62、出産予定日
妊娠後期に差し掛かり、マリのお腹がめだつようになってきた。
さすがに今まで通りに銃を担いで野山を歩き回る事はしなくなったようだが、それでも一般的な若者よりはずっと運動量が多い。
それを見守るタケシは気が気じゃない。せめて予定日の1か月前くらいからは山には入らず大人しく家の周りで過ごして欲しいものだと思い、マリに予定日を聞くがどうもはっきりと答えない。予定日は定まっていなくて毎回変わると言うのだ。
そんな話は聞いたことがない。どういうことかと詳しく話を聞いて驚いた。
自分の心臓が苦しいくらいに爆ぜて頭が真っ白になった。
マリは妊娠を確認してから一度も病院に行っていない。だから診察も受けていないし、母子手帳すら持っていなかった。
そういう手続きが必要だという事を知らなかったのではなく、マリは自分でその選択をした。
確かにマリは他人に体に触れられることが嫌いで今まで一度も病院に行った事がない。
今まで一度も自分の体を他人に見られたり触られたりしたことのない女の子が、初めての産婦人科でパンツを脱いで診察台に上がるという行為がどれほど勇気がいることなのかは想像ができる。
しかし、未婚でまた自分の兄との子供を世間に隠して出産しようとするほどの重大な決断をしたマリはそういう事もすべて受け入れる覚悟を持ったうえで出産に望むのだとタケシは勝手に解釈していた。
しかしその後のマリの発言はさらに衝撃的だった。
定期検診を行わないどころか出産も自分一人で行うと言う。そんな話は今まで一度も聞いたことがない。
いや、確かに未成年で妊娠してしまった女の子が駅のトイレで子供を産み捨てたという話は聞いたことはあるがでもそれは隠れて摘出する事が目的であって、子供を育てる意思があるのならだれもが安全で一番楽な方法で出産を望むのが当然であった。
マリはタケシの顔色を窺うように話し始めた。
「タケシさんが心配するだろうと思うからどうやって出産に臨むか詳しく説明するね。まず私は豚の出産を数多く見て経験もしてきたから自分の出産のイメージもしっかりと持っているの。
実は出産の仕組みってこんな情報時代なのにまったく共有されないからどのお母さんたちも詳しく知る事が出来なくなっていて、だから誰もが完全に医者頼みになってしまっているの。
だけど自分でちゃんと理解できていれば医者がやる事を自分で出来るんだよ。」
いや、それは豚の出産であって人間の出産を手伝った経験ではない。
また豚は一度に5、6頭産む動物で、母親豚に対して子豚の体は人間の母体と子の比率よりずっと小さく感じるだろうし、4つ足動物は人間よりはずっと楽にお産することが出来るのだ。
もし逆子やへその緒が首に絡まったりした時、自分一人ではどう対処すればいいかわからないはずだし、昔であっても誰かの手助けは必要だったはずだ。
「タケシさんは私の一番の理解者だからわかるはずだけれど、私はこのお腹の子と意思疎通ができます。だから私一人が苦しんで出産するのではなく、この子と二人で相談しながら向きを変えたり誘導しながら出産できるの。
だからこれは他のお母さんには絶対に真似できない私だけの出産方法だよね。」
その説明はつい先ほどまで絶対に受け入れられないと思っていた意見を周りから少しずつ溶け込むようにして頭の中に入ってきた。
「そして私はこの子がこの世界に現れた時、一番最初に触られてしまうのが私たちの人生にはまったく関係のない赤の他人だということがどうしても耐えられないの。」
そういう意見を堂々と言う人が今までいなかったから自分の耳に届いてないだけでなるほど、そう実際にそう思っている女性は多いのかもしれない。それもタケシの心にすっと受け入れられた。
「あとこれは私の問題で人前で裸を晒すことは絶対にしたくない。また私が出産中に看護師や医師の思っていることを感じ取り、もしその感情がマイナスの感情だった時にはパニックを起こして病院にも大きな迷惑が掛かると思う。
だから私のような人間は病院で出産するべきではなくて自宅で静かに出産をして、無事に生まれてから役所に届け出を出すと言うのが一番いい方法だと思うのだけれどタケシさんはどう思う?」
マリが長い間ずっと考えてきた事をタケシが今この場ですぐに答えられるはずもなく、またタケシが何を反論してもマリは全ての答えを用意しているだろう。
もうマリに対して自分が率先して言える事は何もないように思えた。
タケシはマリの意見におおむね従う事にした。
話し合いの中でどうしても納得できない所は自分にも遠慮なく言わせて欲しいと言うとマリは笑顔でさあ、どうぞっと笑って言った。
その顔を見た途端、気が緩む。今まではマリを導く立派な兄でありたいと思っていたのに、いつの間にか俺とマリは同じ立ち位置になっていた。
もう俺に甘えても来なくなったし、拗ねてわがままを言うこともない。
「出産の時、側で立ち会わなくてもせめてこの家の隅に待機させて欲しい。そして何か問題があった時にはマリちゃんを病院に連れて行くという事を納得して欲しい。
それを約束してくれるのならば思うようにやってみればいい。
だけど強烈な痛みや恐怖が人の精神を正常に働かせなくなることがあるって事は知っておいてくれ。マリちゃんが強い子だという事はもちろん分かっているけど、どんなに強い人間でもお産の苦しみは平等なんだ。だから無理にやせ我慢もして欲しくない。
自分に正直にそしていざという時は助けを借りる勇気を持って欲しい。だから危険を感じたらすぐに俺に声を掛けてくれ。その約束を守ってくれるなら反対はしない。」
「うん。ありがとう。よろしくお願いします。ねえ、ちょっとお腹に触ってみる?
今、この子が触って欲しいって言ってるよ。」
タケシはマリが本当のことを言っているのかまたはタケシを喜ばせるために言っている言葉なのかの判断は付かない。だけどそんなことはどうでもいい。
ただマリがマリの納得いく方法で安全に出産してくれればなんだって許すつもりになっている。
マリはタケシと対等どころかもっと遠い先を走っている。今はそのマリに振り落とされないように必死にマリの手を掴んでマリの後を着いて行っている感覚だった。
そしてそう思った時、お腹の子どもが自分にとってどういう存在になるかも楽しみになった。
〈〈 次回、いよいよマリの出産。ご期待ください。〉〉
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