心の声
智子は帰りの電車の中で、窓に映る白い猫と対話していた。
『まず私が誰かを教える』
誰じゃなくて、猫でしょ、彼女はそう思っていた。
『私はルビー・ハートリッジ。あなたのスマホの映像を撮った者よ』
「……」
思わず声が出そうになって手で口を押さえる。
確かに白いドレスは私の部屋にあったけど、どこに消えたのかしら。
『消えたんじゃない。私はあなたよ』
そんなわけないじゃない。声が完全に違ったわ。あの動画を見た後、何度か自分の動画を撮って、声を比べているのよ。
『あなたの体を使わせてもらっているの。こうすればわかるかしら?』
窓ガラスに写っている棚の上の白い猫が、智子の肩に乗って消えてしまう。
窓ガラスには智子ではない別の女性の姿が現れた。
服装は智子のまま、彼女の動きに合わせて、窓に映る女性も動く。
スマホとか動画実況で使う技術のように見える。
『あくまでイメージだけど、こういうこと。あの晩は完全に体を乗っ取ったから、身長も体重も全ての能力値があなたと違っていたの。声も違っていて当然よ』
体を完全に乗っ取ってない状態、つまり今はどうしているのだろう。
『今はあなたの使わないところを借りて、直接思考上で会話しているのよ』
私の中の私?
『そう言うこと。納得できたら、やってほしいことを言うわよ』
突然、何を頼んでくると言うのだ。
『夢で見てしまったと思うけど、夜空の瞳を持っている彼がアルバート・ノクター。私のハートリッジ家とは犬猿の中なのよ』
外国にも犬猿という単語があるのかしら。
『あなたの頭の中にいるのだから、あなたのボキャブラリーを借りているのよ。変なところでひっからないでくれる』
つまりは自分自身で対話しているのと変わらないということになる。
『あなたを見ていたスーツの男はそのノクター家の使用人よ。血が薄くて昼間も動けるけど、人間の能力は超えているから気をつけて』
まだつけてきているのだろうか。
『つけているわ。あなた、つまり私の住まいを知ろうとしている』
呑気に電車に乗っている場合ではないのでは?
『私のいう通り動いて。危険な場合は、一時的にあなたの体を乗っ取ることも許可してね』
許可? あの動画を撮った晩も、私が許可したのだろうか。
『あの晩、あなたは酔っていたから、許可したとか、しないとか覚えてないでしょ』
ああよく分からない。
『次の駅で降りて』
智子は言われるまま駅を降りる。
『そうね東口に出て』
スーツの男はどこにいるのか分からない。
つけられているのだろうか。
『あなたが今日、動物園へ行ったのはノクター家の誘導なのよ。私はあなたに猫の姿を見せて必死に止めようとしたのに』
智子は後ろを振り返ろうとする。
『ダメよ、警戒させてしまう。変に振り返らないで』
東口の階段を降りて行き、そのまま信号を渡ると、繁華街へと入っていく。
『酔っている人間の思考が壁のようにあ邪魔をして、追ってくるノクター家の使用人の追跡を狂わせることができる』
そもそもルビー・ハートリッジとアルバート・ノクターとは何者なのだろう。人間の能力を超える存在とは、具体的になんなのか。
『言いたくなかったんだけど』
言ってよ。
『私たちは吸血鬼の血統なの』
そんなバカな……
智子は繁華街を歩きながら、血の気が引いていくのを感じた。
吸血鬼というのは、人の血を吸って吸血鬼にするのではないのか?
どこかで私も血を吸われたということか?
智子はそんなドラマチックな展開を一つも覚えていない。
吸血鬼は処女の血が好みだと聞いたことがある。
確かにアラサーで処女だったが、吸血行為自体がかなりセクシーなものだったとしたら、そういう初体験を覚えていないと思うと、涙が出てくる。
『あのね、それって貴方達の社会の歪みが反映されたものなの。首から吸う必要もないし。単に血の呪いなのだから、吸血以外に呪いを移す方法があるのよ』
じゃあ、私は、吸血ではなかったということかしら。
『だって血を吸われた記憶ないでしょ? あ、そこの角を左に曲がって、ヤツが通り過ぎるのを待って』
智子は言われるまま、通りの角を曲がって、身を潜めた。
『地味な感じでがっかりした? 私の力を使って派手に飛び回ったりすれば、勘付かれてしまうのよ』
まさか、あの動画の騒ぎで目をつけられた?
『おそらくね。そして今日、動物園で見定められた』
どういうこと?
『私がアルバートと夢で接触してくると踏んで、あなたが持っている動物園の記憶を利用した』
そしてノクター家の使者が動物園で待ち伏せする。
『あなたの体の中に私がいるのかコウモリ達に確認させたということよ』
じゃあ、室内展示に入ったのは奴らの誘導だったということ? 先にコウモリに近づくなと言ってくれれば良かったのに。
『……そうね。動物園にコウモリがいるのを知らなかったのは私の認識不足ね。あと、動物園で私があなたに助言するわけにはいかなかった。私の気配を見せたら、奴らの目的が一つ、達成してしまうわけだし』
今はいいの? ルビーの気配を感じるのではないかしら?
『もう私がいるのは明らかなのよ。今、私の気配が感じられても何の損もない、それと、気配でピンポイントな位置がわかるわけじゃないから、心配はいらないわ』
夢を利用してくるなんて、危険だわ。
私、うまく立ち回れるか分からない。
『寝ている間は、私も注意をするから』
もしかして、あのアルバートとの夢を切ったのは貴方?
『そうね』
あの心の『ときめき』も貴方なのね。
『……何だかめちゃくちゃ恥ずかしいわね』
吸血鬼も照れるのね。なんか安心したというか。
『駅に向かって走って、今度はアパートの最寄り駅まで乗るの。私はしばらく気配を消す』
分かった。
智子は、隠れていた場所から出て、繁華街を駅の方向へ戻っていく。
ルビーの力のせいか、フラフラと歩いている通行人の思考が、ぼんやりと頭に飛び込んでくる。
これか、と彼女は思った。これが『酔った人間の思考が壁になる』という意味なのだ。
酔っていない人間とは思考の強度も、漏れ出る頻度も、全く違っている。
実際に発している言葉と、思考が混じって、まともに歩けなくなりそうだった。
完全に見たものだけを信じ、入っていくる言葉を無視する。
そうすることで、ようやくいつも通りに歩けるようになった。
ノクター家の追跡を逃れた智子は、駅につき、入線した電車に乗った。