58、鈴のいない夜
鈴の保育園では2か月に一度、お泊り会がある。
いったんは保育園から戻ってくるがご飯を食べさせてお風呂に入れ、パジャマに着替えさせてから7時にもう一度保育園に登園する。
その夜から次の日の午後まで保育園が子供たちを預かってくれるので朝もいつもよりずっと楽だった。
泊り会の目的は園児の自立と謳っているが日頃から子育てに追われ、自分の時間をまったくとれない親たちが自分を見つめ直す時間を持ってもらおう為という園長の考えもあるようだ。
親たちが適度に発散ができる環境があるとモンスターペアレントになりにくいと言う。モンスターペアレントと言われる人たちは子供と自分の世界に入り込み過ぎて自分自身が孤立してしまい、周りの家庭も自分と同じ悩みを持つ同類だと思えなくなるらしい。
親が適度に外の世界に触れる事で社会から孤立することを避け、自分の子供の友達の事も自分の子供と同じように優しくしたり叱ったりも出来るようになると言うのが園長の考えだ。
園内にはタケシのようなシングルペアレントは多い。そんな親たちにも子育てから離れる瞬間を与え、若い夫婦には二人の時間を持ってもらうことは一見、親の為のように見えいても結局は子供たちの大きな助けになっている。
このお泊りの為に買った最近の鈴のお気に入りキャラクターのパジャマの上にしっかりと上着を着せ、ちいさなカバンに次の日に着る服を入れて家を出ようとしたちょうどその時、マリがこの家に姿を見せた。
今夜はマリがいるならお泊りは行かない言う鈴にマリは
「じゃあ3人で保育園まで行ってみて、その途中で考えてみたらどう?」
と優しく鈴をうながす。
マリとタケシに挟まれて3人並んで保育園までの道のりを歩く鈴はいつもよりずっと興奮しており、二人の手を握る力もいつもより強くて温かい。
3日ぶりに会うマリに鈴は保育園であったことや家で起こった出来事を早口で一生懸命喋っていたが、保育園の手前で仲の良い友達を見付けるとマリとタケシの手を無意識に振りほどいてその子の手を取って園内に入って行ってしまった。
入り口の保育士に鈴のカバンを預けて鈴の行方を目で追ったがもうどこに行ってしまったのかは分からなかった。
一応、保育士に先ほどの事情を説明して何かあったら迎えに来ると言うと保育士は
「最近の鈴ちゃんは前以上に明るくなって園児の中で一番元気ですよ。だから心配いりません。親分肌なのか小さな子供たちの面倒をよく見てくれるので今まで泣いて保育園に来るのを嫌がる子供たちも鈴ちゃんがいるから保育園に行くと言う子までいるんです。もし何か気になる事があればいつでも相談してください。」
と言ってタケシとマリを安心させた。
確かにマリが帰って来てから前以上によく笑うようになったし、タケシに対して甘えることがなくなった。自分の物は自分で管理したがったし、タケシのすることが気にくわない時はタケシに対して叱るような口調になる事もある。
鈴は口達者で着眼点も理路整然としており、その喋り方は昔、小さかった頃のユリのしゃべり方によく似ている。この口調で叱られるとタケシは背筋が伸びる思いがするほどだ。
確かにこの調子なら保育園でも誰もを引っ張って行くような親分肌なのだろう。
物事をはっきりと口にして自分と反対の意見の者にはたとえ大人であろうと負けん気の強さで論破しようとするその姿を頼もしいと思う反面、寂しさも感じた。
鈴は他の子よりもずっと親離れが早いかもしれない。
タケシは人よりもずっと家族に対する執着心が強いという事を自覚している。
それは今回マリが出て行った時にも苦しいほど感じていたし、ユリに対してだっていまだに大きな後悔が付きまとう。
自分と確実に血の繋がりのある鈴に対しても昔ほど絶対的な安心感はなく、マリやユリと同じように感じていた。
タケシとマリは二人で並んで歩きながら誰もいない夜の公園の横を通りかかる。街灯の明かりには小さな虫が集り、低い位置にある月が普段よりも白く大きく見える。マリは
「ちょっと公園に寄って行かない?聞いてもらいたい話があるの。」
と少し硬い表情でタケシに聞いた。
ふと襲ってきた不安の気持ちをマリに悟られないように、タケシは飲み物を買ってくると言って自動販売機に近付いた。
マリは公園の砂場の前のベンチに座り、タケシが心の準備が出来てこっちに来てくれるのを待つ。
タケシはカルピスソーダを2本買ってきて一本をマリに渡すと、大きな音を立てて缶のプルタブを引く。その音の感触が二人に緊張感を与えた。
タケシはマリが今度何か無理難題を言ったとしても、前のような結果には絶対にしないと決めている。もちろん出来ない事と出来る事ははっきりというつもりだがそれでも考える時間をもらい、その時間の中でしっかり考えてから結論を出すべきだったと思っている。
マリはこの家に戻る時、タケシにはもう絶対逆らわないと言った。
だけどそれでもマリの意見はある程度は尊重するべきで、マリはもう20歳なのだ。
それにマリだってタケシと鈴と離れていた期間、寂しかったはずだ。
もう一度あの時のようになりたいと思っているわけはない。
なぜかやたらと喉が渇く。その場で一気に半分以上喉に流し込む。
「私ね、多分一生誰かと結婚することはないって思ってるの。この先、誰と出会ったって人の気持ちを読んでしまうから相手にすぐ幻滅してしまうだろうし、自分が将来鈴ちゃんとタケシさんの家族から独立して別の家庭を持つってこともとても気持ち悪い事のように感じるの。
だけど自分の子供は絶対に欲しいって思ってる。それもなるべく若いうちに。誰とも恋愛しないでまた結婚もしないで子供だけ欲しいって悪い事なのかな。」
タケシにはマリの気持ちが痛いほどよくわかった。自分もマリくらいの歳にどうしても子供が欲しくて、だから有紀と一緒になった。世間の常識とは優先順位が全く違ったのだ。
「それでね。精子提供してもらって子供を作ろうと思うの。そういう考え方ってタケシさんは反対する?」
それには何とも言えなかった。そういう人工的な方法をとって子供の発育に何か支障があるのならば反対もするが、精神論や倫理に関する事ならばマリについてはまったく心配をしていない。
「精子提供の事はずっと考えていたんだけど自分が責任を持って自分の子供を育てようと思った時、誰のどんな遺伝子かわからない物に違和感や不安を持ちながら子育てすることはどうしても避けたいの。
できれば誰のどんな遺伝子かきちんと分かり、納得した上でその遺伝子を受け継ぐ子供を身籠りたいの。」
それもよくわかった。マリのいう通りだと思う。
「それでね。自分の子供には動物としての一番強い遺伝子を入れたい。
だからタケシさんに精子提供者になってもらいたいの。
こういう話って気持ち悪く聞こえるかもしれないし、口にするのも恥ずかしいんだけど、愛が手に入らないならその遺伝子だけでも欲しいって話なの。
もちろんそういう行為をタケシさんに求めているわけでも無くて、今は薬局でも人口受精のキットが手に入る時代だから、それを使った方法でかまわないからタケシさんの遺伝子をください。」
マリは自分なんかより一歩も二歩も先を考えているのだという事を知った。
そしてそういう大それた決断を実行しようとする強さもある。
その話はショックは大きいけれどそれと同じくらい同調の気持ちも大きい。
多分マリは俺の考えをきちんと理解しているからこそ、俺にそのことを頼んでいるのだと思う。
「子供は私だけの子供ってことで育てたいの。だからタケシさんの名前は絶対に使わないし、自分一人の責任で育てたいって思ってます。
そしてもちろんいつかはその子と鈴ちゃんにはその事を話さなければいけないと思うんだけど、それはふたりがそれを受け入れられる年齢になるまでは言わないつもりです。」
もちろん俺にはいいたいことが山ほどある。だけどそのどの理由も本能の欲求に対しては取るに足らない理由だった。
俺たち兄妹が一番大事にしてきた感覚が本能だった。
もしマリが自身の本能から俺の遺伝子を受け継いだ子供を望んでいるのであれば、そして俺が協力出来る方法があるのならばその願いを叶えてやりたいとも思う。
タケシは人間の道徳と本能との歪みが大きすぎて混乱していた。
〈〈 次回、店にヤクザの親分が訪れる。ご期待ください。〉〉
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