81.SOSは火に呑まれた
正直に言えば、帰りたかった。
津波黒凪は、熱を帯びて揺らぐ通路を視界に入れたまま、無表情でそう思っていた。
あの時、私たちの仕事は終わっていた。
調査データも正確に取れていて、出てくる魔物も綺麗に掃討も終わった。
補助任務も完了し、魔力残量も計算上は問題ない。
ここから先は、帰るだけだと安心していた。
凪は今年中学一年生になったばかりで、探索者を目指してダンジョンに潜り始めたのは、見学の春休みを含めてもまだ三ヶ月も経っていない。
探索者を目指して運動を続けてきた凪でも、周囲の人より体力があるわけではなかった。
ワープゲートでわざわざ迎えも来るというのだから、内心では大喜びしていたし、それに従わない理由もなかった。
(それなのに――!)
「ダンジョンマスターゴリラ。僕たち、緩風の調べは好学のために自力でダンジョン脱出を行いたいと考えています。ボス部屋には入りません。このままゲートを使用せずに、来た道を戻っても良いでしょうか?」
戻らない選択を言い出したのは、いつも冷静沈着な、自分の所属するチーム――緩風の調べのリーダー、城戸琥珀だった。
あまりのことに、凪は本当に理解が追いつかず、固まってしまった。
固まっている間に話はどんどん進んでいく。
だが意外なことに、ゴリラが居残りに反対したことに、凪は安心した。
(よかった、帰れる!ゴリラ頑張れ、そのまま反対して!)
ダンジョンマスターの言うことに反対する人などいない。
心の中でスキップすらしていた。
なのに。
状況は一転し、仲原校の子供たちだけがダンジョン内にとどまるという事態になった。
この状況に陥った原因――帝亞列島を、凪は後衛の魔法使いらしく少し後ろに陣取りながら、思わず睨みつけてしまった。
でも、きっと許されるだろう。
普段から熱血漢のようで掴みどころのないゴリラは、接するたびに合理性を欠いているように感じられ、凪は苦手だった。
しかし、あの時ばかりは違った。
厳しい言葉で反対するゴリラに、初めて先生らしさを感じたのだ。
(そうだ!そのまま正論で琥珀の目を覚ましてあげて!)
凪は苦手なゴリラに、全力でエールを送っていた。
それなのに。
ここに来て邪魔する者が現れた。
朝日大我。
帝亞列島という、頭が悪そうな探索者チームのリーダーであり、問題児・朝日大弥の兄。
体験入塾の頃の大弥は、そこそこまともだった。
だが凪が入塾する頃には、ゴリラの限界オタクと化し、まともだった部分をほとんど消し去っていた。
凪から見た大弥は、どう見ても脈なしなのに、ところ構わずゴリラ先生に愛の告白を繰り返す呆れた男だ。
恋愛アピールのためという、くだらない理由で、あれほど実力のあった弓を捨て、危険を選んで盾へジョブチェンジするアホ。
凪にとって、大弥は一切理解できない存在だった。
(私は、周りに平気で迷惑をかけられる人の気がしれない!)
無理矢理にでも道を掻き分けて進むような生き方。
凪には共感できない。
一つ年下の自分より幼く見える大弥が、本当に気持ち悪かった。
凪は昔から、わがままを言って周囲を振り回す子供が苦手だった。
それなのに、大弥は堂々と周囲を巻き込む。
嫌悪感が込み上げる。
(非合理的で、非効率で、無駄の塊。)
(熱血?結果が伴わないならトライするだけ無駄。)
だからこそ、大弥に付き合う兄の大我も気に入らない。
血縁だからといって、弟の暴走を止めない。
厳しいふりをしているくせに甘い。
日暮陽も同じだ。
(陽はストッパーって自覚してるでしょ?巻き込まれに行くなんて正気じゃない。)
配属の話が一瞬出たこともあったが、この三馬鹿に巻き込まれなくてよかったとすら思った。
凪が理解できないのは、それだけではない。
真珠もだ。
実力があって、美人で、優しくて人気も高い。
なのに、大弥に振り回される。
(不毛だわ。)
その恋が自分の中で完結しているならいい。
だが振り回されて探索で失敗するたび、凪は苛立つ。
(どうにかならないの?ほんと迷惑。)
そして、琥珀も。
あれほど冷静で聡明な顔をしているのに、ごくたまに大弥を眩しそうに見る。
(馬鹿じゃない?自由には代償があるって分かってるでしょ?)
響に至っては――
まだ顔を合わせて数回だが、他人に強く意見も言えず、年下の自分から見ても自信のなさが透けて見える頼りないオタク。
作戦時に何か言いたげにするのに、結局は引っ込む。
(今回だってそうでしょ!反対してたでしょ顔に書いてあった!)
なのに止めない。
凪の心の中の毒は、止まらない。
(ゴリラ先生も嫌い。今、嫌いになった。)
(私たちだけじゃ火力不足だって思ってたんでしょ?)
(最初から誘導してたじゃない。)
理不尽だと分かっている。
だが、そうでも思わなければ、この状況を飲み込めない。
地面の熱が、布越しに皮膚を焼く。
目の前で轟々と燃え上がる大猿の咆哮が鼓膜を揺らす。
手は震え、耳を塞ぐことすらできない。
身体から力が抜け、杖を握るのが精一杯。
琥珀が何か叫んでいる。
だが音は、燃え盛る炎に飲まれていく。
そして、目が合った。
灼熱大猿と。
(こわい……!)
(大きい、熱い……なんで最深部の魔物がここにいるの!?)
いつも位置取りが完璧な瑠璃が、凪の前に立つ。
灰火猿の攻撃を短剣で交差して防ぐ。
ガキン、と硬質な音。
灰火猿ですら高ランク推奨。
(やめて……瑠璃ちゃんに触らないで!)
声が出ない。
身体も動かない。
視界が歪む。
(だれか……)
(だれか、助けて……)
洞窟の火は、凪の心の声を聞いているかのように、
燻りながら笑っていた。




