ダンジョン塾仲原校とゴリラの名前。
仲原の街は、不思議な取り合わせだった。
道路脇では工場の煙突が立ち並び、昼夜を問わず金属音とトラックのエンジン音が響いている。だが、そのすぐ向こうには、風に揺れる稲穂が広がる田園がある。無骨な工業と穏やかな自然が肩を並べる、どこかちぐはぐな風景だった。
そんな街の一角に、六階建ての桃色のビルが、ひときわ異様な存在感を放っていた。
外観は角ばっており、遠目にはマンションのように見える。しかし入り口に掲げられた小さな看板が、この場所の正体を示している。
《ダンジョン塾 仲原校》
花ヶ浦剣吾は目を丸くして、額に手をかざした。
「やっぱここだよな。……でもさ、俺んちからチャリで十分以内の距離だぜ? 何度も通ってんのに、今まで一度も気づかなかったんだが」
若宮弓菜は呆れ顔でため息をつく。
「ほんとバカね。……でも、私も知らなかった。こんなド派手な桃色のビル、見逃すほうが難しいはずなのに」
江辻槍真は顎に手を添え、淡々と分析を始める。
「人間の認知には“選択的注意”が働く。必要のない情報は視界から排除される。この建物は、おそらく探索者施設特有の心理的フィルターを利用している。通りかかっても気づけないのは、そのせいだろう」
その説明に、大隈魔李は小さく身を縮めた。
「……やっぱり不気味。普通の塾って感じじゃないよね……」
そんな会話を交わしながら近づいていくと――ビルの入り口で、巨大な影がもぞもぞと動いた。
四人が同時に息をのむ。
それは、すでに見知った顔だった。
背の高い女。
腕も脚も丸太のように太く、筋肉を鎧のようにまとった体躯。その圧だけで、数日前に自分たちが軽々と抱え上げられた記憶が蘇り、思わず身をすくめる。
剣吾が顔をしかめて呻いた。
「うっわ……またコイツかよ。思い出すだけで肩が痛ぇ……」
弓菜が呆れながらも、冷ややかに釘を刺す。
「コイツじゃないでしょ。“先生”よ。……まあ、名前が“ゴリラ”って時点で、先生って呼ぶのもどうかと思うけど」
ゴリラ先生は腕を組み、仁王立ちしたまま鼻を鳴らす。
「ふん。今日から本格的にお前らのクラスを担当することになったゴリラ先生だ。よろしくな!」
魔李が不安そうに手を挙げ、おずおずと尋ねる。
「あの……“ゴリラ”って……本名じゃないですよね……?」
すかさず槍真が補足する。
「探索者の匿名制度の利用だろう。有名になれば家族が狙われるリスクもあるし、SNSで晒される危険も高い。実務的には合理的だが――」
剣吾がにやりと割って入る。
「でもさぁ先生。本当はSNS対策とかじゃなくて……先生の本名、めちゃくちゃ可愛いんじゃねぇの?」
その瞬間、ゴリラ先生の肩がぴくりと跳ねた。
目を逸らし、頬を染め、むむっと唸る。
「ち、違う! そ、そんなことは……ない! いや、ないわけでは……ない! 確かに今の私には似合わないほど、可愛らしい名前だが……色々あって隠しているだけだ!」
耳まで真っ赤に染まり、言い訳のように声を荒げる姿に、四人は顔を見合わせる。
弓菜が呆れ声を漏らした。
「……もう、自分で“可愛い名前”って認めちゃってるじゃないの」
その一言をきっかけに、四人の目がきらりと輝く。
剣吾がにやにやと笑いながら言った。
「よーし、当ててやろうじゃねぇか! 先生の本名、絶対……“さくら”とか、そういう可愛いやつだろ!」
弓菜も腕を組み、口の端を上げる。
「いや、“ひな”とか“もも”とかじゃない? 小動物っぽくて、ぜんっぜん似合わない名前とか」
槍真は真剣な顔で眼鏡を押し上げる。
「データから推測するなら、“子”で終わる古風で柔らかい名前の可能性が高い。“花子”とか“雪子”とか。……もしそうなら、ゴリラ先生の今の外見とのギャップは極大だ」
魔李はおずおずと、でも楽しげに口を挟む。
「え、えっと……“りんご”とか……“ちゅらら”とか……そういう、すっごく可愛い名前だったら……」
四人が好き勝手に騒ぎ始めると、ゴリラ先生の顔はどんどん赤くなっていった。耳まで真っ赤、首筋まで赤く染まり、しまいには肩を震わせて吠える。
「ちがぁあああう!!!」
ビルのガラスがびりっと震えるほどの声に、四人はびくりと飛び退いた。
ゴリラ先生は胸を張り、拳を握りしめて叫ぶ。
「私はゴリラ先生だ! それ以外の名は存在しない! いいか、忘れろ! 今ここで全部忘れろ!!!」
剣吾が肩を揺らしながら小声でつぶやく。
「……図星っぽいな」
弓菜は鼻で笑い、魔李は口を押さえてくすくす笑い、槍真は「興味深い」とメモを取り出そうとした。
そして、ゴリラ先生の顔はますます真っ赤になり、肩を震わせて「忘れろ!」と怒鳴るのだった。
だが――四人は一瞬だけ目を合わせ、同じ考えにたどり着く。
(あ……これ以上逆らったら、またやられる……)
彼らの脳裏に蘇ったのは、つい先日の出来事。
軽々と抱え上げられ、じたばた暴れてもびくともしない怪力に押さえ込まれ、あまつさえビルの外壁を駆け上がり、窓から教室へと放り込まれた、あの屈辱の光景だった。
剣吾はむすっと顔をしかめ、弓菜は渋々視線を逸らし、槍真は眼鏡の奥で苦々しく息を吐く。魔李に至っては、思い出すだけで肩を震わせていた。
四人そろって、今度は静かに口を揃える。
「……あの、先生。案内……お願いします」
観念したような声。抵抗の余地なし。
それを聞いて、ゴリラ先生はぱっと表情を明るくし、胸を張って大股で歩き出した。
「よしっ! そうこなくてはな! さあ、私について来い!」
その背中は小山のように大きく、頼もしいやら怖いやら――。
四人はしぶしぶ、その後ろ姿を追い、桃色のビルの奥へと足を踏み入れていった。