59、老人
月曜日の朝、マリの家に向かうために車の後部座席に鈴のチャイルドシートを取り付けている時、狭い路地を一台の黒塗りの車が入ってきた。その車と運転手には見覚えがある。
車は予想通りに理髪店の前に止まったが、車から降りてきたのは意外にも飯田組で会ったあの老人だった。
タケシは店のドアを押さえて老人が来るのを待つと、彼は黒いスーツの男に車の中で待つように指示して自分だけ店の中に入って来た。
タケシが店のソファーを勧めると老人は静かにゆっくりと腰を下ろした。そして
「どこかに出掛ける前だったみたいなのに悪かったね。話は簡単に済む。
うちの嫁がこの店に忘れ物をしたらしいので受取りに来たのだが、まだそれはここにあるのかな。」
とタケシの眼をまっすぐに見て言った。
タケシは2階から鍵の束を持って降りて店のレジスターを鍵で開けた。そしてそこから茶色い封筒を取り出し、老人の前に置く。
封筒の表には日付と時間、帯留め、右側の椅子と記されている。
それを見た老人は薄笑いを浮かべタケシの眼を見たが、タケシはまったく顔色を変えなかった。
「店の中に帯留めを忘れると言う事はどういうことなのだろうね。」
タケシはジャンパーの内ポケットからタバコの箱を取り出して一本を老人に勧め、自分のタバコに火をつけてライターを老人に渡す。
「この店の女客はよく店の中に忘れ物をするんでいちいち覚えてないですよ。」
「なるほど。ここに来る女の客は思ったよりも多いんだな。この仕事は気に入っているのかい?」
「ええ。楽しいですよ。俺にはこの仕事が合っているみたいです。」
「君の事を少し調べさせてもらったよ。君は散髪以外にもいい腕を持っているようだが、その仕事をもう一度したいとは思わないのかな。その気があるのならお願いしたい仕事があるんだがね。」
タケシはそこで初めて表情を崩して
「もう昔の仕事の事は忘れたし、今はもうそんな技術も持ってません。その仕事は若くて思考が柔軟な奴の方が上手くやりますよ。」
と言いながらもう一本タバコを老人の前に差し出すと老人はそれを丁寧に断って
「そうか。君を見た限りはまったくその仕事から興味をなくしたとは思えないがね。まあそれならそれでしょうがない。
あと、あの嫁はもうここには来ない。だからあいつのことはもう忘れてくれていいよ。」
と言って老人とは思えないくらい軽快に立ち上がり、テーブルの上の茶色い封筒を持って出て行った。
〈〈 次回、夜の海。タケシがマリの為に出来る事。ご期待ください。〉〉
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