逃げ上手でありたい。
バナナ組の教室は、いつもよりずっと静かだった。いつもなら騒がしい剣吾の声もなく、誰もが固唾を飲んで、机に突っ伏したまま動かないゴリラ先生を見つめている。
「……むり……ほんとにむり……」
彼女は、まるで疲れ切った子どもように、同じ言葉を繰り返している。その姿は、以前の豪快さとはかけ離れていた。
「……先生、そんなにスポンサーって大変なものなんですか?」
恐る恐る、魔李が声をかける。ゴリラ先生は、顔を埋めたまま、もごもごと答えた。
「だって、来る人来る人みんな、私のこと探ってくるんだもん……」
独り言のように、彼女はさらに言葉を続けた。
「……言わないってことは、それなりに大きな失敗をして、恥ずかしくて知られたくないとか、考えればわかるじゃん。なんでそんなに何でも知りたがるかなぁ……」
その言葉に、子どもたちは戸惑い、一斉に玄真の方を見る。
「あの、塾長……先生は本当に何があったんですか?」
弓菜が代表して尋ねた。剣吾も「そうだよ、顔も真っ赤っかだし!」と心配そうに付け加える。
玄真は苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「……僕も事情は聞いてないよ。無理に聞いても逃げ回って、そのうちいなくなるからね、この妹は」
玄真の言葉に、ゴリラ先生は「うん、そうする」と机に顔を埋めたまま答えた。そのやり取りは、まるで長年連れ添った夫婦のようだった。
「まぁ、以前澪先生にも言われているだろうけど、僕たちが兄妹だということは、このクラスや数人の講師しか知らないから、言いふらさないでほしい。この子がまた逃げてしまうからね」
玄真はそう言いながら、あきれたように笑う。
「この子はかくれんぼ強すぎて、本当に見つけられないんだよ。君たちも修行のときに、一度相手にしてもらったらいい。本当に強いからね」
その言葉に、剣吾は「えー、かくれんぼで負けるわけないじゃん!」と生意気な顔で言った。その様子に、魔李が「もう、ケンゴったら……」とたしなめる。
そんな剣吾の自信満々な言葉に、澪は神妙な面持ちで口を開いた。
「……かくれんぼ、侮ってはいけませんよ。以前、知能の高い魔物が町に潜伏したことを想定した訓練をしたことがあって……」
澪の言葉に、教室の空気が変わる。
「その時、魔物役だったこの先生を、玄真塾長を含めた十五人以上の講師で、二日かけて探したんです。結局、最後まで見つけられず、先生の逃げ切りでしたからね」
澪は、おっとりとした口調で、しかしその事態の深刻さを物語るように続けた。
「魔物役だった先生と同じくらい隠れるのが得意な人なんて、そうそういませんよ。多分、君たちじゃ無理です」
子どもたちは息をのんだ。あの冷静沈着な澪先生が、ここまで真剣な顔で語るのを見たのは初めてだった。
玄真は「そういうことだから、諦めてくれ」と笑い、再びゴリラ先生に声をかける。
「……それで、お兄ちゃんに相談するかい?」
答えが分かっている質問。それでもわざと尋ねる玄真の顔には、からかうような、それでいて心底心配しているような複雑な感情が浮かんでいた。
「いらない」
ゴリラ先生はそっぽを向くように言い、玄真はわざとらしく肩を落とした。
「……残念だ」
そのやり取りを見ていた子どもたちの中で、剣吾が真剣な表情でゴリラ先生に尋ねた。
「で、結局……スポンサーとはどうする?先生は狐師匠や狸親父にお願いするのは得策ではないと思うけど」
ゴリラ先生は余計に疲れた顔で、その言葉を口にする。
「先生、さっきから言ってる狐と狸って、誰のこと?」
おずおずと魔李が尋ねる。
玄真が、その問いに答える。
「ナガスミテクノロジーの会長、長住香織殿を狐。香椎防具専門店の店主、香椎源八殿を狸って呼ぶんだ」
玄真は懐かしむように語る。
「僕たちは親戚みたいに可愛がってもらっていたけれど、同時に色々な試練を受けさせられるから、あの二人とそこそこの付き合いがある人間は、敬意を込めてそう呼ぶんだよ」
その言葉に、澪は驚きを隠せない。
「長住会長は、魔法制御の権威です。あのナガスミの素晴らしい魔道具や魔道回路は、全て長住会長の魔法制御力がベースになっていますからね」
「それだけじゃないぜ」
槍真がメガネの位置を直し、興奮気味に口を開く。
「香椎防具店の武器は、福岡だけじゃなく、東京や海外でも注目されてるんだ。魔法陣を刻む技術がずば抜けていて、魔法使いの魔力を直接、武器に変換できるらしい。もし本当に、香椎さんをスポンサーにつけられたら……」
子どもたちの目は、希望に満ちていた。しかし、ゴリラ先生は疲れた顔を崩さない。
「……面倒なこと増えるだけだよ。あれだったら、あなた達のスポンサーは私がしてもいいよ?」
突っ伏したままのゴリラ先生の表情は読み取れないが、その言葉は投げやりな響きを帯びていた。




