38、自宅
タケシの自宅は理髪店の2階にある。
狭くて急な階段を登りきったところに突然現れる食卓テーブルの椅子をよけて進むと、一番最初に目に付くのが冷蔵庫だ。
よその家に比べてこの家の冷蔵庫が特別大きいというわけではない。
部屋全体のバランスから考えるとこの冷蔵庫が占めるスペースが特別大きく感じるのだ。
そして冷蔵庫の隣りの狭いスペースには横向きの状態で食器棚が収まっている。
その食器棚にも昔はきちんと扉が付いていたと思われるが冷蔵庫が邪魔で扉を開け閉めできないために扉の部分を取ってしまい、本棚のように作り替えられていた。
そして冷蔵庫のもう反対側には小さな流し台と2口ガスコンロがこじんまりと並び、その正面に開きの窓がついている。換気扇がないこの家では料理中は少しだけこの窓を開けることで換気を行っているのだが冬は部屋が温まり難くなる。
台所の突き当りの摺りガラスの開き戸を開けるともうひとつ4畳半の小さな部屋があり、そこに毎晩3人が布団を並べて眠るのだ。
理髪店の店舗も小さいが上の住居部分はそれよりもさらに小さく、その限られたスペースにタケシが手を加えて3人の小さな家族が住めるようにした。
それは誰もが簡単に想像する現代文明のアットホームなインテリアとは異質の、まるで小学校の用務室のように小さくまとまった自宅だったが、小さいながらも完璧なほど機能的に働いた。
収納場所が少ないため、箒やちりとりなどの掃除道具や台所用品はすべて壁にかけられているし、テーブルの下にも工夫して箸やスプーン、キッチン鋏などを収納できるスペースを作っている。
洗濯物は天井から吊して乾かすことが出来るし、扇風機やテレビも天井をうまく使って設置されている。どの空間も無駄にせず、それでいて安心できる居心地の良い秘密基地のような小さな家だった。
風呂場とトイレは1階の店舗の横に隣接されており、狭い廊下を抜けると店舗の出入り口とは違う自宅の玄関があった。その玄関から門までの間に庭とは呼べないほどのの余白があり、そこで次郎という柴犬を一匹飼っている。
昼間は人が訪ねてきても怖がられないように鎖でつないでいるが夜になると鎖を外し自由に歩き回れるようにしていた。
タケシはその犬を家族の一員ではなくちゃんと番犬としての責任を果たさせる為、きっちり厳しくしつけている。
柴犬は賢くて番犬には向いているのだが気性の難しい犬種である。体が小さいからと侮って接すると平気で人間に牙をむく。そしてそういう時に狙われるのはたいてい一番小さい人間だった。
だからタケシは特に小さな鈴に対して、番犬は鈴よりも下の立場だという事を徹底してしつけていた。
この店の前の主人が長い間、維持してきた建物と理髪店の設備一式は全てが昭和の時代のもので、その店の雰囲気は男心をくすぐる博物館や映画のセットのようだ。
テレビの街ぶら特集で真っ先に紹介されそうなほど味わい深く、外壁や看板がノスタルジックな雰囲気を作った。
そんな店はこの町の住人達に町の誇りとされており、住民はこの辺り一帯を昔からのそのままの雰囲気や地域性がそのままの形で残したいとおもっている。
実際この通りの薬局や整骨院、本屋、酒屋なども古くから家族経営で商売を続けている家が多く、小さな町の住人誰もが友達のように親しくしている。
この町では新参者のタケシだったが話し方や雰囲気、服装をこの町の男たちの雰囲気に同調することがうまく、この店も古いままの姿で経営を継続したことでこの町の住人はすぐにタケシに心を開いた。
今ではこの小さな理髪店がこの地域に古くから住むの男たちのサロンの役目をはたしている。
店内には古い散髪用の椅子が2つあり、椅子の前にはそれぞれに年代物の立派な鏡とこれもまた年代物の髪を洗うシンクが付いている。
この店の椅子は最近の電動式の散髪椅子とは違い、手でレバーを引いて背もたれや足置きを動かし、空気圧で椅子の高さを調節するタイプの物で、今ではどこを探しても見る事の出来ないほど貴重な椅子だった。
しかし、これなら調子が悪くなってもタケシが自分で修理することが出来るので、ずっと使い続けていく事が出来る。
理髪店はタケシがひとりでやっているのだが髪染やパーマなどの施術時間が長い客の時は2台を器用に使って同時に2人の客をさばく。
その間にも蒸しタオルを畳んで蒸し器に入れる仕事や下を掃いて掃除したり、電話を取って予約注文を受け、テーブルで順番を待つ客に温かいお茶を入れてサービスまでする。
それは一人でてんてこ舞いというより、すべての仕事のタイミングを完全に把握していて先を予測しながら動いているのでリズミカルでどこか楽しそうにも見えた。
そこでのタケシは白にも薄い水色にも見える歯科医師のような白衣に身を包み、整髪料で前髪を立てるようにして整えて店に立つ。
髪を下ろすとまだ幼さがまだ残る顔立ちなのだが、客のほとんどがタケシよりもずっと年上であることを必要以上に意識していて、なるべく客の年齢や雰囲気に合わせた髪型やしゃべり方を心掛けているようだ。この場のタケシは何歳にでも見えるし、また何歳にも見えない。
その不思議ないでたちのタケシがこの昭和レトロな理髪店に立つとそこはまるで現代社会の歪みに突然現れた時空間のように感じさせる。しかしその複雑な世界観だからこそここに通う中年男性達の心を芯から安心させることができるらしかった。
理容業界もどんどんとおしゃれな雰囲気に進化しているのだが、タケシの店はその流行に抗うどころか逆にさかのぼっているようにように見える。
そのかろうじて存在している異次元空間が優しく温かい気持ちになると同時に胸を締め付けられるような切実な寂しさを感じることもあった。
どこの世界からも切り離されたようなその特別な空間は子供の頃タケシとマリが暮らした無人島での生活を思い出させた。
タケシは店のBGMはいつもNHKラジオと決めており、夏の高校野球や定時ニュース、また少し古くさい歌謡曲を抑揚のない喋り方のラジオパーソナリティーが堅苦しく紹介するため店内はどうしても暗く湿っぽい雰囲気になった。
そのラジオから淡々と流されるラジオ放送がこの店の中の時間を強引に引き延ばしているために普通の一日が永遠に感じられる。
このラジオに耳を傾ける客はだれひとりいなかったが、飽きることなく毎日同じ調子でただ店内に流され続ける。
多分タケシ自身もこのラジオに特別な感情はないはずなのに頑なにチューニングを変えようとしない。ただラジオから音が流れていて店の中に音が存在するという事に安心して仕事ができているようだった。
そんなタケシが1週間に一度だけ日曜日の夜、このラジオのチューニングを変えていろいろなラジオ局を渡り聴きながら一人でタバコと酒を嗜む。
マリは時々その様子を階段に座りながらじっと観察してみるが、どうしてもマリはタケシに近付いて話しかけることが出来なかった。それは若くして父親になったタケシが唯一持つプライベートの時間だった。
タケシは階段に座っているマリを見つけても微笑むだけで絶対に話しかけないし、マリに座るように勧める事もしなかった。
タケシの方でも頑なにマリを寄せ付けずにそのプライベートの時間を死守しているようだ。
マリはそんなタケシの姿を見ると一緒に生活しているのに昔よりも距離を感じた。
そんな不安と苛立ちを感じている時はタケシがマリに向かって微笑んだとしてもわざと仏頂面で怒りと苛立ちを露わにした。
それが寂しさを感じたマリの精一杯の抵抗だった。
〈〈 次回、タケシとマリ、鈴の3人の生活を深堀する。ご期待ください。〉〉
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