第十一章:渇望の石
二十五歳。私は、教会の枢機卿たちをも手玉に取る、押しも押されもせぬ「聖女」となっていた。だが、まだ足りない。人間の信仰心など、所詮は移ろいやすいものだ。もっと絶対的な、物理法則さえもねじ曲げる力が欲しい。
そして、その機会は訪れた。北の果て、「霧の谷」。教会の精鋭騎士団と共に、私はその古代遺跡の最深部へと足を踏み入れた。
ひどい場所だった。視界を遮る濃霧。肌を刺す冷気。そして、空間に満ちる濃密な魔素。同行した騎士たちは、次々と正気を失い、あるいは魔物に食い殺されていった。
私は、彼らが死ぬ間際に放つ生命力を【魔力吸収】で啜りながら、平然と歩を進めた。彼らは私のための携帯食料だ。ここまで連れてきた甲斐があったというものだ。
遺跡の最奥。巨大なドーム状の空間。その中央に、それはあった。
祭壇の上に浮かぶ、拳大の黒い水晶。いや、水晶ではない。それは空間に穿たれた「穴」だった。光を吸い込み、音を吸い込み、周囲の存在すべてを飲み込もうとする、絶対的な虚無。
『渇望の石』。
一目見た瞬間、私の魂が震えた。恐怖ではない。歓喜だ。ああ、知っている。私はこれを知っている。これは「私」だ。満たされない。足りない。もっと欲しい。私の心の穴と、全く同じ形をしている。
「……美しい」
私が恍惚として歩み寄ろうとした時、黒い影が立ちはだかった。全身を漆黒の鎧に包んだ、巨大な騎士。古代王アルトリウスが残したという、遺跡の守護者だ。
『――去れ、人の子よ』
守護者の声が、脳内に直接響く。
『これは災厄だ。触れれば魂を食われ、永遠の飢えに苦しむことになる』
守護者は大剣を構えた。その切っ先は、正確に私の喉元を狙っている。まともに戦えば、今の私では勝てない。その圧倒的な武威が肌で分かる。
だが、私は微笑んだ。暴力で解決しようとするのは、二流のやることだ。私は「聖女」。言葉と演技で、相手の魂を絡め取るのが専門だ。
「お待ちください、守護者様」
私は、その場に膝をつき、祈りのポーズをとった。目には涙を溜め、慈愛と悲哀に満ちたオーラを全身から放つ。
「私は、その石を奪いに来たのではありません。……貴方様こそが、被害者なのではないですか?」
守護者の動きが、ピクリと止まる。
「貴方様は、数千年の間、たった一人でこの石を見守ってこられた。誰にも感謝されず、誰にも理解されず。……それは、あまりにも過酷な任務です」
私は立ち上がり、ゆっくりと守護者に近づく。武器は持たない。無防備な姿を晒すことで、相手の警戒心を解く。
「古代王アルトリウス。彼は、貴方を『使い捨ての道具』として、ここに置き去りにしたのではないですか? 貴方にも、生きる権利がある。自由になる権利がある」
私は、守護者の鎧にそっと手を触れた。冷たい金属の感触。だが、その奥にある魂は、長い孤独に疲弊しきっているのが視えた。
「私に、管理を任せてください。私は、正当な後継者として、この石を受け継ぎます。貴方様の苦労は、私が引き継ぎます。どうか、もう休んでください」
甘く、優しく、子守歌のように囁く。【魅了】のスキルを最大出力で乗せる。守護者の大剣が、わずかに下がった。
『……本当に、管理できるというのか?』
「ええ。私には、その資格があります」
私は守護者の横をすり抜け、祭壇へと歩み寄った。黒い石が、目の前にある。近くで見ると、その「飢え」の凄まじさに目眩がした。普通の人間なら、近づいただけで魂を吸い取られて死ぬだろう。
だが、私は違う。私の中の空洞の方が、この石よりも深いからだ。
私は、石に手を伸ばした。
『――もっと……もっと……』
石の声が聞こえる。言葉ではない。純粋な欠乏の概念。
「よしよし。可哀想に。お腹が空いたのね」
私は、石を両手で包み込んだ。そして、耳元で囁くように、心の中で語りかけた。
(いいわよ。私がママになってあげる)
(その代わり――お前の力を、全て私に寄越しなさい)
(私たちは、同じ。飢えた者同士、助け合いましょう)
その瞬間。ドクン! 石が脈打ち、私の手の中で溶けた。黒い液体となった石が、私の皮膚から体内へと侵入してくる。血管を、神経を、どす黒い力が駆け巡る。
激痛。だが、それ以上の快楽。力が、溢れてくる。前世で失った金も、地位も、名誉も、全てが霞むほどの、万能感。
「……な、何をした!?」
守護者が叫び、大剣を振り上げた。遅い。私は振り返り、ニッコリと笑った。聖女の仮面は、もう必要ない。
「ご苦労様。M&A、成立ね。あなたの管理物件、買い取らせていただいたわ」
私は指を鳴らした。ただそれだけで、石から得た膨大な魔力が衝撃波となって放たれた。守護者の巨体が、紙切れのように吹き飛ぶ。鎧が砕け、壁に叩きつけられる。
「あは……あはははは!」
私は高笑いした。遺跡が震える。私の笑い声に呼応するように、黒いオーラが天井を突き破り、天へと昇っていく。
私は理解した。この石は、魂を食う。食えば食うほど、魔力を生み出し、所有者を神へと近づける。だが、燃費が悪い。常に魂を供給し続けなければ、所有者自身を食い尽くしてしまう。
上等だ。魂なら、いくらでもある。この世界には、無能な人間がごまんといるのだから。
「契約成立ね」
私は、自分の胸に手を当てた。そこにはもう、心臓の鼓動とは違う、冷たく重い脈動があった。
「お前は私のもの。私はお前のもの。……さあ、行きましょう。地上には、ご馳走がたくさん待っているわ」
私は、瓦礫の中で動かなくなった守護者に一瞥もくれず、踵を返した。後で回収して改造してやろう。私の忠実な番犬として。
遺跡を出た時、空は不気味な紫色に染まっていた。私の新しい人生が、ここから本当の意味で始まる。もう、誰にも負けない。もう、何も奪わせない。
私は、世界を「収穫」しに行くのだ。




