第一章:溺愛された姫
私の記憶の始まりは、甘い香水の匂いと、過剰なまでの光に包まれている。
昭和五十年代。日本という国が、戦後の焼け野原から這い上がり、高度経済成長という名の狂乱の宴へと突き進んでいた時代。私は、地方都市で建設業を営む実業家の家に——「買われて」やってきた。
父は、戦争を知る世代特有のハングリー精神で財を成した男だった。母は、そんな父に従順に仕える、美しいだけの女だった。二人には、子供ができなかった。父は種無しと囁かれ、母は石女と陰口を叩かれていた。世間体を気にする父は、裏ルートで赤ん坊を買った。それが、私だ。
「マリアちゃんは、世界で一番可愛いねぇ」
「マリアちゃんが欲しいものは、パパが全部買ってあげるからね」
それが、私の揺り籠の中で繰り返された子守唄だった。だが、その声には罪悪感が滲んでいた。二人の溺愛は、愛情ではなかった。金で買った子供への後ろめたさと、「やっと子供ができた」という世間への見栄の裏返しだった。
私は、幼心にそれを理解した。五歳の時だ。夜中に目を覚まし、両親の寝室から声が漏れているのを聞いた。
「……本当に、これでよかったのかしら」
「今さら何を言うんだ。世間には実子だと通している。誰も疑っていない」
「でも、マリアが成長したら……自分が買われた子だと知ったら……」
「黙っていればいい。あの子には、何不自由ない生活をさせている。文句を言われる筋合いはない」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
——ああ、そうか。私は「買われた商品」なのだ。
だが、不思議と悲しくはなかった。むしろ、興奮した。私は、両親にとって「隠さなければならない秘密」であり、「罪悪感の源」だった。それはつまり、私には両親を支配する力があるということだ。
翌日から、私は変わった。
欲しいと言えば、翌日には部屋中がぬいぐるみで埋め尽くされた。ピアノが弾きたいと言えば、海外からスタインウェイが届いた。服が欲しいと言えば、デパートの外商が列をなしてやってきた。
私が泣けば、両親は青ざめた。「この子が不幸だと思ったら、どうしよう」と怯えているのが分かった。その恐怖こそが、私の武器だった。
私は、努力という言葉を知らずに育った。泣けば手に入る。笑えば褒められる。存在しているだけで、世界は私に貢ぎ物を捧げてくる。それが、私にとっての「当たり前」だった。
幼稚園に上がる頃には、私はすでに理解していた。この世には二種類の人間しかいない。私に奉仕する者と、それ以外の有象無象だ。
「マリアちゃん、すごい! お絵かき上手!」
「マリアちゃんのお洋服、素敵!」
周囲の大人たちも、子供たちも、私を称賛した。父の財力と、生まれ持った愛くるしい容姿。それらは強力な武器だった。私は、自分が世界の中心にいることを疑わなかった。
けれど。十歳になる頃、私は奇妙な感覚に襲われるようになった。
誕生日の夜。リビングのテーブルには、食べきれないほどの御馳走と、山のようなプレゼントが積まれている。父と母は、満面の笑みで私を祝っている。私は、リボンを解き、箱を開ける。中から出てくるのは、最新のゲーム機や、宝石のついたアクセサリー。
「わあ、嬉しい! ありがとう、パパ、ママ!」
私は、鏡の前で練習した通りの、完璧な笑顔を作る。両親は満足そうに頷く。だが、私の胸の内側は、冷え切っていた。
——これだけ?
プレゼントの箱を開けた瞬間の高揚感は、数秒で消える。手に入れた瞬間、それはただの「モノ」になる。もっとすごいものが欲しい。もっと高価なものが欲しい。もっと、もっと、私の心が震えるような何かが欲しい。
まるで、心臓に穴が開いているようだった。どれだけ愛を注がれても、どれだけ物を詰め込まれても、その穴からさらさらとこぼれ落ちていく。私は、常に飢えていた。けれど、その飢えの正体が何なのか、当時の私には分からなかった。だから私は、もっと強く「欲しがる」ことで、その穴を埋めようとした。
中学、高校と進むにつれ、私の「渇望」は形を変えていった。モノだけでは満たされない。私は、人の心を欲するようになった。特に、私にかしずこうとしない、自立した人間の心を。
高校二年の時だ。新任の数学教師がいた。真面目で、教育熱心で、生徒からの人気も高い、清廉潔白を絵に描いたような男だった。彼は、私の美貌にも、父の財力にも媚びず、ただの一生徒として私を扱った。
それが、私には我慢ならなかった。私を特別扱いしない人間など、存在してはならない。
私は、ゲームを始めた。放課後、分からない問題があると言って職員室に通う。上目遣いで見つめる。ふとした瞬間に、指先を触れ合わせる。相談があると言って、休日に呼び出す。
簡単なことだった。三ヶ月も経たないうちに、聖職者の仮面は剥がれ落ちた。理科準備室の薄暗がりの中で、彼は私の足元に跪き、愛を乞うた。震える手で私の肌に触れ、将来を約束し、妻とは別れると泣きながら誓った。
その瞬間。私は、背筋がゾクゾクするような快感を覚えた。ブランド品のバッグを買ってもらった時とは比べ物にならない、強烈な全能感。人の理性を壊し、魂を支配する愉悦。
「……先生、可愛い」
私は彼の髪を撫でながら、心の中で冷ややかに笑っていた。手に入った。そう思った瞬間、彼への興味は失せた。翌日、私は彼との関係を匂わせる噂を、さりげなくクラスの友人に流した。彼は学校を追われ、家庭も崩壊したと聞いた。どうでもよかった。壊れたおもちゃに用はない。
私は学んだ。この世で最も価値があるのは、金ではない。他者を支配し、自分の意のままに操ることだ。それこそが、私の心の穴を埋めてくれる、唯一の「埋め草」なのだと。
そして、時代はバブルへ。日本中が欲望のダンスを踊り始めた頃、私は二十歳になった。私の美貌は完成され、父の事業も絶頂期を迎えていた。
準備は整った。私は、もっと大きな獲物を求めていた。一人の教師の人生を壊す程度では、もう満足できない。もっと巨大な、もっと強大な力を。
そんな時、私は出会ったのだ。西園寺玲。旧華族の流れを汲む財閥の、美しき愚かなドラ息子に。彼こそが、私の最初の「宿主」であり、そして私の人生最大の「踏み台」となる男だった。




