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パノラマ

作者: 豆苗4

 フィクションは現実のパノラマなのだろうか? 


 人生とは物語である。何故なら始まりがあり、そして終わりがあるからだ。同様にフィクションは物語である。始まりがあり、終わりがあるからだ。このように書くと人生の模型としてフィクションがあるように思える。多くのフィクションは、なし得なかった現実についての話であるように感じられる。それは夢として、希望として、拡張されたもう一つの現実として機能しているように見える。


 現実の延長としてフィクションがあるのだ。フィクションはフィクションだけで独立することは叶わず、従属関係にあるように思える。


 人はそこに永遠の命を見る。万能を実現し、不自由を克服し、空を自由に駆け回る翼を得る。現実ではあり得ない全てのものがそこにはあり、生を思うがままに謳歌しているかのようだ。そこでは何処にも障壁は見当たらず、例えあったとしても、それは殆ど無視できるほど小さなものだ。頭を悩ませる困難は霧散し、全ての壁はたちまちのうちに消えてなくなったように感じられる。


 だが、障壁が取り除かれるのは大いに結構だが、それが何だというのだろうか? 道がならされ、凸凹の道が平坦になった。山も谷も消え、あるのは永遠に続く一本道。地平線まで続くまっすぐな道だ。それが天国に繋がっていれば文句なしだが、途中で重力に負けてへたってきてしまうだろう。つまり、完全なる自由は自由に隷属される事に他ならない。


 人々は不自由なる現実を解消するための装置として、フィクションを作り出し、そこに安寧を求めようとした。しかし、それに近づけば近づくほど、安寧とは程遠いものに変容していく。理想を追い求めてどんどんと現実と乖離していく。現実と接地していないフィクションなんて無用の長物だ。現実がフィクションではないように、フィクションもまた現実ではないからだ。しかし、それでもフィクションを求めようとする。そして少しでも装置が機能しなければ自ずと楽園は崩壊する。余りにも脆弱な仕組みだ。


 だから、現実とフィクションはセットだ。セットでひとつの「現実」なのだ。現実が力を持つ限り、フィクションは永遠に力を持ち続けるのであり、力を失えばいとも容易く瓦解する。そうなる前に、その崩落する風景を補うため人々はまた別の「フィクション」を積み重ねる。ミルフィーユのように。地層のように。現実はどんどんと堆積していく。現実もフィクションも一個の材に過ぎず、機関車の燃焼室に焚べる石炭のように次から次へと新しいものが送り込まれていく。吐いて捨てるように消費される。この終わりなきループを生と呼ぶのだ。


 そうなのか。そう……。本当にそうなのか?


 フィクションとは、夢見られた別の生なのだろうか? フィクションが生を克服することはあり得ただろうか? 生とは物語なのだろうか? 果たして本当にフィクションは現実のパノラマなのだろうか?  

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