39、共同生活
タケシは彼自身の生活と鈴の世話をマリが手を出すことを嫌がり、すべて自分でやりたがった。
忙しい理髪店の仕事の合間に買い物、料理、洗濯という生活の細々とした仕事を丁寧に手早くこなす。
この家と生活に携わるひとつひとつの仕事に特別な愛着を持っており、少ない時間の中でどれだけ効率よく動けるかという事を楽しんでいるように見える。
また自分がマリと鈴という大切な家族を養っているという実感を楽しんでいるのかもしれない。
この家に引っ越してきたマリは毎日鈴と遊んで自分の勉強をして暮らし、鈴と同じく完全にタケシの保護下にあった。
タケシは毎朝、朝5時半にひとり起きだし、下の階に降りて行って店の全ての窓とドアを開けて空気を入れ変える。そして店の窓をすべて解放させたまま次郎の散歩に出かけるのだ。
早朝なので15分ほどの簡単な散歩であったが次郎はタケシが表に出てくると興奮してタケシの足にじゃれついて喜んだ。そのじゃれている次郎の声でマリと鈴はいつもうっすらと目が覚める。
布団を畳んで押し入れにしまい、顔を洗った頃にタケシが犬の散歩から帰って来て、テーブルに着いたマリと鈴にタケシは冷蔵庫からヤクルトを出し、一本ずつ手渡すのが朝一番の日課だ。
鈴はいつもヤクルトを半分残す。その鈴の残したヤクルトをタケシが飲み干すのもいつも通りだ。
朝食は毎朝、食パンにゆで卵。テーブルの上には前の日に茹でておいた殻付きのゆで卵とジャムが置いてある。イチゴジャムのときもあればピーナツバターの時もあるし、それがあんこの時だってある。
自分が食べている食パンの内側の柔らかい部分に少しだけジャムを付けた物をタケシとマリは交互に鈴の口に運んだ。
タケシは毎朝必ずゆで卵を食べるのだがマリと鈴はそれがあまり好きではない。
毎朝、決まってタケシはマリにもゆで卵を勧めるがいらないというと少しだけ寂しそうな顔をする。
その小さなわがままを言う事でマリは3人の生活の温かい幸せを毎朝実感する事ができた。
目の前に用意された食べ物を拒否するという事をこの生活で初めて体験した。
島の生活では食料は生命維持のための貴重な資源だったし、施設では食べ物を残すことは道徳的にとても罪深い事だと言われ続けてきた。
今は食に対して切実な必要性も強要もなく、好き嫌いを自由に言えるという事がマリにとっては特別贅沢な行為に思えた。
朝食が終わるとタケシは下に降りて店を開ける。店に電気を付け、理髪店特有の赤と青と白のサインポールを回し、ラジオにスイッチを入れる。
タケシが下に降りるとマリと鈴は幼児番組を見たり、朝の情報番組を見たりしてだらだらと過ごすしているが鈴がそれに飽きるとふたりで近所に散歩に出掛ける。
鈴はカエルの柄のついた黄色い傘が大好きで、どんなに晴れた日であっても散歩に行く時はその傘を引きずって歩いたし、雨の日は傘を使う事が出来るのでさらに喜んだ。
ただ鈴はひとりで傘をまっすぐ持つことが出来ないので必ずレンコートと長靴を履かせなければならない。
鈴はまだ近所の公園に興味を示さず公園の前は素通りする。最近の公園は子供がいなくて閑散としているため、子供たちが楽しそうに遊具を使って遊んでる姿を見る機会がない鈴にとっては遊具はただのオブジェにしか見えていない。
朝の散歩から帰ってくるとマリは食卓テーブルで自分の勉強を始める。マリはタケシとの約束を守り、教科書やインターネットを使って一人でも高校の学習過程を追って自分で学んでいた。
タケシはマリが自分できちんと学習することが出来ているかどうか時々インターネットの学力判断テストで確認することも忘れない。
そして勉強の進行状況がうまく行っているとタケシは大げさなまでにマリを褒めて喜んだ。
そんなタケシの喜ぶ顔が見たくて勉強が楽しくなっているような所もあった。
昼食はいつもご飯とお味噌汁で簡単に済ませる。昼食をとると鈴とマリは少しお昼寝をする。
マリはいつも寝るつもりがないのに鈴の隣で鈴のお腹をポンポンと触れているうちに温かい眠りに落ちてしまう。
30分ほどしてすぐ起きてまた勉強に戻ることもあれば、うっかり西日が差し込む時間まで寝入ってしまっていることもあった。
そんなぐっすりと眠り込んでしまった時はいつも起き上がるのがだるくて薄目をあけたまましばらく窓から入り込む西日の光の中に時折見える埃の影を眺め、それが落下して地面に落ちないように時々息を吹きかけて遊ぶ。
光の筋を目で追っている感覚が好きで島では木漏れ日で同じようにして遊んだ。
食べる事、遊ぶ事、ぼーっと思いにふける事は日常生活の基本として体内に組み込まれていてそれがマリの住む世界の全てだったのに施設に入ってからはそうやって遊ぶことを止めてしまった。
目覚めているのか眠りに落ちかかっているのか分からないような狭間で聞こえてくるタケシとユリの会話には絶対的な安心感があったし、当時は怖い物や苦手なものが全く存在しない完璧な世界だった。
施設に入り無理やり周りと一から人間関係を築かなければいけない時期は誰にも言えなかったが不満と恐怖だらけだった。
今はまたあの島での生活のように自分の体内にある基本的な欲望を十分に満たしてくれる。
夕方に目覚め、少し手足が冷たく感じた時に鈴を抱き寄せて毛布をふたりの体に巻き込む瞬間は嬉しくて泣きたくなるくらい幸せだ。
夕方にマリと鈴は少し長い犬の散歩に出掛ける。鈴はやっぱり手に傘を持ち、マリは次郎の綱を引く。
朝の散歩とは違うコースを歩く時もあるし、朝と同じコースの時もあるがたいていコースを選択するのは鈴で、鈴が行きたいところを時間が許す限り歩き続ける。
タケシは毎晩7時に最後の客が店を後にするとサインポールを止め、店の入り口に鍵をかける。
閉店後の店の片付けは後回しにしてタケシは鈴と風呂場に直行する。そしてタケシは風呂から上がりさっぱりした後で夕食の準備に取り掛かるのだ。
毎日の夕食にはきちんと時間を割き、タケシとマリは一日の終わりにそこで初めてゆっくり会話を交わす。
夕食が終わるとタケシはまた下に降りて行き、店の掃除をしたり道具の手入れを始める。
タケシの持つハサミや剃刀は大変高価な物らしくその手入れの時間は怖いほど真剣な表情だった。
時間を掛けて丁寧に手入れを終えると青い光の消毒ケースに丁寧に並べる。
その刃物を扱うタケシの真剣な顔はいつまでも目に焼き付いた。
〈〈 次回、店の定休日。タケシとマリ、鈴は休みをどのように過ごしているのか。ご期待ください。〉〉
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