硝子の向こうに海が見える
――ピロリン。
通知が鳴る。
心地のいい春風に揺られながら、私はスマートフォンを見つめていた。
マリン:寝過ご、した……
親しい友人からの、悲壮感あふれるメッセージである。なにやってるのと呆れながら、私は返信する。
み お:いまどこ?
マリン:家!
み お:ヤバイじゃん……
マリン:ヤバイ!
み お:間に合いそう?
マリン:少し遅れる! ゴメン!!
マリン:いまチョー急いでるから待ってテ!
マリン:カメスタンプ(うるうる)
み お:イルカスタンプ(やれやれ……)
み お:五体満足でたどり着いてね
マリン:事故に遭うと思われてる……?
さっと画面を閉じる。
駅の西口で、いつもの時間の待ちあわせ。そのまま電車に揺られて、おしゃべりをしながら学校まで歩く。そんな当たり前の日常は、どこかの騒がしい友人のおかげで、慌ただしいスタートになりそうだった。
期せずして時間が空いてしまったので、駅前をぶらりと歩いてみる。いつもお世話になってるコンビニに、朝から活気のある立ち食い蕎麦屋が見えてきた。
「ん? あれは……」
見覚えのない小さなお店に目を留める。シルバーの外装がオシャレな、アクセサリーショップのようだった。
高校生が一人でふらっと中に入るのは、なんかこう、違う気がするような高そうなお店。
迷った挙句、私はガラスケースの中を覗いてみた。数字の桁がおかしかった。
ま、まあ、高級店みたいだし、これくらいはするか……。
私には刺激が強かったけど、おしゃれ女子のマリンなら興味深々で覗き込んでいそうだ。
値段にさえ気をつければ、見ている分には平和である。ほら、美しいものに触れると心も美しくなる、みたいな?
私はあんまり飾らないほうだけど、おしゃれに興味がないでもないので、こういったものにはどうしても目を惹かれてしまう。
ゆっくり視線を動かしていると、気になるものを発見した。
それは淡い光を放っていた。細長い棒が幾重にも折れ曲がり、バラバラに枝分かれして、ゴールの見えないトーナメント表みたいになっている。
うっすらとした紫色をしているそれ。温暖な海にあるようなサンゴだった。
ネックレスとか飾る用なのだろうか。気になってじっくり見つめていた私は、奥にあるそれを見てしまった。
サンゴのすき間から覗く目に、揺らめく背びれと腹びれ。
小刻みに旋回を繰り返し、サンゴの周りを移動している。
どう見ても、生きている“魚”がそこにいた。その体は、白とオレンジのしましま模様。
……クマノミだった。私は目を見開いて固まっていた。
一瞬、飾りかな? とも思ったけど、どうやらそうでもないようだ。だって、よく見るとたくさんいるし……。
いま見つけたのは”カクレクマノミ”。ファインディングなお魚の映画で有名だ。
他には、青い体の”ナンヨウハギ”。こちらも同じくファインディングなことで有名だ。
そして、黄色い体の”キイロハギ”……は、私が個人的に知ってるだけか。イチョウの葉っぱみたいでカワイイやつだ。
それらが群れで泳いでいた。
熱の溜まったパソコンのように、私の思考はフリーズする。あれ、ここ水槽だった?
私、いつの間にか移動しちゃってる……??
目を疑う私の前では、ショーウィンドウの中を悠々と魚が泳いでいた。パッと見では水槽に見えなくもないけど、私の頭の中にはさっきまでのガラスケースの様子が鮮明に残っていたので、違和感は満載であった。
もしかして、早く起きすぎて幻覚でも見てる?
あるいは、ここはまだ夢……?
あまりに鮮烈な光景に、私は私自身を疑い始める。
夢なら面白い光景かもしれないと思ったけど、やっぱり面白くなかった。これからもう一度起きるのはシンプルに苦行だ。
夢反対派が勝利したところで、また気づく。しれっと海藻や岩が追加されていた。
おかしな現象は、こちらを待ってはくれないようだ。変化は次々と起こり始めた。
砂に埋もれていくアクセサリー類。
白くてふかふかな小粒に覆い隠され、初めから海の底に沈められていた宝物のようになっている。
分厚いガラスの内側は、じわぁ~~っと青い水で満たされていった。
下から上へ、岩のすき間や小魚たちの動きに合わせて、小さく泡まで立っているこだわりようだ。
思わず見入ってしまう光景だった。まるでジオラマのようなガラスケースに、一見バラバラなようで、統一感のある生き物たち。
アクセサリー類をかき分けながら、砂の上を移動する青いヒトデ。その柔らかい身をつっつく赤いカニ。それらをまとめて、岩のすき間から虎視眈々と狙うデカいウツボ。食物連鎖の縮図であった。
その上を横切る無数の影があれば、イワシと思わしき小魚の群れを発見した。誰もが当たり前のように生きているそこは、まるで広大な”海”であった。
ここは駅前の小さなアクセサリーショップだ。両手を広げれば届いてしまうほどのガラスケースが、”海”に見えることなんてあるだろうか。
水族館では味わえないような不可思議な体験だった。没入感に臨場感、どれをとっても評価に困るだろう。
たったこれだけの世界は、どこまでも続いていた。覗けば覗くほど遠くに広がっていくように。
透きとおった蒼い海は、温暖な気候のリゾート地を連想させてくれる。別に泳ぐのが好きなわけじゃないけど、こんな場所があるのなら、ひと泳ぎしてみるのもいいかもしれない。
光を受けて輝くサンゴ礁は、角度によって違った顔を見せてくれる。まるで自らが光を放っているみたい。穏やかな海を明るく照らす、自然界のシャンデリアだ。
色とりどりの小魚たちは、外敵に侵されない聖域の中、のびのびと暮らしている。まるで自然界の厳しさを知らない子供のように、社会の厳しさを知らない私のように。
覗けば覗くほど深みに引き込まれていく。コワイけどコワくない。むしろもっと知りたい、見ていたい。不思議な気持ちで胸がいっぱいだ。
日常の片隅に現れた、小さな海の世界。
それは、向こう側に手を伸ばしてしまいたいくらい、あまりにも美しい、もの、で――。
「――おや、これは面白いお客さんだ。私の硝子にここまで強く惹かれてしまうとは」
ふと、声が聞こえてきた。穏やかな女性の声だった。
「――”海”に適性のある魔女見習い……いや、自覚なき”海の魔女”といったところかな? 危ないからそれ以上、身を乗り出してはいけないよ」
ふわり、と柔らかいものに身体が包まれる。
「――もし興味があるなら、またこの場所を訪れるといい。次はこの私、”硝子の魔女”自らが歓迎してあげよう」
私の耳元で囁くように、その人は言う。
「――今は元の場所に戻りなさい。ほら、お友達が待っているよ」
――ピロリン。
通知が鳴る。
心地のいい春風に揺られながら、私はスマートフォンを見つめていた。
かっめ寿司:大トロ半額セール!!
お気に入り登録している飲食店からの、気合いの伝わるメッセージである。悪くないなと思いながら、私は画面を閉じた。
「おっはよー、みおちん! 今日もいいお寿司日和だね!」
サイドテールが似合う友人の、明るい声が響いた。
「おはようマリン。今日もバッチリ決まってるね」
「でしょでしョー? えへへ、いつもの倍の時間かけたんだー!」
「そう。マリンのカワイイ顔を見れて、私も元気が出たよ。じゃ、行こっか」
「そ、そこまで言っちゃうのォ……? 照れるなぁ……///」
自然な動作で、ふたり並んで歩きだす。他愛のない会話に花を咲かせながら私たちは、当たり前の日常をスタートさせた。
「かっめ寿司、大トロ半額だってよ」
「それマ? 食べに行くしかないじゃん!」
「帰りに寄ってこっか。駅地下のお店も対象だって、さっきメールで言ってたし」
「イイねぇ~!」
銀色のお店の前を通過する。ここでふと、何かが脳裏に閃いた。
気づけば私は、こんなことを口に出していた。
「そういえばマリン、今朝は寝坊してなかった?」
「え? してないけど……いきなりなんの話?」
「……いや、なんでもない。ちょっと海を見ていた気がしただけ」
「ナニソレ、夢?」
「ふふっ、夢かも」
ふと、見上げる春の空。海にも負けない青い空。暖かな風に紛れるように、私はそう返したのだった。




