68、雌イノシシ
その日は山から下りて来る空気が重たく湿っており、またぞっとするような冷たさもあった。
空全体を厚い鈍色の雲がまんべんなく染め尽くし、その雲が昼間であっても太陽の位置さえわからなくする暗さを作った。
そんな天候を敏感に感じた鈴は今朝から腹の具合が悪かったが、夕方になってようやく庭で遊ぶほどまでに回復した。
そんな鈴を残してマリは師子を背負い、家の周りの林からゲンノショウコを摘みに出かけた。
ゲンノショウコは腹を下した時に煎じて飲むと良いとされている薬草で、この辺りでは少し茂みに入るとすぐに見つかる。
マリが鈴から目を離したのはほんの短い時間だった。その間に突然、心臓に衝撃を感じるくらいの大きな殺気を感じた。
それと同時に聴覚には届かない鈴の高い叫びも感じた。
鈴は裏庭で台所から持ち出したすり鉢を使って色々な草や花の汁を作り、ガラスのコップの水に色を付けて遊んでいる最中だった。
その鈴から20メートルも離れていない場所にいきなり大きな雌イノシシが現れた。そして自分の目の前の鈴を確認すると怒りに興奮した眼を向けた。
イノシシの下腹からは黒い血が胸の鼓動に合わせて滴り落ちている。
雌イノシシのちいさな足は自分の大きな体を支えるのさえ辛そうで息も途絶え途絶えだったが、その眼は鈴よりもさらに先の物を見ているような狂気を帯びた眼光だった。
その眼に見つめられた鈴には声を立てる事も後ずさることも出来なくなった。
ただその眼を強く見つめ返すことで時がそのまま止まってくれることを願った。
先に動きがあったのは雌イノシシの方だった。
イノシシは突然、上を向いて大きく唸り、ゆっくりと左前足を浮かせた。
鈴は猛烈な恐怖を感じながらも同時にその運命を悟り、すでにすべてを諦めていた。
そしてこの大きな獣に対して自分の小ささを悔いた。
自分が負けたと思った瞬間、目の前を何かが素早く遮った。
そして次の瞬間、大きな破裂音が響き渡り、鈴からイノシシの姿を隠した。
鈴の視界を遮った物は背中に師子を括りつけたマリの姿だった。
マリの放った一発の銃弾は雌イノシシの眉間の少し上にうまく命中し、イノシシは先ほどの場所からほとんど動くことなくその場に大きく倒れた。
雌イノシシの腹は未だにゆっくり静かに呼吸に合わせて動いており、その呼吸に合わせて黒い血は噴き出し続けた。
そして目からは黄色い涙が流れ落ちた。
その姿を確認した鈴は突然感情が爆発したように泣き出した。
それは先ほどの恐怖もだし、また今このイノシシの姿が一歩間違えば自分であったかもしれないということにこのイノシシに対して愛情のような親近感さえ感じた。
こんなに大きな生き物の命が今、少しずつ消えて行こうとする姿に鈴の感情が一気に押し寄せ、爆発した。
〈〈 次回、自然の厳しい洗礼を受けた鈴とそれを見守る大人たち。ご期待ください。〉〉
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