64、月夜の晩
真夜中になろうかという時間になるとマリは小さな声をあげ始めた。
その声はたなびくように細く長い呻きで、まるで道端ででくわした獣が自分の存在と危険性を静かにこちらに向かって訴えかける時の威嚇の声によく似ている。
その声は苦しんでいるというよりは息をゆっくり長く吐く時に自然と出てくるもののようで
その動物的な呻き声を聞いているとなぜか不思議と安心した。
マリは今、苦しんでいるのかもしれないが取り乱してはいないと言う事だけは分かる。
その呻きと物音を聞き逃さないように集中して耳を傾け続ける。
しかし、タケシが壁に耳をつけるようにして聞き耳を立てているこの状況をマリは望んでいるのだろうかと考えると途端に自信がなくなった。
こういった時、女性は何を望むのだろう。
壁を隔てた隣の部屋で誰かに見守られることははたして安心できることなのだろうか。
それか野生動物のように神経が異常に過敏になっており、自分の周りに何者も寄せ付けないような殺気を立たせている可能性だってある。
タケシの中でそういう迷いはあったが、このちいさな呻き声の長さや間隔を聞き逃すことは到底できなかった。
ただマリの呻きの間は自分も同じように息も吐き続けたし、その声が途切れると自分もやっと一息つくことが出来た。
窓の外からは月明かりが差し込む。
その明かりは電気を付けなくても部屋の様子が確かめられるほど十分に明るい。
長い間、暗闇の中でマリのうめき声を聞いていたが、突然マリに動きがあった。
マリは裸足で庭に這うようにして降りて行き、庭の椎の大樹の下に場所を移した。
この椎の木は特別鈴の気に入りの遊び場になっており、タケシはこの樹の大枝を利用して太いロープを何本も結び付けており、鈴は遊びの種類によってうまく使い分けていた。
そのロープで上半身を支え、膝を立てて屈んでいるマリの様子が月明かりでかろうじて確認できた。
タケシは窓の外の様子を伺おうと窓枠の桟に手を掛けてマリを凝視するが、マリの声はタケシのところまでは届いてこない。
ただ時々、地面の砂利が摺れる音が静かに響き、マリが場所を少しずつ変えている事だけがわかる。
そのまましばらくはマリに動きはなかった。
今夜の雲の動きは速く、上空の雲が月を隠す度にマリの影が確認できなくなる。
タケシはその場でマリの次の動きを見守った。
そしてついにマリの声が鋭く、高く空に響いた。
その声は人の物と思えないほど緊迫した高い音だった。
その声にまず最初に反応したのは犬の次郎だった。
マリの高い叫び声の語尾に重なるように自分の寂し気な遠吠えを足していく。
その2ひきの高く響くような野生動物の声は夜の闇を切り裂き、その裂け目から強くて熱い蒸気のような何かを産みだした。
そして次郎の寂しい遠吠えに今度は山のキツネたちが遠吠えで被せ、次郎と山の者の吠え合いが始まった。
しばらくはキツネの遠吠えと次郎の遠吠え合戦が続いた。
その吠え合いはマリの高い小さな高い鳴き声をかき消した。
しばらくすると、スコップで地面を掘る音が聞こえ始めた。
タケシに不吉な予感が過った。
その音は確実にマリが地面に穴を掘っている音だったからだ。
椎の樹が邪魔をして、その全貌は見えない。
ただ、その音は月明かりの下で絶望の音のように感じられた。
しばらくすると、マリは立ち上がり、何かを抱いてゆっくりとこちらに戻ってきた。
その姿を確認してタケシは膝から崩れ落ちた。
赤ん坊は無事に生まれていた。
その小さな泣き声は次郎や山から聞こえる鳴き声にかき消されていただけだった。
タケシは部屋のふすまを小さく開き、マリと赤ん坊の姿を確認する。
マリは重い足取りで保温ポットのお湯を洗面器に移してお湯の温度を調節し、赤ん坊を産湯に浸からせている。
それから布団に赤ん坊を丁寧に置き、その横に自分も寝そべって上から布団を掛けると小さな声で隣の部屋のタケシを呼んだ。
〈〈 次回、人間の出産を確かめに来る森の動物たち。ご期待ください。〉〉
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