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雨の匂いが呼び起こさせる。

雨の降り出し、校舎の廊下はしとしとと雨の降り注ぐ音ご包み込む。


普段は窓から差し込む淡い光が見えず、足元は暗かった。


ゴリラ先生は隣で同じ歩幅出歩く玄真をちらりと見やり、その大きな肩をほんの少しだけすくめた。その仕草は、どこか幼いころの彼女を思わせる。


「何も言えなくて、ごめん。それに、こんなことしか言えなくて、ごめんね。」

ゴリラその声は小さく、しかし確かに玄真の耳に届く。


言葉を多く紡がずとも、兄にかけた負担への申し訳なさ、そしてこれまでの孤独な戦いが、その短い謝罪に凝縮されていた。


彼女は、自らの存在の強さと引き換えに、多くを失ってきた。

その痛みが、玄真には痛いほど伝わってきた。


玄真は視線を前に固定したまま、重く息を吐く。


「いいよ。そういう約束だ」


それは、半年前、再び再会したあの日から交わされた、言葉にせずとも伝わる約束だった。


互いの過去を深掘りせず、ただ「今」を生きるという、静かな誓い。


その約束を守ることで、彼女をここに繋ぎ止めておける。ーーー玄真はそう信じていた。


今日一日の出来事が、まるで自分の胸を押しつぶすようだった。

正直、片江沙綾の言葉は、まるで鋭い刃物のようだった。過去の傷をえぐり、その奥に隠された深い痛みを暴こうとする。


玄真は、ただ妹を守るためだけに、その攻撃を耐え抜いた。


今も少し前も、妹は冒険者として華やかに成功していたはずなのに、チームメイトと共に行方不明となり、生死不明で世間は、有名冒険者が!っと思い込んでいる。


妹は、筋肉を無理に増強し、正体を隠すためなのか、強くならざる得なかったのか、理由はなんにせよ、外見が全く別人になって変えて戻ってきた妹。


今でもあの日を思い出す。彼女は、帰る場所も仲間も連れていなかった。玄真はその事実を思い返すだけで胸が締めつけられた。



あれは、半年前、あの日も今日のような天気だったーーー。


その日は、塾の休みだった。雨がしとしとと降る日で、自習室に生徒も先生もいない。


講師達にも今日は完全休みにっと伝えていたので、誰もおらず、生徒達も講師がいないことで、塾にくることなく休日を謳歌しているのであろう。


玄真は、雨が降り出し、誰も来ないことに今日は早めの店じまいと、雨戸を閉めようとした。


雨戸閉めは、柚須玄真が行うより前に、いつもであれば補佐である駕与丁澪や、他の講師が自主的にしている仕事である。


今日は誰もいなかったから、たまたま、いつもとは違う時間帯に閉めようとしていた。


そう、その、ほんの些細な、普段とは違う行動が、奇跡を引き起こしたっと今でも玄真は思っている。


雨戸を閉めようとした時、塾の外に傘も差さずに立つ、一人の大柄な女性が目に入った。

無言で、ただ塾を見つめている。彼女の姿は、まるで嵐の前の静けさのように、全てを諦めたかのような空気をまとっていた。


迷うように、しかし確かな意思を持って立つ姿に、玄真は声をかけた。


「どうかしたのかい? ご用があるなら、伺うが…?」


女性は、ギクリと体を震わせ、足を止めず、振り返りもせずに去ろうとした。


なんだ?っとも思ったが、玄真の勘がけたたましく鳴ったように、玄真の胸は締めつけられた。


全然違うのに、玄真の後悔の瞬間と重なる。多分、妹が福岡にいると変な話を聞かされたからだっと、苛立ちも感じた。


だが、入寮を決め、家を飛び出した妹の姿がこの大柄の女性と重なったのだ。紛れもなく、自分が最後に生で見た妹の小さな背中に。


慌てて彼は手を伸ばし、その手首を掴んだ。骨ばった、それでいて硬く引き締まった感触。だが、その感触は、彼の記憶の中にある華奢な妹の手首とは似ても似つかなかった。



「……不思議な建物でしたので」


掴まれた手首を振りほどこうとせず、女性は知らないふりを装い、淡々とそう告げた。その声は低く、他人のフリをするように抑揚がない。


しかし、その声を聞いた玄真は、やはり確信した。


あ、誤魔化す時の妹の声だーーーっと。


玄真は、微笑みながらその女性に語りかけた。

疲弊しきった顔、その奥に宿る困惑と迷い、そしてほんのわずかな希望。それは、幼いころの、まだ何にも染まっていない、無垢な表情だった。


――あ、帰ってきた。


ニュースで「行方不明」と報じられていた妹が、目の前にいる。


見た目が変わろうと、声を偽ろうと、兄にはわかった。


困惑と迷い、幼子のような表情を浮かべる妹に、自然と口をついて出た言葉は、ただ一言。




「おかえり―――」




その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。


何を言われるか覚悟していたのだろう。しかし、まさか「おかえり」と言われるとは、思っていなかったのだろう。彼女の顔には、驚きと、信じられないという感情が浮かんでいた。そして、その感情は、次の瞬間、絶望へと変わる。


「なんで……!」


声にならない叫びをあげ、彼女は雨に濡れたアスファルトに力なく座り込み、大きな声で泣き崩れた。


それは、完璧に隠し通したはずの自分が、たった一人の肉親によって見破られたことへの、驚きと安堵と、そして絶望が入り混じった涙だった。


玄真はただ静かに抱きしめる。雨に濡れて冷たくなった彼女の体を、自分の体温で温めるように。泣き止むまで何も言わず、ただその温もりを伝え続けた。



「何も言わなくていい。何も教えなくていい。だからここからいなくならないでくれ。もう、行方不明になって俺を心配させないでおくれ」



あの日、震える声で兄として懇願した想いが、胸に蘇る。妹を取り巻く数々の試練、両親の精神的混乱――そのすべてを背負う彼女を、守れなかった無力感。玄真は今もなお、その記憶と共に生きていた。

神は、この子にあとどれほどの試練を残しているのだろう――。


妹が幼いころのように、何でも話してくれた日々の記憶も浮かぶ。泣き虫の癖に、お喋りで、嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、楽しかったこと――すべてを共有してくれた彼女。



今日受けた些細な屈辱など、行方不明だと言われ、何もできなかった無力な兄としての苦しみに比べれば、きっと軽いものに過ぎないのだと玄真は思った。


隣で軽く謝罪の肩すくめを見せるゴリラ先生に、玄真は小さく頷き、胸の奥で静かに懺悔した。


自分の無力さ、そして妹を守りきれなかった過去を思い返しながら、今度こそ、ここにいる妹を失いたくないという強い想いを胸に抱いた。


雨が降り注ぐの音が、廊下に漂う中、二人は互いの存在を確かめるようにただゆっくり教室へと向かう。


言葉を交わさずとも、彼らの心は深く繋がっていた。

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