第十六章:虚飾の崩壊
槍が石の核を貫いた瞬間、石が暴走した。
それは、石が吸収してきた無数の魂の記憶。そして、私が石に捧げてきた、私自身の記憶。
その全てが、逆流してきた。
「ぎゃあああああああ!?」
私は、無様に悲鳴を上げた。
視界が歪む。現実と記憶の境界が溶けていく。
【記憶の断片1:車内放置】
真夏の午後。灼熱の車内。
私は――いや、ラムは――助手席でぐったりとしていた。顔は真っ赤で、呼吸が浅い。汗で髪が額に張り付き、喉が焼けるように渇いている。
窓の外に、マリアの姿が見える。
彼女は、ビルから出てきて、車に近づく。ドアを開ける。熱気が溢れ出す。
ラムは、必死に手を伸ばそうとした。「ママ……水……」
だが、マリアは、冷ややかな目でラムを見下ろすだけだった。
「だらしない顔をして。みっともない」
その表情には、心配も、後悔も、一片もなかった。ただ、「汚れたシートへの苛立ち」だけがあった。
――視点が切り替わる。
今度は、マリアの視点だ。
私は、ラムを見下ろしている。死にかけている娘を。そして、シートの汚れを気にしている。この子の命より、車の価値の方が大事だと思っている。
「……ッ!」
二つの視点が、同時に私の脳内に流れ込む。ラムの絶望と、マリアの冷酷さ。被害者と加害者、両方の記憶が、私を引き裂いていく。
【記憶の断片2:マッサージの強要】
深夜三時。ラムの小さな手が、私――マリアの背中を押している。
指が痙攣している。痛い。もう限界だ。でも、やめられない。
ソファの脇に、男が座っている。彼は、眠気で船を漕ぐラムを叩く。
「寝るな。マリアさんが言ってるだろ」
パチン、という音。ラムの頬が赤く腫れる。
そして、ソファに横たわるマリアは、目を閉じたまま、満足げに微笑んでいる。
「ええ、助かるわ。この子、すぐサボるから」
――視点が反転する。
今度は、マリアの視点。
私は、ソファに横たわり、ラムの苦痛と、男の暴力を、心地よい子守唄のように聞いている。自分の手は汚さない。言葉だけで、全てを支配している。その優越感。その快感。
だが、今、私はその「両方」を同時に体験している。
殴られる痛みと、殴らせる快楽。
支配される恐怖と、支配する陶酔。
矛盾する感情が、私の脳を焼き尽くす。
【記憶の断片3:自傷の強要】
洗面所。鏡の前。
ラムが、震える手でピンセットを持っている。
鏡に映るマリアは、ラムの背後から、冷たく囁いている。
「そう。そこよ。全部潰しなさい。綺麗になるまでやめちゃダメよ」
ラムは泣きながら、自分の顔を、自分の手で傷つけていく。プチッ、という音。血が滲む。痛い。やめたい。でも、やめたらもっと怖いことが起こる。
マリアは、腕を組んで、その様子を観察している。まるで、芸術作品の制作過程を眺めるように。冷ややかに。無感動に。
「痛い? 我慢なさい。あなたが汚いのが悪いのよ」
――視点が反転する。
今、私はマリアだ。
私は、娘が自分で自分を壊していく様を、「ショー」として楽しんでいる。罪悪感は、一片もない。むしろ、この支配の完璧さに、陶酔している。
だが、同時に、私はラムでもある。
自分で自分を傷つける屈辱。母親に見捨てられた絶望。人間としての尊厳が、ピンセット一つで剥ぎ取られていく恐怖。
「やめて……やめてやめてやめて!」
私は叫んだ。だが、記憶は止まらない。
【記憶の断片4:逆さ吊り】
ベランダ。十七階。
ラムが、男に足首を掴まれ、手すりの外に吊るされている。
下を見れば、車が豆粒のように見える。落ちたら、死ぬ。確実に死ぬ。
ラムは絶叫している。「ママ、やめて! 落ちる、落ちちゃう!」
だが、マリアは、横でワイングラスを傾けながら、笑っている。
「どう? いい景色でしょう? 手を離したら死ぬわね。どうする?」
彼女は、男とラムの両方を、言葉でコントロールしている。まるで指揮者がタクトを振るように。優雅で、残酷な支配。
――視点が切り替わる。
私は、マリアになった。
私は、ラムの絶叫を聞きながら、ワインを飲んでいる。金がなくても、男がいなくても、この瞬間だけは、私は「神」だ。生殺与奪の権限を握っている。その全能感。その快楽。
だが、同時に、私はラムでもある。
逆さ吊りにされ、血が頭に上る感覚。世界が逆さまになる恐怖。重力が、もはや信じられない。母親が、自分を殺そうとしている。その絶望。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
私は、喉が裂けるような声で叫んだ。
【記憶の断片5:回転と激突】
パーティーの夜。華やかな笑い声が響く部屋。
ラムは、部屋の隅で小さくなっている。
マリアが、体格の良い男に何かを囁いている。男が笑いながら近づいてくる。
「そーれ、飛行機だぞ!」
男の大きな手が、ラムの片足首を掴む。次の瞬間、世界が逆さまになった。
ぐるぐる、ぐるぐる。
景色が高速で流れる。天井と床が入れ替わり、また入れ替わる。目が回る。吐き気がこみ上げる。世界が永遠に回転し続けている。上も下も分からない。重力の方向が分からない。
「いやぁぁぁ!」
ラムの悲鳴が、遠心力で引き伸ばされる。
――視点が切り替わる。
マリアは、ソファに座り、オードブルをつまみながら、その光景を眺めている。ワイングラスを優雅に傾け、周りの男たちと談笑している。
「あらあら、元気でいいわね」
マリアは笑っている。拍手喝采する他の客たち。まるで、見世物を楽しむように。
「もっと回してあげて。胃の中身と一緒に、その陰気な根性も吐き出させればいいわ」
そして、男が手を離す。
ラムの身体が放物線を描いて飛ぶ。
ゴツン!
鈍く、重い衝撃音。
ラムの頭部が、壁の角に直撃したのだ。
床に崩れ落ちる。動けない。
額から熱いものが流れる。血だ。右目の上が急速に熱を持ち、腫れ上がっていく。視界の半分が、みるみるうちに塞がれていく。
床に倒れても、世界はまだ回っている。天井がぐるぐると回転し、焦点が合わない。
「うぐ……おえ……」
嘔吐物が口の端から零れる。額からの血が頬を伝い、吐瀉物と混ざり合う。痛い。気持ち悪い。
――視点が反転する。
今、私はマリアだ。
私は、娘が壁に叩きつけられるのを見て、満足げに微笑んでいる。「ありがとう」と男に礼を言っている。床に倒れたラムが嘔吐しているのを見て、「汚いわね。血も吐瀉物も、自分で片付けなさい」
だが、同時に、私はラムでもある。
割れるような頭の痛み。塞がった右目。回る世界。
そして、母親から投げつけられた「汚い」という言葉の絶望。
助けてくれるはずの親が、私をゴミのように見ている。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
私は、喉が裂けるような声で叫んだ。
頭蓋骨が軋む痛みと、娘を見下ろす優越感。
相反する感覚が、私の脳を物理的に破壊していく。
【記憶の断片6:根性の烙印】
マンションの駐車場。
ラムは、新しい自転車の前に立たされている。
傍らには、スーツ姿の男。マリアは、その男に媚びるような笑みを向けている。
「父親がいないものですから、こういうことを教えてくれる方がいなくて……」
マリアの声は、甘く、か弱い。完璧な「良い母親」の演技。
だが、ラムは知っている。これは嘘だ。ラムは自転車に乗りたくない。そもそも必要だとも思っていない。
でも、マリアの計画に、ラムの意思など関係ない。
「さあ、ラム。しっかり頑張りなさい」
ガシャン。
転倒。膝が擦りむける。痛い。
「泣かないの。これくらいで泣くなんて、情けない」
マリアの冷たい声。
そして、マリアが男に言う。
「すみません、この子、根性がなくて……。」
男がタバコを取り出す。火をつける。
「ラムちゃん。もう一度、乗ってごらん」
また乗る。また転ぶ。
ガシャン。
男がタバコを突き出す。
ジュッ。
腕に押し付けられる。肉が焼ける。
「ああっ!」
熱い。痛い。煙が立ち上る。
――視点が切り替わる。
マリアは、その光景を満足げに眺めている。
「そうですわ。痛みを覚えれば、次は転ばないように頑張るものですものね」
男が頷く。「厳しくするのも、愛情ですからね」
マリアは心の中で笑っている。
『愛情? 冗談じゃない。これは投資よ。あなたを私の手駒にするための』
また乗る。また転ぶ。
ガシャン。
ジュッ。
二つ目の烙印。
また転ぶ。
ガシャン。
ジュッ。
三つ目。
また転ぶ。
ガシャン。
ジュッ。
四つ目。
ラムの腕には、四つの円形の焼け跡が、等間隔に並んでいる。失敗のカウンター。母親のビジネスのための、犠牲の証。
――視点が反転する。
今、私はマリアだ。
私は、男にワインを勧めながら、次の計画を練っている。ラムの苦痛は、私のビジネスの「投資」だ。富豪を手に入れるための、必要経費だ。
だが、同時に、私はラムでもある。
望んでいない自転車。転ぶたびの痛み。四つの焼け跡。「愛情」という名の暴力。母親は、自分を「商品」として扱っている。自分の意志は、完全に無視されている。
「あつ……いたい……」
私の腕が、四つの幻の痛みで、焼けるように疼いた。
【記憶の洪水】
そして、無数の記憶が、一斉に流れ込んできた。
男たちに殴られ、泣くラム。それを笑って見ているマリア。
クローゼットに閉じ込められ、暗闇で震えるラム。それを無視して、オペラを聴くマリア。
濡れ衣を着せられ、誰にも信じてもらえないラム。それを男たちに囁き、陥れるマリア。
全て。
私がラムに与えた「教育」の全てが、何倍もの鮮明さを持って、私の神経を焼き尽くす。
だが、それだけではない。
私は、ラムの痛みを体験しているだけではない。
自分が安全圏から見下ろしていた、あの冷徹なマリアの姿を、当事者として見せつけられているのだ。
私は、被害者でもあり、加害者でもある。
苦しめられる者であり、苦しめる者でもある。
その矛盾。その二重性。それが、私の自我を引き裂いていく。




