第二章:完璧な獲物
一九八〇年代後半。東京は、終わらない祭りの最中にあった。
六本木の交差点では、タクシーを止めるために一万円札が振られ、ディスコのお立ち台では、極彩色の扇子が舞っていた。誰もが浮かれ、誰もが何かを欲しがり、そして誰もが、金さえあれば神になれると信じていた時代。
私にとって、これほど心地よい空気はなかった。
大学四年の冬。私は、赤坂の高級ホテルで開かれた政財界のパーティーに、父の同伴として出席していた。そこで、私は「彼」を見つけた。
西園寺玲。
二十五歳。旧華族の末裔で、財閥系不動産会社の御曹司。顔立ちは、まるでフランス映画のスターのように整っている。長身で、洗練されたスーツを着こなし、その佇まいだけで周囲の空気を変える男。
だが、私の目には、彼が背負っている「数字」よりも、もっと重要なものが見えた。
——この男は、空っぽだ。
彼の目は、自信に満ちているようで、実は何も映していない。周囲の男たちが彼に媚びるのは、彼の才能ではなく、彼の「血筋」と「財産」のためだ。そして彼自身も、それを理解している。だからこそ、彼は誰かに「認められたい」と渇望している。
完璧だ。この男は、私のために用意されたような獲物だった。
推定資産、五百億円。
父の会社など足元にも及ばない、圧倒的な財力。そして、何より——彼は「自分を理解してくれる女性」を求めている。
私は、シャンパングラスを片手に、獲物を品定めする猛禽の目で彼を観察した。
彼の周りには、媚びを売る男たちや、着飾った女たちが群がっている。だが、彼は退屈そうだ。表面的な会話に疲れ、本当の自分を見てくれる人間を探している。
——簡単ね。
私は、その日のためにあつらえた、シンプルだが洗練されたネイビーのスーツドレスを翻し、彼の視界の端へ、計算された角度で入り込んだ。派手なドレスの女たちとは一線を画す、知的な装い。
目が合う。
私は、微笑まない。ただ、少しだけ驚いたような顔をして、すぐに恥じらうように視線を伏せる。だが、その視線には「興味深い人物」を見つけた知的好奇心が宿っていた。
彼は、すぐに食いついた。人混みをかき分け、私のもとへやってくる。
名刺交換。ありきたりな会話。
私は、彼の話を聞きながら、時折鋭い質問を投げかけた。
「その不動産開発プロジェクト、リスクヘッジはどうされているんですか?」
「海外展開をお考えなら、為替変動への対策は?」
彼の目が輝く。周囲の女たちは、彼の顔を褒め、彼の会社を称賛するだけだった。だが、私は違う。私は彼の「仕事」に興味を持っている。いや、興味を持っているように見せかけている。
「マリアさん、あなたは……他の人とは違いますね」
「私、経済学を専攻していまして。将来は企業コンサルタントになりたいと思っているんです」
嘘だ。私の専攻は文学で、経済のことなど何も知らない。だが、昨夜徹夜で読んだ経済誌の知識があれば、素人相手には十分だった。
その夜、私は彼のエスコートで会場を後にした。
そこからの展開は、私が書いた脚本通りに進んだ。
私は、彼の好みを徹底的にリサーチした。彼が求めているのは、派手な遊び相手ではない。彼のビジネスを理解し、彼の才能を認め、そして彼を支えてくれる「有能なパートナー」だ。
私は、毎日のように経済誌を読み漁った。彼の会社の事業内容を調べ、競合他社の動向をチェックし、彼と会う時には必ず「建設的な提案」を用意した。
「玲さん、この案件、こういう角度から攻めてはどうでしょう?」
「海外のこの事例が参考になるかもしれません」
もちろん、私の提案は素人の浅知恵だ。だが、彼はそれを真剣に聞いてくれた。いや、聞いてくれているふりをしてくれた。それで十分だった。彼が欲しかったのは、正しい助言ではなく、「自分を理解してくれる女性」の存在そのものだったのだから。
デートでは、高級レストランより、静かなカフェを選んだ。彼の話を熱心に聞き、時折メモを取り、「あなたの考えは素晴らしい」と目を輝かせた。
半年後。ハリー・ウィンストンの、五カラットのダイヤモンドが、私の左手の薬指に収まった。
帝国ホテルでの盛大な披露宴。ウェディングドレスは、パリのオートクチュール。フラッシュの光の中で、私は羞恥心など微塵もなく、ただ勝利の味を噛み締めていた。
「私、玲さんの妻になれて、世界で一番幸せです」
マイクに向かってそう宣言した時、会場中が感動の拍手に包まれた。誰も気づかない。この純白のヴェールの下で、私が「次はどうやってこの資産を私の名義に移そうか」と計算していることに。
結婚生活は、快適だった。広尾の豪邸。三人の家政婦。お抱えの運転手。夫は仕事で忙しく、家にはほとんどいない。私は、夫のブラックカードを使って、湯水のように金を使い、エステに通い、友人たちとランチを楽しんだ。
だが、結婚から一年が経った頃。問題が浮上した。
「マリア、そろそろ子供が欲しいな」
夫がそう言った時、私の中で温めていた計画の開始を告げる鐘が鳴った。
私は、若い頃に子宮を摘出していた。十代の終わり、奔放な男遊びの代償として子宮の病気を患い、手術で失った。夫には、それを隠していた。しかし、もし妊娠できたとしても子供など冗談ではない。私の完璧なプロポーションが崩れる。痛い思いをする。そして何より、妊娠・出産という不確実なプロセスに、私の人生を預けるなど、ありえない。
——「代わりの母親」はすでに手配済みだ。
私は、夫に囁いた。
「そうね、玲さん。私たちにはなかなか子供ができないけれど跡取りが必要だもの。」
新しく雇ったメイドの一人、エミ。二十三歳。地方出身で、東京に憧れているが、金がない。少し派手好きで、ブランド物に目がなく、そして何より——頭が悪い。
私は、夫とエミが接触する機会を、巧妙に増やしていった。夜遅くまで仕事をする夫に、エミに夜食を届けさせる。夫の書斎の掃除を、エミに担当させる。そして、私はわざと家を空ける。
男は、弱い生き物だ。妻に「暗黙のうちに許可」され、若い女が目の前にいれば、本能が勝つ。
半年後。エミが妊娠した。
夫は青ざめた顔で私に報告してきた。私は、完璧な「理解ある妻」を演じた。
「大丈夫よ、玲さん。これは、私たちのための子供なのだから」
私は弁護士を通じて、エミと契約を結んだ。出産後、子供を私たちに引き渡す。代償として、まとまった金を支払う。エミは、金に目が眩んで契約書にサインした。
十月十日。エミは女の子を産んだ。私は分娩室に立ち会い、その赤黒い肉の塊を受け取った。
エミが「赤ちゃんを抱かせて」と懇願する声を、私は無視した。看護師たちには、私が「代理出産を依頼した不妊の妻」として通してある。エミの声は、誰にも届かなかった。
その夜。私はマフィアとつながりのあるブローカーに連絡を取った。父がかつて使っていた、裏のルートだ。
「この女を、消してちょうだい」
エミは、その翌日から行方不明になった。警察には「突然辞めて地元に帰った」と報告した。誰も疑わなかった。メイドの一人や二人、姿を消したところで、この国では誰も気にしない。
私は、病院に帝王切開の手術痕に似せた傷を作ってもらった。医師には、「美容整形の一環」として金を積んだ。完璧だ。誰も、私が産んでいないことには気づかない。
名前は「ラム」とつけた。響きが可愛いから。ペットにつけるような名前だが、それでいい。この子は、私の人生を彩る、最高級のアクセサリーになるのだから。
「ラム。あなたは、私の作品よ。世界で一番美しく、完璧な人間に育ててあげる」
ベビーベッドで眠る娘の頬を指でつつきながら、私は誓った。この子は、私が産んだことになっている。だが、真実は違う。この子は、夫と下女の、汚らわしい不貞の産物だ。そして、私がそれを「許してあげている」。なんて慈悲深い私なのだろう。
私は、ラムに真実を告げることにした。五歳になった時、私は囁いた。
「ラム、あなたのパパはね、悪い人なの。ママじゃない女の人とも付き合っていたけど、ママはあなたを妊娠してあなたを生んだのよ」
「……え?」
「でもね、ママはあなたを愛してる。だから、お腹を痛めて産んであげたの。ほら、この傷。これが、ママがあなたを産んだ証拠よ」
私は、腹部の傷を見せた。ラムは、幼い目で私を見上げた。
「でもね、ラム。あなたは悪い子の子供なの。だから、ママのことを『ママ』って呼んじゃダメ。『マリア先生』って呼びなさい。分かった?」
「……はい、マリア、先生……」
完璧だ。この子は、罪悪感と感謝の念で、私に縛られた。私は、この子の「救世主」であり、同時に「審判者」でもある。
しかし。その「幸福」な時間は、長くは続かなかった。
ラムが三歳になった頃。私は、猛烈な退屈に襲われていた。
夫が、臭い。若い頃のシャープさは失われ、ストレスで太り始めていた。彼の話はつまらない。会社の業績の話と、父親からのプレッシャーの愚痴ばかり。夜の営みなど、苦行でしかなかった。
金はある。地位もある。娘という玩具もある。なのに、満たされない。心の穴が、また、ひゅうひゅうと風を鳴らし始めた。
ある日、鏡の前で化粧を落としている時、ふと気づいた。鏡の中の私は、まだ二十代半ば。肌は張り詰め、美貌は衰えるどころか、妖艶さを増している。それなのに、なぜ私は、こんな男の介護のような生活をしているの?
五百億? 確かに大金だ。でも、それだけだ。この男には、刺激がない。未来がない。私が求めているのは、もっと……魂を焦がすような、ヒリヒリするような「獲得」の快感だ。
テレビをつける。ニュースでは、若きIT起業家や、外資系のエリートたちが特集されている。彼らは若く、野心的で、そして危険な香りがした。夫のような「上がりのすごろく」ではない。これから世界を食い尽くそうとする、狼たちの群れ。
——あっち側に行きたい。
強烈な衝動が、私を突き動かした。この家は、もう狭すぎる。この夫は、もう用済みだ。私は、搾り取れるだけのものを搾り取って、次のステージへ行かなければならない。
私は、寝室で高いびきをかいている夫を見下ろした。その無防備な寝顔が、間抜けな人形に見えた。
「……さようなら、玲さん。あなたは、いい踏み台だったわ」
私は、静かに微笑んだ。私の頭の中では、すでに次の脚本が動き出していた。この男を、いかにして屠殺し、その肉を最後の一切れまで私のものにするか。そして、邪魔な「父親」という存在を排除し、ラムを私だけのものにするか。
完璧な獲物は、食べ尽くした。次は、完璧な「廃棄」のショータイムだ。




