推しに賭ける
2024年9月8日の大阪で開催された文フリに出店した時の作品です。強引な設定です。
大小様々な照明に照らされた広いホールにはスロットのマシーンが数十台置かれたエリアがあり、またルーレットやブラックジャックにバカラといったギャンブルのエリアが多くの客で賑わっている。その客の多くは日本人だった。そう、ここは数年前から営業が始まった日本国内のカジノだ。バニーガールの姿も見える華やかな雰囲気の中、一攫千金を狙う熱気や殺気も漂うような独特の空間がそこにあった。
そのホールの一角で和服を着た二人が六寸尺の厚みのある将棋盤を挟んで座っている。二人は一手指す毎に脇に置かれたその対局時計のボタンを押し、すぐさま盤上に視線を強く戻す。
超天才棋士の出現もあって近年注目度が高くなっている将棋がカジノでの競技(賭けの対象)として用いられている。これにはプロ組織や有力者の働きかけがあった事が想像出来るがそんな事はまあ置いておこう。とにかくカジノで将棋が指されているのだ。
そして競技者として戦っているのは僕の一推しの織田真司君だった。プロの道を諦めた彼だったが、こういう形である種の脚光を浴びながら将棋を指している。彼の一手、一挙手一投足に僕は熱い視線を向ける……
「織田の奴、元プロだって? というかなり損ないだろ。強いのかな? 一応奴に賭けてるけど勝ってくれるかな?」
大柄な大垣猛が話しかけてきて不意に現実に意識が戻され、僕・青菜実の妄想は弾けた。今織田君は将棋を指しているが和服ではなく普段着だし、指している場所もカジノの舞台ではなくカジノの専門学校の中である。
「そりゃあ、強いさ。優勝するんじゃない?」
失礼な言い方にややムッとしながらも僕は答えた。まあ事情を知らない奴にとってはそんな認識なんだろう。
僕らはここ全日本カジノ専門学校の一年生で業務に携わる前の卵に過ぎない。ここではルーレット等のディーラーとしての技術の習得、カジノ文化について勉学、英会話等カジノ運営に必要な様々な事を学べる。またパチンコ業界最大手の会社が経営している関係からかパチンコ店でのホールスタッフの業務も身に付けさせてくれる。カジノやパチンコ店のホールスタッフという道もありとにかく就職率は高い。
賭ける賭けないに関わらず勝負事全般が好きな僕は大いに魅力を感じた。カジノやギャンブルと聞くと両親はあまりいい顔をしなかったが就職率の高さを主張して何とか説得した。
カジノで将棋が採用される事になったのは将棋マニアでもあった僕には嬉しい誤算だった。
学校では存外将棋に授業の時間をかなり割いていた。その締めくくりとしてこの将棋大会が開催された。大会だけではなくホール運営の実地も兼ねているので出場選手以外にも色々役目を負った生徒もいたし、単にギャラリーとして観戦している生徒もいた。
大会の方はベスト八まで進行していて元奨励会員の織田君も順当に勝ち進んでいた。奨励会というのは将棋のプロの養成機関でありそこを卒業すれば晴れて将棋のプロ棋士としてデビュー出来るのだが、入会希望者のうちプロになれるのは五%未満と言われる大変に競争の激しい世界だ。なれなかったとしても無理はない。プロの世界で修行をした彼が今回の大会では文句なく優勝候補と言えた。
全対局でカジノ内のゲームと同様に賭けられるようになっている。賭けるとは言ってもリシータという何だか由来のよく分からない名前の学校内の通貨を使う。このリシータで学食や購買部での買い物が出来る。出場選手にも賞金代わりに少額のリシータが出る。
「ここまで織田の方がリードしてたみたいだけど、さっきの指し手で評価値がグンと下がったな。ああ、どうするかな……」
大垣が迷ったような顔をしている。対局は別室で行われている。そしてその様子はモニターに大きく映し出されていて画面の大半は現在の将棋の局面が映っているのだが、その傍らには評価値というAIが計算して出しているその局面の勝率を表した数値や次の指し手の候補といった情報も表示されている。この評価値の存在によってそれがなかった時代には将棋の内容がさっぱり分からなかった人達にもある種の判断材料が出来て新しい楽しみ方が生まれたのだった。カジノで採用されるようになったのもこの評価値の存在が影響したのだろう。
そして賭け方として対局の途中に降りたりあるいは追加で賭ける事が出来るルールになっている。評価値という途中経過を見ながらそうした判断をして降りる事で被害を減らせられる。賭けた半額は取られるけど。
「なんか流れが悪そうなんだよなあ。まだ逆転はしてないみたいだけど、この傾向が続くと引っくり返るんじゃないのか? 全額負けるのは痛いんだよなあ。うーん、早く決めないと……」
大きな体をしてるくせに細かい奴だな、と僕は思った。結局大垣は降りる事にしたみたいだ。
僕は織田君を信じていたから賭けを変更するつもりはなかった。評価値が下がったとはいえ形勢は優勢。最短・最善の勝ち方を目指すよりも少し遠回りになっても安全に勝てる方法を選んだのだと僕は思った。
そしてそこから何手か進んで織田君の勝利が決まった。
「ちくしょー。何だ、そのまま賭けてればよかったのか……」
「だから、やたらと方針を変えてもしょうがないんだよ。もっとどっしり構えてないと」
悔しがる大垣に僕はそう言ってやった。
「うるせーな。俺は将棋なんてさっぱり分からねーんだからよ。勝負ってのは流れが大事なんだからな。この評価値って数字を見てアレコレ想像して先の展開を読む、それがこのゲームの醍醐味だろうがよ」
まあそうなのかも知れない。僕だって囲碁とかチェスの局面を見たってチンプンカンプンだ。評価値のグラフというのは株価のチャートのようにも見えるのかも知れない。グラフを見て現在の数値を見て、そこから今後の流れを予想する、そんな勝負の仕方もあるのだろう。
そして僕もそんな大垣を笑ってばかりいる訳にもいかないのだった。織田君の勝負に関しては全て織田君が勝つ方に賭けていたので勝ち続けてはいたがその他がいけない。なまじ将棋が分かるだけに試合内容からその先の展開を予想したりしたのだが結果はことごとく裏目に出て……トータルでかなり負けていたのだった。
このままではいけない。今月はもう現金がほとんどなくてリシータ頼みの生活となっていたのだが、この後相当浮かせないと明日からの食べ物にも困る事になるのだ。
「織田君って、ひょっとして奨励会にいなかった?」
将棋の授業が始まって聞き慣れない専門用語ややり方に戸惑う生徒が多い中、卒なくこなしている様子の織田君に僕は思い切ってそう声をかけた。将棋雑誌で見覚えのある名前だったのだ。
「え? ……うん、まあそうだけど」
中肉中背、特に目立つ感じでもない小顔な織田君はやや気恥ずかしそうな表情を覗かせながらそうポツリと答えた。
「よく分かったね」
まあまだプロになる前の奨励会員の名前を気にしてるような将棋ファンは相当にコアな部類に入るだろう。聞けばこの春に進学を機会に奨励会退会を決断してここに来たようだ。そういう奨励会員は結構多いらしい。退会したという事はその道を挫折したという事である。
彼の傷に触れる事にもなるだろうし迷いもあったが、プロの世界というのは僕ら将棋ファンにとっては究極の憧れでありその道に挑んだ彼に話しかけずにはいられなかった。この日以来彼とはよく話をするようになった。
「『奨励会という所は長くやっていれば三段までは行けるんだ』、先輩からよくそう聞かされたよ」
初段で退会した織田君はそう言った。四段からがプロで奨励会は6級から三段までで、三段まで行くと最後の難関『三段リーグ』が待っている。半年に二人しか上がれない狭き門。約四十人の三段がその椅子を争っている。6級からの長い道のりを経て三段まで行って、やっと奨励会の半分だとも言われている。
僕もその手の話はよく読んだり聞いたりしている。奨励会は初段からが本当のプロの世界で、初段と三段に技術的な差はないとも。
「このまま続けて三段まで行って、それで三段リーグを闘い続けて年齢制限の二十六歳までに上がれるかどうか……。リーグの出だしで連敗なんかしたらその期は絶望的だし、それでも来期の順位のために絶望の中でリーグを指し続けなければいけない。連勝してもライバルが何人もいて、勝ち続けなければ昇段戦線から脱落する。そんな先輩達の闘いを見ているうちに自分の未来も段々見えてきたんだよ……」
彼も地元では天才少年と言われて期待を背負って奨励会に入った。だけど奨励会は学校ではなく全国の強豪少年達の中に放り込まれて、ただそこから勝ち上がって行くだけ。その『勝つだけ』という事がどれ程難しいものであるか。皆が将来の名人、タイトルホルダーを夢見て日々研鑽している中でどうやって勝ち抜くのか。
そして最後に待ち受ける『地獄』と謳われる三段リーグ。あまりの過酷さに精神が病んでしまったり宗教に走った先輩も何人か見てきた。そうはならないと信じて必死に頑張ってきたが、初段まで来て冷静に周りを見渡してみて『自分は飛び抜けた存在ではない』と自覚した織田君は退会を決意したのだった。
準決勝は織田真司ー土門岩男、加納遼ー佐伯優子という組み合わせだった。
珍しい事にベスト四の一人は女性だった。まあこんな将棋に関しては素人ばかりの中では誰が勝ち上がってもそれ程不思議ではないだろう。
僕も別に女性蔑視をするつもりはなくてむしろ応援したい気持ちでいっぱいだ。ただ現実は男女それぞれのトッププロのレベルを比べても、アマチュアの世界における活躍度や実力を見ても明らかに女性には厳しい世界だとしか思えない。しかしだからこそ将棋を指す女性を応援したいのだとも言える。
「佐伯さんか。勝って欲しい、と普通なら考えるところだろうね」
僕にそう話しかけてきたのは路地睦夫というやや背の曲がったちょっと変わった印象を持つ男だった。
「だけど加納君の強さを知っているからね……彼に賭けている身としては当然彼に勝ってもらいたいよ」
何となく不敵な笑みを浮かべてから路地君はモニターに視線を移した。僕も加納君の方が強いような印象を持っていたが所詮は素人同士の将棋、何が起こるか分からない。ロマンを追い求めて、応援の意味も含めて僕は佐伯さんに賭けていた。
「君は織田君を推しているようだね。彼が元奨だから?」
「まあ、そうだね。君は加納君とは以前からの友達なの?」
また話しかけてきた路地君に僕は尋ねてみた。
「いや、リアルな知り合いではなかったけどね。彼は動画サイトで自分の指した将棋の動画を配信しているんだ。以前から観ていて、チャットで話しているうちにこの学校に通う事とか聞いて、それで自然と正体も分かって……という感じさ」
「ふうん……」
話を聞いていると加納君はなかなかネット将棋においての勝率が高いようだ。持時間の短い将棋に向いた奇襲的な作戦を沢山研究していて対戦相手をハメるのが得意みたいだ。
路地君自身はゲーム関係の動画をよく観るらしく将棋はさほど自信がない。とはいえ『元奨』という言葉があっさり出てくるくらいだからそれなりに詳しいのだろう。僕と同じで大会に出ればそれなりには勝てるだろうけど、お互いの推しには絶対に勝てないし推しの優勝を確信しているから出場はしなかった。
「ところで、どうして将棋は男女でレベルの差があるんだろうね?」
「まあ、それは……」
路地君の問いに僕が答えようとしていると
「おい青菜、今度も織田が勝つんだろうな? またお前が織田の方に賭けてるみたいだから俺も真似をした。勝ってる奴に乗っかる、これもギャンブルの常套手段だ」
大垣が割って入ってきた。
「ん、ああ、形勢は織田君がリードしてるみたいだね。そのままでいいんじゃないの?」
僕も決して勝ってはいないのだが、確かに織田君の勝負に関してはだけはずっと当てている。
「本当だろうな? グラフを見ると何だか不安な気もするんだけどな……」
「どうだろうね? 僕は主に局面の方を見ているけど、確かに勝負というのはどう転ぶか分からない。まあ最後は何を信じるかの問題じゃないのかな」
評価値の推移を見ると確かに織田君の相手の土門君の方に若干振れる事もあるようだ。ここまで互角近くに形勢を保っているとは土門君もなかなか善戦している。
「そういや、さっき男女がどうのとか言ってたな?」
大垣が話題を変えてきた。
「いや、将棋はどうして女性の方が弱いのかって話だけど」
路地君が答える。
「そんなに弱いものなのか? 俺にはよく分からんが。俺は佐伯さんを応援してるから当然佐伯さんに賭けてるぞ」
「まずは競技人口が圧倒的に少ないんだよ。底辺が広ければ頂点も高くなる、狭ければ当然低くなる」
これには僕自身の感慨が混ざっている。近年は将棋のイメージも変わってきてはいるけど、根本的な問題として将棋は女性に向いているのかどうか? その不安はずっとあるのだ。
「昔、初の女性奨励会員が現れたけど、その頃は『女に負けたら恥だ』という雰囲気があって実際にそれを声に出していた人もいた。『負けたら坊主だぞ』って言っていて、本当に負けて坊主にした奨励会員がいた。そんな事をされたんじゃ、その女の子は可哀そうだよ」
「そうか、そんなに陰湿な世界なのか。奨励会って所は」
「最近はそんな話は聞かないけどね。建物自体も建てた時には女性奨励会員の事なんか考えていなかったから、トイレに行くにも苦労があったとか。研究会といって仲間同士で集まって研究する場があるんだけど、その仲間にも入りずらかったり……環境そのものが不利だったんだよ」
そういった諸々の条件が互角で男女の人数もほぼ同じで、全ての面においてフラットな状態で競う事が出来たとしたらどうなるのだろうか? 大垣の奴に説明しながら僕はそんな考えを巡らせた。現実にはいまだに存在しない女性のプロ棋士ぐらいは誕生するだろう。
もっともその『人数が同じ』というのが絵に描いた餅なんじゃないかとは思うけれど、ともかく環境を整備していくのは大切な事だろう。
そんな話をしているうちに両方の局面も煮詰まっていった。
「ああ、佐伯さん負けてしまったか……。お前は佐伯さんに賭けてなかったのか。薄情な奴だ」
「薄情も何も、自分はずっと加納君を応援してるからね」
「馬鹿野郎。ここは何が何でも佐伯さんに賭けるしかないんだよ。それが男の生きる道だ」
何となく意識が遠くなりかけながら大垣と路地君の会話を聞いていた。もう一方は織田君が勝ったけど、佐伯さんの負けは正直痛かった。とにかく決勝は全振りで織田君に賭ける、それしかない。
「それにしても不思議なもんだ。カジノで将棋なんて、どうして決まったんだろう?」
その事自体は嬉しかったが、今その事実に苦しめられつつある。自嘲気味にそう言うと路地君は
「まあ日本のカジノとしての特色を出したかったんじゃないのかな? 一口にカジノと言っても地域差があるからね。ざっくり言うとイギリスは紳士淑女の社交場、アメリカはもっとカジュアルで、香港はディーラーが本気で客の金をむしり取ろうとする鉄火場、そんな感じだから」
とさり気なく知識を披露した。なるほどと思っていると
「ところで君は織田君に賭けるんだよね? 自分は加納君だ。ならそれとは別にサシで賭けてみないか?」
と言ってきた。
「サシって、僕と君とでって事?」
「そう」
思ってもみなかった事を言われてちょっと戸惑った。提示された額は……勝てば非常に助かる。明日からの生活に絶望しかけていた僕の心は一気に晴れ渡る。しかし負ければ払えない……。
「貸しにしてもいいよ。後から払ってもらえば。正直、儲けたいというよりも自分の信念を形として対決したい気分なんだ」
「いいよ、それなら僕も降りられない」
こうなれば意地だ。僕も全てを賭ける気持ちでそう言った。
インターバルの間に加納君の動画とやらをチェックしてみた。なるほど確かに強い。AIを活用して徹底的に研究していて、序盤からの激しい変化をいくつも知っていて相手がその対応を誤ればたちまち敗勢に陥ってしまう。正しく対応してもそれはそれで互角に闘い続ける。そして終盤も卒がない。
これならプロでもハマればやられるんじゃないかと思う。僕なんかとは明らかに格が違う。こんな所にこんな逸材がいようとは思いもしなかった。
「な。かなりの強さだろう、加納君は」
「確かにね。でもアマチュア将棋だね。プロの将棋の作りじゃない、と思うよ」
一種の見栄で僕も分かったような言い方をしている。アマとプロの将棋の違いなんて難しい問題だ。僕もそこまで分かっている訳ではなくて受け売りの部分が大きい。一言で言えば持時間の短い将棋がアマチュアで長いのがプロだ。どんな世界でもたいていは勝負が長引けば長引く程実力の差が現われ、強い方が勝ち易い。
「そのアマチュア将棋の部類なんじゃないの? このカジノ将棋ってのは」
路地君の言った事に対して内心は同意していた。なるべく出来るだけスピーディーな決着をつけて将棋が分からないお客さんにもそれなりにスリルが味わえるよう、回転を上げるために短い持時間の対局に設定されている。準決勝までは十分切れ負けという早指しで、決勝戦は持時間五分に三十秒の秒読み付きだがそれでもかなりの早指しでこれはアマチュア将棋の範疇だ。
「持時間の長い将棋を経験している人は感覚が鋭いんだよ」
何となく弱味を見せたくなくて理屈を言ってみた。対局するのは織田君と加納君で、僕らはその勝負を見守る事しか出来ない。応援する対局者に勝ってもらうしかないのだ。
加納君の対局姿を見てみる。アマチュア将棋界で名前の知られた存在ではない。恐らくネット将棋を中心に指していてリアルに将棋盤と駒を使って指す事はないんじゃないかと思っていたが、駒の持ち方とか動かす手付きは落ち着いたもので不自然さは感じられなかった。時折メガネを下から二本の指で押し上げる仕草はいかにも理知的で自信がありそうに見えた。
大会出場を織田君に強く勧めたのは僕だった。織田君自身はそれ程乗り気ではなかったのだ。
奨励会を退会した織田君はこれまで己の人生を賭けて目指してきた将棋の道を捨ててこれからの人生に向けて新たな挑戦を始めた所だった。これ以上将棋が強くなってもあまり意味はないし、むしろ一時的に将棋を忘れようとしていたくらいだった。
そんな織田君に無理を言って将棋を教えてもらったーー将棋を指してもらう事を相手に敬意を表して将棋を『教わる』という言い方をしたりするが、両者の実力差を考えるとまさしく一方的に教わる以外の何物でもなかった。
そして今回の大会に出る事をしぶっていた織田君に半ば強引に「出てよ」と頼んだ。僕の心はただスーパーマンに憧れる少年のそれだった。織田君が対戦相手をちぎっては投げる光景を見てみたかった。
織田君の将棋に関する発言は常に局面に対してあらゆる可能性を探っているような、常に警戒心を怠らない心構えが感じられ、いかにも将棋というゲームの深淵を覗いてきたような雰囲気を僕は感じた。
「子供の頃に通っていた将棋道場にマレーシア準名人になったおじさんがいたんだ。海外に赴任して、そこでどういう経緯があったのか国内将棋大会が開催されて……」
大会に出る事を決めて、やれやれといった表情になった織田君は昔話を始めた。そのおじさんは織田君が将棋を始めた頃には全く歯が立たなかったけど、奨励会に入る頃には逆に全然負ける事はなくなっていたとか。
「そんな所での大会なら、と当然優勝するつもりだった。だけどどんな所にも強い人はいるというかとにかく決勝で負けてしまった。準名人として国王から表彰されたらしいけどね」
どういうつもりでそんな話をしたのだろうか、これってまずいフラグなんじゃないのか? と、やや困惑気味の表情を浮かべた僕に
「まあ、やるからには勝たなくてはね。そのおじさんみたいにはならないつもりだよ」
と織田君は微笑んだ。
加納君の先手で始まった決勝戦の局面は進んで角換わりと呼ばれる戦型となっていた。この戦法はお互いに角という大駒を交換して持駒として持っていて序盤から激しい変化を秘めている。それなりに守りも堅い形になって超急戦という程の急展開にはならない事が多いが、水面下ではいきなり決戦を迫るような攻め筋も孕んでいる。
加納君の頭の中にはそうした様々な攻め方が記憶されキチンと整理されているのだろう。正直な話、織田君は最近は将棋から離れていたようだからそうした『嵌め手』と言っては語弊があるかも知れないが、細心の注意を必要とするほんの僅かなスキを縫って厳しく迫る狙いに見事に引っ掛かってしまうのではないかと心配していた。
だが織田君の指し手にはそんなスキはなかったようだ。加納君も織田君が元奨である事を知っているのだろう。織田君自身はそんな事は周りに言っていないが……僕もその原因を作ったみたいだがそれなりに知られているようで、加納君も警戒して強引な手段に出る様子はなさそうだった。
後手の織田君は右玉と呼ばれる寝技的な指し方を選んだ。右玉を一方的に攻め倒そうとすると難しいが、逆に右玉の方から攻めるのも難しい、何とも言えない押し引きが続く展開となった。
「元奨にも色んなタイプがいるみたいだよねえ。そのままアマチュア大会に出て活躍する人、将棋をやめてしまう人」
局面を見ながら路地君はそんな話をしてきた。
「そんな風に書かれた小説もあるみたいだね。だけど実際はそれだけじゃ足りない。自分自身の勝負はもういいという感じで指導する事に目覚めた人、ライターや連盟職員など将棋界の周辺で仕事をする人……」
路地君の物を知ったような言い方に、僕は何となく反発するというか張り合ってしまう。
「アマチュアとして出直そうとしたもののそのアマチュア将棋に対応出来ないタイプもいたそうだ。プロとアマでは将棋の作り方が違うとかで」
「……」
厭な事を言う奴だ、と思った。確かにそういう話もある。単純にアマはプロより弱い、ではなくアマにはアマ独特の戦術や蛮勇のようなものが求められるのだ。
「織田君は奨励会を退会してからあまり将棋を指してなかったみたいだし、加納君はずっと指してた。挫折も知らない、上り坂の途中なんじゃないのかな?」
彼の話のペースに乗ってはどんどん加納君有利の材料が出てきそうだ。
「……まあ黙って見守るしかないよ。僕らにこの対局者二人の将棋は測れない」
僕がそう言うと路地君は口を閉じたが、その動きの過程で鼻で笑ったような仕草が見えたような気もしたけどそれは気のせいだろう。それよりも現在の局面だ。
加納君は自玉を穴熊という囲いに組み替えた。右玉を相手には時折みかける対策の一つだ。それに対して織田君の方に誘いのスキにも見える手が出てそれに加納君が乗って……。軽く放たれた織田君のジャブに加納君が対応し、お互いに打ち合った角がまた交換されて、何とも難しい局面が続いている。
「ここで銀を上がってタダで取らせる手が一番の候補手なのか? それで先手が少しリードするのか……」
路地君が少し驚いた顔をしている。僕も同感だった。このギャラリーの中で将棋の局面を具体的に見ているのは僕と路地君の二人以外にはそんなにいないだろう。将棋が分からない人は画面上に表れている客観的な情報を元に判断するよりない。残り時間、評価値、候補手……
分からないなりにも拾えるだけの情報の中から判断したりして、そこに勝負特有の張り詰めた空気というものを感じ取って手に汗を握る者もいた。大垣猛もその一人だった。
「何だ、ここでは同歩ってやるものなんか? 他の候補手でも微妙な数字が出てるけど。しかしこの二人はほとんど一番目の候補手を指すし、それが外れても必ず候補の中に出ている手を選ぶんだよな」
既に秒読みに入っていて両者は時間一杯読みに読んで指し手を進めていく。織田君は残り一秒くらいに時計のボタンを叩く事も多いが、加納君は残り五秒くらいで指す事がほとんどだ。傍から見ると織田君の方が危なかしくて加納君の方が余裕がありそうに見えるが、僕は加納君が対局時計の叩き合いそのものに慣れていないから時間切れを恐れてそうしているのではないかと推察した。
加納君が銀を犠牲に打った桂が敵玉の急所に突き刺さったかのように見えた。評価値は先手有利からやや優勢と言える数値を表している。まだ決定的な数字ではないから通常なら変化の余地があるはずでまだまだ混沌とした闘いが続く。しかし現実には均衡を保つための具体的が手が無い、という数字では表せない独特の局面で微差でそのまま最後まで行ってしまう展開も予想された……
「……くっ」
僕は呻いた。スポーツだとかこういった競技でどちらが勝つかという事に正義はない。正義はないはずだけれどもしそれがあるとすれば、将棋の本質を追究するプロ的な将棋が相手のミスやスキにつけ込んだり盤上の真理よりも自分のペースで闘うという事を重視するアマ的な将棋に勝つ事だと思う。今はそれを強く信じた。
「銀引き……それで受かっているのか……?」
僕も路地君も判断のつかない局面を見詰めていた。もう直ぐにでも捕まりそうに見えた織田君の玉だったが意外な場所に逃げ道を作って、それが妙な耐久力を見せていた。AIも短時間で正確に計算するのは困難なようで評価値は揺れに揺れていた。
苦悩しながらの織田君の予想外の粘りに、それまで快調だった加納君の手が止まったように見えた。勝負は泥仕合の様相を呈してきた。
飛という大駒を犠牲にして得た反撃のチャンスに鋭い手裏剣を飛ばす織田君。加納陣が揺らいだ。しかし簡単には崩れない。攻守が入れ替わっても常に反撃の手を見据えていて全くの油断を許さない。
「これは、どっちが勝っているのか……?」
「分からない……」
延々と秒読みが続く中、お互いが候補手の最善手を指す事もあれば微妙に外れる事もあり、評価値も時間の経過によって先手有利・後手有利と入れ替わったり全てが混沌としていた。
しかしもう数手もすれば決着はつくだろう。結末はまだ見えないのだが……
僕は半分以上負けを覚悟していた。明日からの事を考えると惨めな気分になってしまう。黙って見ているしかないのだが、何か勇気が出る材料でもあれば……
「これが最後のタイミングか」
不意に大垣がそう言って
「よし、織田に賭けよう」
本局の賭けの最終受付に間に合うように織田君が勝つ方にベットしたのだった。
「……どういう根拠でそうしたの?」
「なあに、織田の方に迫力を感じただけさ。カンだよカン。勝負ってのはカンが一番大事なんだ」
僕の問いに大垣はそう言って白い歯を見せた。
織田君も加納君も強敵を相手に秒読みの中で懸命に指し手を続けた。僕も路地君も、ましてや大垣の奴なんかに彼らの将棋の内容なんか理解出来る訳もなくただただ見守るだけだった。果たしてどちらに勝利の女神が微笑むのだろうか……
織田君の寄せの手が迫る中で最後の反撃のチャンスが来た加納君が桂を打ち放った。鋭い手だと思った……心臓が締め付けられる思いだった。だけどその手はほんの少しの微妙な所で急所を外れていたらしく、織田君の指した手によって加納玉は完全に受け無し。加納君は最後に回って来た手番で織田玉を詰ませるしかなくなった。
王手王手の連続で織田玉は裸にひん剥かれて逃走を続ける。逃げ間違えると詰んでしまう変化がいくつもあったが織田君は正確に応じ続けて、とうとう王手が続かなくなってしまった。
ついに織田君の勝ちが決まった。
僕らは対局者を労うために対局が行われていた別室に向かった。
「桂打った手では、金打ちでしたか……?」
「それだと確かにまだまだ大変だったみたいですね……」
僕らが入って行くと感想戦が行われていた。感想戦というのは対局後に今の勝負を振り返って敗因などを検討して調べる事だ。強い人は今指した将棋の指し手を最初から全て再現出来るし、必ずと言っていい程これをやる。
「銀引きがいい手でしたね。捕まらなくなって誤算に気付きました」
「いや正直言ってダメだと思ったけど、この手が残っていたので……」
勝った方も得意になる事もなく反省材料を抱えながら敗者を気遣い、負けた方も悔しさを見せながらも盤上の真理に真剣に向き合う。お互いの実力を認め合っている様子が感じ取られた。
アマチュア将棋の一言で片付けて強がった僕だったが加納君が勝っても何の不思議もないと思わざるを得なかった。勝負は時の運、その運を今回は織田君が掴んだのだと思った。
ただその運を呼び込んだのは人生を将棋に賭けた織田君の思いの強さと積み重ねた努力の大きさだったと信じたい。その織田君の努力のおこぼれというかおかげで僕も助けられた……。完全な他力本願だが、まあ結果オーライだ。僕の生活も救われた。織田君、ありがとう。
「そろそろ表彰式があるから、感想戦の続きはまた後かな」
路地君がそう言うと、二人は手を止めて立ち上がった。
奨励会を退会してプロへの道を断たれた織田君だった。今は生活していく力を身に付けるために将棋から一時的に離れると言っていた。そう言った織田君は何だか寂しそうだった。
だけどカジノで将棋が採用された事によって、運営側に将棋の知識やノウハウが要求されて、また出場選手というものも必要になった。プロ棋士はこういう場では指さないだろう。選手に要求されるのは単純な強さではなく、お客の気持ちを知り選手としてのモラルを心得る事だろう。
ホールスタッフとして正しく対応出来て、時には選手の代役も出来る人材は貴重なんじゃないだろうか。僕には織田君の未来は輝いているように見えた。
これは何とも自分にとって異色の書き方だったのですが……。話の内容が定まらないまま書き始めたという……まあ何をやっているんだかという、我ながらとんでもない書き方をしてしまったんですがどうにか形になってくれたのかなと思います。
登場人物の名前は某ビリヤード漫画から取っています。




