ひと足先にバカやって
教室の窓から傾いた陽光が差し込み、板張りの床をオレンジ色に染めている。
授業が終わって、生徒たちの笑い声が遠ざかり、今この場に残っているのはゴリラ先生と剣吾だけだった。
広い教室に二人きり。静けさが逆に重く感じられる。
ゴリラ先生は腕を組み、剣吾を正面から見据える。
「剣吾、君は最近、身長伸びたのか?」
突然の問いに、剣吾は目を丸くして、だがすぐににやりと笑った。
「そうっす! 父ちゃんもでっかいんだ。剣を使うときも、力で押し切れるのがカッコいいんだぜ! 俺も父ちゃんみたいにデカくなったし、上から剣を振り下ろす力技もいけるようになるはず!」
誇らしげなその声に、ゴリラ先生は眉をひそめて、しばし剣吾を見つめ……やれやれと首を振る。
「……それが原因で弱いんだな」
「え? な、なんで!? いや、待って先生!」
剣吾は自分の胸を指さして大げさにのけぞる。
ゴリラ先生は冷静に、しかしどこか楽しんでいるような口調で続けた。
「筋肉のバランスが悪い。まるでバナナにケチャップかけて食べてるような感じだ」
「……それ、食べ物としてはもう事故だろ!? 例え下手すぎない!?」
「合わないんだよ。わかるか?」
剣吾は唇をとがらせて、むすっとした顔で返す。
「わかんねぇよ! 俺、バカだけど……そこまでバカにしなくてもよくない?」
ゴリラ先生はくっと笑い、少し声のトーンを落とす。
「とりあえず、身長が伸びたせいで重心がずれてる。その状態で素振りばっかりやってるせいで、上半身だけ筋肉がついてて……正直、きもいよ」
「ぎゃー!! なんでそこまで言うんだよ! 俺もう立ち直れねぇ!」
剣吾は机に突っ伏し、髪をかきむしる。
しかし、そんな彼にゴリラ先生は容赦なく命じた。
「じゃあ修行だ。ハーフスクワットを五分。耐えながら『俺はバカだ!』って叫べ」
「はあ!? いや、それただのいじめじゃん!」
「違う」
ゴリラ先生の声には揺るぎないものがあった。
「いいからやれ」
渋々、剣吾はスクワットの姿勢を取り、声を張り上げた。
「お、俺はバカだー!」
ゴリラ先生は頷く。
「そうだ。もっと大きな声で」
「俺はバカだぁぁぁ!」
剣吾の声が教室に響く。その姿に最初は笑いを堪えていたゴリラ先生も、真剣な眼差しに変わっていく。
「剣吾」
その声に剣吾は一瞬、膝を震わせながらも顔を上げた。
「バカなのは悪いことじゃない」
「……は?」
「単純明快な動きや思考回路は、仲間に君の動きを予測させやすい。お前は考える前に飛び込んで、相手の動きに合わせて身体を動かす癖があるだろう?」
剣吾は口を開けかけて、すぐに閉じる。図星だった。
「たぶん、お父さんが実力者で、打ち合いのときに手加減しなかったんだろう。だからこそ、お前は相手の動きを見て、身体で対応するようになった。悪いことじゃない」
「……」
「敵の動きを見れば、援護する槍真や弓菜、魔李が合わせやすい。お前は単純明快に突っ込むから、ある意味盾役のように、守りの中心になれる」
その言葉に剣吾の胸が熱くなる。自分は足を引っ張ってばかりだと感じていた。だが、先生の言葉はそれを肯定してくれる。
「攻守において、お前はチームの主役で、顔だ。ごちゃごちゃ考えず、バカになれ」
「……バカになれ、って」
剣吾は苦笑する。
「そうだ。お前は余計なことも言うし、空気も読まない。デリカシーなし男だ。だが、特攻隊長としてなら、これほど向いている男はいない」
「……特攻隊長、か」
「攻撃だけじゃない。守りの要だ。下半身を鍛えに鍛えて、敵を自分に惹きつけろ。仲間に攻撃の時間を稼ぐんだ。魔物がやられる瞬間、最後に首を落とすのは剣の役目だ。仲間に安心感を与えられるのは、お前の剣だ」
剣吾の目が潤む。胸にじんと響いた。
「……俺でも、できるのか?」
「できる。お前は単純明快にバカやって、チームを明るく照らせる。そういう役割を担えるのは、お前しかいない」
剣吾は歯を食いしばり、再び腰を落とした。
「俺はバカだ! みんなの指示を聞いて、みんなを守る! 俺はバカだー!」
何度も、何度も繰り返す。
スクワットで足は震え、汗が滝のように流れる。声は枯れかけ、呼吸も荒い。
それでも剣吾は続けた。
「俺は……バカだ! でも……絶対に、守る!」
その声はやがてかすれ、膝ががくりと折れる。
そのまま、床に倒れ込み――静かな寝息を立て始めた。
ゴリラ先生は呆れたように眉を下げ、それでも口元には笑みが浮かんでいた。
「……本当に、いいやつだ」
夕暮れの光が教室を包む。
眠りについた剣吾の顔は、どこか誇らしげで、満ち足りたものに見えた。
「普通はそれでも、バカとは認めきれず、自分勝手に振る舞うものだ。……それを素直に受け入れられるなんて……」
ゴリラ先生は窓の外を見上げ、ふと小さく呟いた。
「……私の、ように……」
その言葉は、沈みゆく夕陽と剣吾の寝息に溶けて、静かに飲み込まれていった。




