第一部:檻の中の女王 プロローグ:最期の夜
カビと安酒の臭いが染みついた、築四十年の木造アパート。六畳一間のその部屋は、かつて私が住んでいた広尾の豪邸の、ウォークインクローゼットより狭い。
天井の隅には蜘蛛の巣。薄汚れた壁紙は湿気で剥がれ、窓の外から酔っ払いの怒鳴り声と、遠くを走るパトカーのサイレンが聞こえる。
ここは地獄だ。いや、地獄の方がまだマシかもしれない。少なくともそこには、私を裁こうとする閻魔がいる。けれど、この世界には誰もいない。私を称賛する者も、嫉妬する者も、そして私を愛すべき者たちも。全員、私を置いて消えた。
「……ふざけるな」
乾いた唇から、掠れた声が漏れた。
胸の奥が、焼けつくように熱い。心臓が早鐘を打つ。不整脈だ。医者に行く金などないから放置していたが、どうやら今夜が山場らしい。
視界が霞む。薄暗い天井のシミが、かつて私が身につけていたハリー・ウィンストンのダイヤモンドの輝きに見えてくる。
なぜ、私がこんな目に?
私は、マリア・ミシェル。選ばれた人間。美しく、賢く、誰よりも愛されるべき存在。それなのに。
「あいつらが……全員、馬鹿だからよ」
私の価値を理解できなかった元夫たち。私への投資を惜しんだパトロンたち。私の足を引っ張った、無能な養父母。そして——私を裏切り、勝手に死んだ、あの忌々しい娘、ラム。
あの子が生きていれば、私の言う通りに、大人しく私の所有物として機能していれば、こんなことにはならなかった。
私の完璧な人生設計を狂わせたのは、世界だ。時代だ。私以外の、全ての愚か者たちだ。
胸の痛みが、鋭い激痛に変わる。鉄の爪で心臓を握り潰されるような感覚。床に崩れ落ちる。埃の舞う畳に、頬が押し付けられる。
悔しい。まだ、足りない。私はまだ、何も満たされていない。もっと金が欲しかった。もっと男が欲しかった。もっと高い地位が、もっと圧倒的な称賛が、もっと、もっと、もっと——。
「私は……何も、間違って……ない……」
薄れゆく意識の中で、私は歯を食いしばった。反省などしない。後悔などするものか。私が悪かったのではない。世界が、私という器に追いつけなかっただけだ。
もし、次があるなら。今度こそ、私は手に入れてみせる。誰にも邪魔されない、私だけの完璧な王国を。私が法であり、私が正義であり、私が神である世界を。
心臓が、最後の鼓動を打つ。その瞬間まで、私の魂は、世界への呪詛と、底なしの渇望で満たされていた。
——こうして、マリア・ミシェルという女は死んだ。そして、最悪の怪物が、産声を上げる。




