて。次に、「ビジネスパートナー」としての役割を放棄した。夫が仕事の相談をしてきても、「私にはよく分からないわ」と突き放すようになった。そして、会話を減らした。彼が帰宅しても、「お疲れ様」と一言だけ告げ、すぐに子供部屋に引きこもる。
夫は、目に見えて弱っていった。家に帰っても、冷たい妻と、妻に似た娘の無表情しかない。五百億の資産を持つ男が、家庭内では野良犬のような扱いを受けている。その哀れな姿を、私はドアの隙間から冷ややかに観察していた。
だが、私が本当に狙っていたのは、別のことだった。
夫を、壊すのだ。社会的に、経済的に、精神的に。そして、「可哀想なダメ息子」として、彼の両親にすら見限らせる。
私は、夫の会社に、わざと悪い助言を与え始めた。もちろん、表向きは「良かれと思って」だ。
「玲さん、この投資案件、素晴らしいと思うわ。ぜひ進めて」
その案件は、私が裏で調べた結果、確実に失敗すると分かっていた。夫は私の言葉を信じ、巨額の投資を行った。そして、予想通り失敗した。
同時に、私は夫を女遊びへと誘導した。
「玲さん、最近お疲れのようね。たまには息抜きも必要よ。私は気にしないから」
夫は最初戸惑ったが、妻の「許可」を得たと感じ、次第に夜の街へ繰り出すようになった。私は、わざと派手な女性を紹介し、高級クラブの会員権を贈った。
夫の放蕩と事業の失敗は、すぐに義父母の耳に入った。
「玲は、一体何をしているんだ!」
義父が激怒して屋敷にやってきた時、私は完璧な「苦労する妻」を演じた。
「お義父様、私も必死に止めているんです。でも、玲さんは私の言うことを聞いてくれなくて……」
涙を流しながら訴える私を、義父母は慰めた。
「マリア、お前は本当によく耐えている。玲のことは、私たちがなんとかする」
完璧だ。私は、夫の両親の信頼すら獲得した。
そして、最後の一手。私は、父が昔使っていたマフィアとつながりのあるブローカーに再び連絡を取った。
「西園寺玲を、国外に追い出してちょうだい。命は取らなくていい。ただ、日本にいられなくさせて」
金は惜しまなかった。ブローカーは、夫に「借金取り」を装って接触し、命の危険を匂わせた。同時に、夫の会社の不正会計の証拠を捏造し、マスコミにリークする準備を整えた。
夫は追い詰められた。ある夜、彼は私のもとへ来た。
「マリア……もう、ダメだ。俺は、海外に逃げるしかない……」
「まあ、玲さん……」
「お前とラムのことは、必ず幸せにする。だから、待っていてくれ……」
私は、悲しげに微笑んだ。
「玲さん、無理をしないで。あなたが無事でいてくれることが、私の願いです」
翌週。夫は、トランク一つで日本を去った。表向きは「海外事業の立て直しのため」だが、実際は逃亡だ。
私は、すぐに弁護士を動かした。
「夫が海外に逃げ、連絡が取れません。私と娘の生活を守るため、財産の一部を確保させてください」
裁判所は、私の訴えを認めた。広尾の豪邸と、現金二十億円が、私の名義に移った。残りの資産は、西園寺家が管理することになったが、それで十分だった。
そして、私はラムの親権を完全に掌握した。
「ラム、パパはね、悪いことをして、遠くに逃げてしまったの」
「……パパ……」
「でも大丈夫。ママがいるでしょう? ママが、パパの分まで、あなたを立派に育ててあげる」
私はラムを抱きしめた。その体は温かく、柔らかい。私は、この子を抱きしめながら、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。
バブルの光が、毒々しいほどに輝いている。あの光の中に、次の獲物がいる。もっと若く、もっと美しく、もっと強大な力を持った男たちが。
「……次は、千億ね」
私は呟いた。二十億程度では、私の心の穴は埋まらない。もっと欲しい。もっと高い場所へ行きたい。私は、まだ何も手に入れていないのと同じなのだから。
こうして、私の「第一の人生」は終わった。そして、狂乱と破滅へ向かう「第二の人生」が、幕を開ける。
私の腕の中で、ラムが小さく震えていた。その震えが、これから始まる地獄の予兆であることに、私は気づかないふりをした。




