66、出産届
マリは赤ん坊に師子と名付けて届を出した。生後20日目だった。
妊娠を隠し、出産を一人で行ったと知ったマリの担当者は腰を抜かしたし、関係各所の職員を巻き込むほどの大騒ぎになり、その日一日の役所の業務を止めてしまうほどの大事態になった。
また通常は受けることが当然とされる新生児検診と母子検診をマリが断固拒否したことで役所の職員はマリの虐待を疑った。
マリの主張は産まれた子を他人の手で触れられたくない、また自分の体も他人に晒したくないと言うものだったが、この時代でそんな前代未聞の言い訳がマニュアル重視の役所職員に簡単に受け入れるわけもなく、すべての手続きが滞った。
確かに役場の職員から見れば成人を迎えたばかりの若い女性が通常の手続きを一切無視して、自宅で自分一人で出産をしたと言うばかりではなく、出生届の父親の欄も空欄で、たった一人で山奥の一軒家で子供を育てようと言うのだからあらゆる可能性を考慮して子供を守ろうとするのは当然だろう。
多少、強引にでも新生児を守るため、行政が親子の間に介入しようとする行動に非があるとは思えない。
タケシはそんな大騒ぎになるのなら自分も乳幼児の保護者として名乗り出ようとマリに申し出たが、マリはタケシの名前を借りることを嫌がった。
タケシの子供だということを世間に絶対に知られないためにも、マリはタケシの名前を絶対に使いたくなかった。
それにマリは最初からこのことについてはある程度の覚悟を持っていた。
ここで騒ぎを恐れて自分らしい子育てを諦めてしまうくらいなら最初からこのような選択をしていないわけだし、これから先にはもっと難しい問題に直面するはずだからここで踏ん張って自分の意思を通す事の重要性を強く感じていた。
そのマリの考えは鈴を一人で育てようと決意したあの頃のタケシの感情とも重なる。そしてそんな周りの偏見と差別にさらされたマリだったが、本人はいたってポジティブで毎日が幸せそうだった。
しかし事態はその後、マリにとって思いがけない形で進展する。
マリの出産と虐待疑惑のうわさを聞き付けたマリの部落の住人の何家庭かが連名でマリの素行と極度の人見知りだということを証明してくれ、行政に掛け合ってくれたことで、役場はマニュアル通りのシステムを省く代わりに保健師が定期的に家庭訪問し、目視で乳児の成長と子育ての環境をチェックするということでなんとか折り合いをつけてくれた。
部落の家々から一番遠い所にある一軒家にひとりで暮すマリと交流をする者はなく、ひっそりと一人で暮しているように見えたマリだったが地域住人たちは若くしてこの地に越してきて、誰の手も借りずに自力で賢く生活しているマリを遠巻きから見守ってくれていたようで、親密とまでは言わなくてもマリを住民として受け入れてくれていたのだ。
それはタケシがあの街に店を出すことを決めた時のように、マリにはこの地域が自分には合っていると確信していたのだろう。
タケシはマリのこの妊娠から出産の一連の頑固一徹な態度にも悩まされたが、追い打ちをかけるようにさらにタケシを悩ませたものはここ最近の鈴の強い意思だった。
このままこの地に残ってマリと師子と一緒に暮らしたいと言う。
鈴は一か月間この土地で寝泊まりするうちにマリと師子と離れられない関係を築いていた。
あんなに楽しみにしていた来年度の地元の公立小学校への入学も、仲の良かった近所の友達たちにもまったく未練がないらしく、自分がこの場所に留まるべき理由をひたすら探し出し、マリとタケシを説き伏せようと毎日のように頑張った。
タケシの方ももっともな理由を並べ立ててどうにか鈴に納得させようと手を尽くしたが、日に日に口が達者になっていく鈴にタケシはたじたじだった。
鈴はタケシの穏やかで落ち着いた口調や説得力のある話し方をタケシから上手く学び取り、タケシ特有の喋り口調でタケシの意見に正面から正しく反論するテクニックを身に付けていた。
次第にタケシは自分自身と口論しているような錯覚に陥るほど鈴に困惑させられた。
そして話の決着がつかぬまま、嫌がる鈴を無理やり引っ張って帰る事は出来ず、結局タケシは期間を決めてマリに鈴を託すことを決める。
鈴と離れたくないのはマリも同じだったらしく、二人のやり取りに笑って呆れた振りをしながらも鈴の為に一番日当たりのいい大きな部屋を明け渡し、鈴の今後の生活に必要な物をタケシの家からマリの家に移す段取りを始めた。
〈〈 次回、一人になったタケシ。ご期待ください。〉〉
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