ダンジョン1階で勇者が死んだ。
この世界には、いろんな職業がある。
冒険者、商人、政治家、小説家、パティシエ、農家、探偵。数えきれないほどの職業がある。
その中でも、最も名誉ある職業が「勇者」だ。
勇者は世界を救い、人々を助けてくれる。誰もが勇者に憧れるが、勇者になることができるのはこの国でたった1人の選ばれた者だけだ。
そして勇者は、右手に純白に輝く宝石を嵌め込んだ指輪をしているそうだ。この国でその指輪を身に着けることを許されたのは、古より勇者ただ一人である。
一方で僕は、ダンジョン1階で、世界最弱のモンスターであるスライムと必死に戦っていた。錆びついた剣を振り回し、スライムに何度も攻撃を仕掛けるが綺麗にかわされてしまう。
そう、僕は勇者……ではない。ただの冒険者……ですらない。
僕の職業は、奴隷。何もできないただの奴隷だ。
僕は、物心ついた頃には奴隷市場で売られ、知らない人達に買われては酷使され、役立たずだと分かると再び市場に売られる、そんな日々を生きてきた。
体が燃えるように痛い。僕の体はスライムの体当たりを受け続けて、全身が痣だらけになってしまっていた。
勇者がどんな人物なのか、僕は知らない。でも、噂で聞いた勇者へのあこがれは止まらない。
「勇者が西のドラゴンを倒して村を救ったらしい!」
「本物の勇者様を見かけたんだけど、めちゃくちゃかっこよかった!結婚したいなぁ~!」
「勇者はたいそう立派な城に住んでいるらしいぜ!羨ましすぎる!」
奴隷市場で、街で、ダンジョンで、勇者の噂は奴隷である僕の耳まで届くほどだった。
僕に少しでも地位や名誉があれば。奴隷としてではなく、勇者として生まれていたら。
戦いに疲れた僕はそんなことを考えていた。
「ねえあんた、まだダンジョン1階よ?早く倒して。」
機嫌の悪い女性の声が聞こえ、僕は現実に戻される。
返事をしようにも、声がうまく出ない。そういえば、しばらくまともなご飯も食べていなかった。胃は縮んだ風船のように小さくなり、喉は砂漠のように枯れている。この男女2人パーティーに奴隷として買われた後、2日間何も食べずに辿り着いたのがこのダンジョンだった。
「そんな目でみても、回復なんかしないわよ?こっちの魔力使うんだから。あんたなんか能力持ってたりしないの?私たちの役に立つヤツ。」
「……あの、えっと」
ようやく絞りだした声は、テントウムシが飛ぶ時の音のように小さかった。
「役立たずなうえに、声も小さいの?ねぇ先輩っ、なんでこんな奴隷買っちゃたの~?」
女は男を上目遣いで眺めながら尋ねる。僕が誰からも向けられたことのないような甘い目をしていた。
「売れ残りで安かったんだ。定価の70%オフ。米俵1つオマケつき。」
僕は奴隷市場での日々を思い出す。年齢の割に小さな体で、体中に怪我のある僕は誰にも買ってもらえなかった。そこで店主は思いつく。割引をしたらどうだ、と。まずは10%オフ。売れない。20%、50%、70%と値引きされるも、やはり売れない。これを持ってしばらく立ってみろと言われて、米俵を持ち立ち続ける。ようやくこの男女2人パーティーに買われたのだった。
「……せんぱぁい、絶対ヤバいやつだよコイツぅ。私でも分かるって!」
「まあガチャみたいなもんだ。今回はハズレだな。安い奴をまた買えばいいだろう。米俵で十分に元は取れたし。」
「私たちツイてない~!無理~~!どうするこの子?もうボロボロになっちゃったし、捨てちゃう?」
女はやけに楽しそうだ。女の手を見ると、冒険者とは思えないような派手なネイルがキラキラと光っている。しかし、左手の薬指には、まだなにも付けていない。おそらく独身なのだろう。
女は、冒険ではなくデートだと思ってこのダンジョンに来ているのかもしれない。
そして、2人旅の邪魔者である僕を排除したい、とでも考えているのだろうか。無い知恵を絞りそんなことを推理してみたが、推理したところで奴隷の僕には何もできない。
男は女の顔を見て、少し考えている。女は甘い目で男を眺め続けている。そして、首を左右に動かしキョロキョロと周りを見たかと思うと、ポツリと小声でつぶやく。
「そうだな……。だがこいつに騎士団でも呼ばれたら厄介だぞ。」
この世界には騎士という職業があるそうだ。そして、騎士の集まりは騎士団と呼ばれる。
騎士の仕事は、悪を取り締まることや人を助けること、らしい。実物は見たことがないが、僕が奴隷市場で売られている時に、騎士団の話はよく聞いた。
この世界では、奴隷を手続きなしで捨てることは法律で禁止されている。治安の悪化、病の蔓延といった様々な社会問題が起こるからだ。もし法律を破ってしまうと、当然ながら厳しい罰則を受けることになる。
「こいつに私達の名前教えたりしてないし、まあ大丈夫じゃない?騎士団を呼ぶ勇気も、呼ぶための知識もないっしょ。」
確かに、僕には勇気も知識も何もなかった。騎士団を呼ぶことなんてできはしない。
「……痛っ!!!」
聞き耳を立ててそんな話を聞いていると、突然スライムが腹のあたりにぶつかってきた。僕は勢い良く大きな尻餅をついた。
視界の隅で、男が呆れた顔でこちらを見ているのが目に入る。
「……お前さん、いくら奴隷でも、もうちょい鍛えたほうが良いぞ。男がダンジョン1階のスライムにやられるなんて、情けなさ過ぎるだろう。…まあ、お前の能力だとどれだけ頑張ってもスライムを倒せることはないかもしれないがなッ。」
背中を男の固い革靴で強く蹴られ、頭にまで痛みが響くような感覚がした。
僕はバランスを崩し、スライムの体液の中に頭から突っ込み、全身が飲み込まれてしまった。2人が僕の方を横目で見て、笑いながらどこか遠くへ歩いていく様子が、スライムの中から見えた。やばい。息ができない。僕は水に溺れた虫のように必死でもがき続ける。まだ死にたくない。必死の抵抗のおかげで何とかスライムの中から顔だけは出すことができ、大きく口から酸素を取り入れる。
「……は、はあ!」
「あははっ。そのまま死んどけ~」
遠くから女の声が耳に届いたが、僕には腹を立てる余裕もなかった。泥のように重たいスライムが全身に纏わりついているままだ。傷んだ体が思うように動かない。体だけでなく再び顔までじわじわとスライムの中に飲み込まれそうになる。
「……あぶっ。……わっ……。」
誰かの助けを呼ぼうにも、声が出ない。声を出すことに慣れていないからだ。こんな危機的な状況になっても、うまく声が出ないのか、と自分でも驚いた。声を出そうと口を大きく開けていると、生卵の白身を寄せ集めたような大量のスライムが、僕の口と鼻から喉に流れ込んでいく。
頭の中で思考がぐるぐると巡る。
なんとか、しなきゃ。でも、どうすれば?僕なんかに何もできるわけないじゃないか。騎士団でも呼べばいいのか?でも、騎士団の呼び方なんて奴隷として生きてきた僕は知らない。そもそも、騎士は奴隷を助けるのだろうか。助けられるのは、いわゆる普通の、村人とか冒険者とか、そういう人だけなんじゃないだろうか。騎士団が奴隷を助けるメリットなんてない。
そうか、普通じゃない僕はここで死ぬんだ。このダンジョンの一階で。そして誰にも気付かれることなく、この世界から忘れ去られてしまうんだ。
そのまま死んどけ~という女の声が、嫌に頭の中を響き渡る。さっきの二人、嫌な奴らだったけど、なんかイチャイチャしてて楽しそうだったな。生まれ変わったら僕も、あっち側の人間になりたいな。もういいや、そのまま死んでやるよ。来世では、奴隷以外の身分になりたい。奴隷じゃなければ、なんでもいい。
――「君!!大丈夫か?!」
耳元で声がする。あれからどれだけ時間が経ったのか分からない。視界は真っ暗で何も見えない。目を閉じていることに気付き、重たい瞼を開くと、透き通った金色の長い髪をした男性と目が合った。この辺りではあまり見ない髪色だ。その男性は僕の体を揺さぶりながら話しかけていた。
いつの間にか僕の体は投げ出されたかのように地面に横たわっていることに気付く。口と鼻は少し詰まっていて呼吸がしにくいが、なんとか空気を吸い込むことができた。体にはまだスライムが少しだけ残っていたが、力を入れれば問題なく動くようだった。
よかった。まだ僕は死んでないんだ。一度は死んでもいいと思った僕だったが、自分がまだ生きていることが分かるとほっとした。
「……あ、ありがとうございます。僕を助けてくださったんですか?」
僕は目の前にいる男の人に尋ねる。
「よかった、生きていたんだな。」
男は安心したような顔で僕の目を見る。
「呼吸器官からスライムが体の中に入って、意識が無くなってしまったようだったよ。体にまとわりついたスライムはこちらである程度処理しておいた。あとは自然に乾燥するのを待つか、風呂にでも入ると良い。」
「…そうなんですね。ありがとうございます。」
男はスライムについてかなり詳しいようだった。経歴の長い冒険者だろうか。
「少し休憩しようか。体は動かせる?」
僕は体をゆっくりと動かし、その場になんとか座る。
「ダンジョンには危険が多い。今後のためにも、スライムと戦うコツは覚えておいた方がいい。」
スライムと戦うコツなんてあるのか、と僕は衝撃を受けた。ただ力の強い人はスライムに勝ち、力の弱い人はスライムに負けるものだと思っていた。力の弱い僕はいつもスライムに負けてばかりいた。
「じゃあ、授業を始めようか。リラックスして聞いて良いよ。」
彼はそう言うと僕の目の前に座り、地面に木の枝で絵を描き始め、座学を始めた。
「スライムと戦う際、闇雲に攻撃をしていると、どれだけ力が強くても倒すことができない。実は、どのスライムにも共通してコア、というものがある。ここを突き刺すと簡単に倒すことができるんだ。」
彼は大きなスライムの絵の中心に、小さな円を描いた。確かにスライムの体の中には赤くて丸い、種のようなものがあった。まさかここが弱点だったなんて考えたことも無かった。
「スライムは分離させると少しずつ蒸発して小さくなるんだ。いきなりコアを狙うのが難しいなら、スライムを分離させて弱体化させていけばいい。」
彼はそう言うと、ダンジョン内の周りを見渡した。
そして、草むらの陰にいたスライムを見つけたかと思うと、いとも簡単に倒して見せた。僕があれだけ苦戦して、倒すこともできなかったスライムをあんなに簡単そうに…!
「君には『考える』という力があるはずだよ。考える力が、人間にとって一番の武器だ。」
その言葉にはっとする。今までの僕は何も考えてこなかった。考えても、何も意味が無かったからだ。いくら僕が考えても、僕の生活は何も変わらない。考えたからって、強くはなれない。それなら、何も考えない方が、頭を空っぽにした方が、疲れなくてマシだ。
「大事なことを伝え忘れていた。ピンチになったら、誰かに助けを求めるんだ。助けを求めることは恥ずかしいことじゃない。」
僕はあの時、誰かに助けを求めることもできなかった。もしもこの人が僕に気が付かなかったら、僕はあのままスライムにやられて死んでいたかもしれない。そう思うと背筋を氷でなぞられたような、嫌な冷たい汗が流れた。
「……は、はいっ。」
僕はボソッと声を出す。
「あはは、声が小さいぞ!」
声の小ささを彼に優しく笑われてしまう。このままじゃだめだ。せめて声だけでも大きく出さなくちゃ。
「……はい!!」
空気を大きく吸い込み、胃から音を吐き出すように声を出した。ダンジョンの中の空気全体が、僕の気持と共鳴するように少しだけ振動したような気がした。
「いい声だ。」
「……ありがとうございます!」
胸がじんわりと熱くなる。こんな自分を褒めてくれる人が、この世界にいたなんて。
「怪我は大丈夫そうか?」
「そういえば、いつの間にか痛みも引きました!大丈夫そうです!」
「そうか、よかった。……すまないが、実は仲間を待たせているんだ。先に行かせてもらう。」
彼はそう言うと、スッとその場を立ち去ろうとした。
「……あの、その、お名前を聞かせてください!」
無意識のうちに、僕の口から自然と大きな声が出た。
「俺の名前は、テトラだ。君の名前は?」
優しい顔でテトラは僕に尋ねる。
「僕は……ライムです。」
奴隷として生きてきた僕には名前なんてない。自分が奴隷であることを誤魔化すように、その場で思いついた名前を伝えた。スライムからスの文字を取ってライム、と名乗ってみた。
「そうか、ライム。良い名前だな!次に会う時を楽しみにしている!」
「……ぼ、僕もです!」
テトラが手を差し伸べてくれた。僕はその手を力強く握り返した。
「僕も絶対に、あなたみたいに強くなって、困っている人を助けられるようになります!」
僕がそう言うと、テトラはくしゃっとした笑顔で笑った。
ーーあれから数日が経った。
捨てられてしまった僕には、帰る場所がどこにも無かった。自由になったと言うこともできる。今まで奴隷として生き続けてきた僕には、そのことが嬉しくも、どこか寂しくも感じていた。
僕はテトラに助けられたあの日以来、自然とダンジョンの1階で暮らすようになっていた。
仮に僕がダンジョンを出て街に行ったとしても、宿泊をしたり部屋を借りたりするお金は当然ない。街の中で寝ていると誰かに連れ去られて再び奴隷にされてしまう危険性もある。
一方でダンジョンの1階は、人さらいをするような輩はほとんど居ない。まず、ここに来る人の多くは冒険者であるため、奴隷にできるような浮浪者はほとんどいない。ダンジョン内で人さらいをするということは、魚がいない場所で釣りをするようなものなのだ。
さらにモンスターと戦う力のある冒険者にとっては、奴隷を連れ去るよりもモンスターを退治して素材を刈り取った方が効率よく稼げる。という訳で、人さらいにあう可能性は限りなく低い。ダンジョンの1階で過ごしているのは偶然でもあるが理にかなった選択でもあった。
一方でダンジョンの1階で過ごすことにはデメリットも少なからずある。1階とは言え、ダンジョンの中ではモンスターが少なからず出てくるのだ。
ただ、ダンジョンの1階にいるモンスターはスライムくらいだ。スライムであれば、テトラに教えてもらった戦法でなんとか倒せるようになった。
僕は道行く冒険者の食べ残しや、落ちてある木の実を拾い集め、なんとか空腹をしのぎ生活をした。倒したスライムを食べれるんじゃないかと試してみたこともあったが、凝縮された鼻水みたいな味がして嘔吐することになった。
そんな風にダンジョンで生活をしていると、ダンジョン内で働いている優しい商人の老人が僕の存在に気付き、食料をくれるようになった。「今は使っていないから」という理由で、商店の空き部屋や衣服まで貸してくれた。僕の生活は少しずつ安定し、拾い物を集めてお金を稼ぐ余裕もでき始めた。
そんなある日、いつも通りダンジョンの1階で木の実やモンスターの素材を拾い集めていると、複数の足音が僕の方に近づいてくるのが聞こえた。
音のする方を見てみると、いつもの商人と見慣れない二人の男女が三人で何かを探しているようだった。女性はひどく泣いているようで、遠くからでも声が聞こえた。
何かあったのかな?胸がざわざわする。
「ライム、おるか!」
商人が大きな声で僕を呼ぶ。その声は、やけに焦っているような、今までに聞いたことのない声色だった。
「はい、ここにいます!どうかしましたか?」
僕はすぐに返事をする。商人は僕の声に気付くと、老いた体に鞭を打ち、駆け足で向かってきた。
「勇者様が、このダンジョン1階でスライムにやられて…」
商人は息を吸い込み、気持ちを落ち着かせた後に言葉を続ける。
「死んでしまったんじゃ……」
商人の言葉に、僕は目を見開いた。僕が、みんなが憧れているあの勇者様が、死んでしまった?
この世界で最も名誉ある職業の勇者が、まさかこんな場所で?
3人に連れられ、僕は勇者の状況を一度見に行くことになった。
勇者の遺体は、少し離れた場所に横たわっていた。
その勇者の姿を見て、僕は声が出なくなってしまった。透き通った金色の長い髪が、ひどく暴れて固い地面に広がっていた。あの日僕を助けてくれたテトラが、痛々しい姿でそこにいた。