35、鈴
鈴は3350グラムで元気に生まれた。その日は春なのに朝から激しく雪が降り出した。
この時期の突然の大雪にびっくりして町全体がパニックになるほどの慌ただしい日だった。
病院から連絡が来て店から病院に駆けつけようにも雪の為に交通手段がまったくなく結局、長靴の間に雪が入らないように隙間にビニール袋を詰めて病院まで3時間、歩き続けた。
ようやく病院に着いたが生まれたばかりの鈴はいろんな検査に回されていた為、結局面会時間は10分ほどしか許されなかった。
そしてまた3時間かけて店まで戻り、後々病院の看護婦さんたちの間で噂になった。
そのうわさから有紀と看護婦さんたちが他の患者と看護婦以上に仲良くなり、親子で大変お世話になったという話をあとで聞いた。
雪の中を歩く間も嬉しくて嬉しくて3時間という時間の感覚を失うほど夢中で足を前に出し一歩一歩幸せを踏みしめた。世界が一斉に輝き出すような時間だった。
その日からのタケシは有紀にも鈴にも感謝を忘れなかったし、できるだけ有紀の手を煩わせないように家事も育児もタケシが率先して行った。
自分の子供を複雑な状況だと理解した上でそれを容認して生んでくれた有紀に対しての感謝は周りが異常だと冷やかすほどに大げさに見えただろうし、実際に有紀からやり過ぎだとたしなめられることもあった。
そこまで有紀に対して献身的になれたのは有紀の両親が結婚して子供が生まれた後も一度も顔を見せなかった事での罪悪感もあったのだろう。タケシは有紀ができるだけ寂しくならないように仕事以外の時間はずっと3人でいる事を心掛けていた。
しかしその努力もむなしく有紀はしばらく経つと産後うつになり、鈴をタケシに預けて実家にひとりで戻る日が増えていった。
当時、産後のうつ病は少しずつ認知されだしていてニュースなどでも頻繁に取り上げられることが多くなり、タケシは女性の体の変化やホルモンの仕組みにまたも悩まされた。
悩みながらもそれを決して表に出さないように努力した。
そして有紀は最初は2日ほど家を空け、すぐに戻ってきたりしたが日が経つにつれてそれが1週間になり、出産後半年後にはまったく家に戻ってこなくなった。
そんな時期に有紀の父親から会って話したいという連絡をもらった。
有紀の父親に会うのは初めてだったが緊張はまったくなかった。それはこの話の行方が想像できたからだし、これから関係が始まる相手ではないことが確実だったので気に入られようと心配する必要がなかったからだ。
有紀の父親は運転手付きの車で現れて運転手を車に待たせ、理髪店の入り口から入って来た。
その日はできるだけきちんとした服装を心掛けて店の客待合のソファーを勧め、できるだけ濃く出した緑茶を小さな茶碗で父親の前に出した。
父親は丁寧にお礼を言ってお茶を一口飲み、茶卓に置こうとして迷い、もう一口口に運んだ。そして思い切ったかのように口を開いた。
「有紀との離縁をお願いしに参りました。言いたいことはたくさんあるかと思いますがこちらからそれを上手に説明して納得してもらう事は不可能だと思います。ただ勝手なことを親子でお願いしている事だけは理解しています。これを機にうちとの関係を切ってもらいたと願っています。どうかよろしくお願いします。」
と言って深々と頭を下げた。
そしてカバンから銀行の封筒を出し、テーブルの上に置いてその上に丁寧に両手を添えてタケシの方へ押し出した。
タケシはその手を上から掴んで彼の腕を力強く押し返した。
そして こちらで少しお待ちください。と言って2階に上がり、同じような茶封筒を持って降りてきた。
そしてそれをテーブルの上に置くと
「こちらをお納めください。こちらの希望を聞いて頂きたく、このお金を準備いたしました。私の願いは一つです。鈴を私に引き取らせてください。あの子は私にとって数少ない血の繋がった家族なんです。鈴が側にいれば私はこれからどうやってでも暮らしていく事ができます。私に鈴を譲ってもらえませんか。」
有紀の父親は情けないほどに悲痛の表情を浮かべ、手の平で自分の顔を覆った。
「私たち夫婦は完全に判断を誤っていました。あの子が私たちの元に戻ってくるように大人げなく意地を張っていたのです。あの子をうつ病にしてしまったのは私たちの責任です。しっかりとした優しい男性だとあの子から何度も聞かされていたのに自分たちの判断が間違っていると一度も疑わなかった。
私たち夫婦の浅はかな考えが娘とあなた達親子を傷つけてしまった。本当に申し訳ありません。
こちらのお金を頂かなくても鈴ちゃんはあなたにお任せします。どうか大切に育ててあげてください。」
と言ってもう一度深く頭を下げた。
「いえ。生意気なようですがこのお金は受け取ってもらいます。これは金銭の契約だと思ってください。そして今後、鈴を引き取りたいとは絶対言わないで頂きたいし、できれば私たちの前に現れて欲しくもありません。私たち2人の生活を保障していただくためにどうしてもこのお金を受取っていただきたいのです。
そして有紀さんが心を病んでしまったのはあなた方のせいではないと思っています。
あなた方が私たち夫婦を認めてくださったとしても産後のホルモンバランスで体を壊してしまう事もあったはずです。なので自分を責めず、もし何かを責めて解決しないといけない場合はどうぞ私を責めてください。
有紀さんにどうか私と鈴の事は早く忘れて幸せになって欲しいとお伝えください。」
その言葉を言い終わるとタケシは立ち上がり、有紀の父親を入り口までうながした。
有紀の父親は重い足取りで運転手の待つ車まで歩いて行くとこちらに向かってもう一度深く頭を下げた。
〈〈 次回、タケシの子育て。シングルファーザーとなったタケシはどのようにして働きながら子育てしていくのか。ご期待ください。〉〉
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