ジム
智子は自分の机について、仕事を始めた。
仕事を始まると、いつも眠気が襲う。
一定の判断を繰り返すタイプの事務作業。
次々と通知がきて、処理しなければならない件数だけが増えていく。
判断基準に外れるものは、上席に送って、できる作業を続ければいい。
仕事を見るたびに、辞めたくなる。
彼女は常備している強いミント系のタブレットを口に含んだ。
「笹川さん」
急に後ろの席の男性社員が、話しかけてきた。
智子は派遣社員だったが、彼は正社員だった。
智子より背が高く、年齢は彼の方が若い。
椅子を回して、彼女を振り返る。
「なんでしょう?」
彼女も、椅子を回して向き合った。
「あのさ、今朝、警察官に呼び止められてたでしょ?」
智子は思い出して、顔が熱くなるのを感じた。
「黒峰さん、み、見てたんですか!」
強く、大きくなりそうな声を懸命に抑える。
「メチャクチャ慌ててたね。今もだけど」
「私っ、警察に呼び止められることなんて初めてだったんです」
「けど、落とし物を拾ってもらっただけでしょ? 慌てることないじゃない」
智子は目を大きく見開いて、彼ではなく天井の方を見つめる。
黒峰は急に智子に近づくと、耳打ちした。
「ごめん、もしかして、あの赤いハイヒールって、内緒にしたいことなの?」
一瞬で気持ちがフワフワと高揚していた。
耳にかかる息と、声の高さ、言葉のリズム…… まるで何か魔法でもかけられているかのようだった。
「あのっ!」
「変なこと言っちゃったね。ごめん、忘れて」
黒峰は顔の前で手を合わせるとウインクした。
いや、内緒というほどのことではないのだが、智子本人も、なぜ赤いハイヒールをバッグに入れていたのか全く訳がわかっていないのだ。
智子も机に向き直ると、仕事を始めようと手をマウスとキーボードに置いた。
しかし、仕事の退屈さと今受けた刺激の強さのギャップのせいで、仕事に身が入らない。
初めて黒峰を意識した時のことを思い出していた。
智子は主に任されている事務作業をしていたが、担当上司黒峰と智子を呼んで言った。
『黒峰が資料を作る間、関連する作業を手伝ってくれないか?』
智子は派遣であり、彼らの部署が具体的にやっていることは理解していたが、会社全体としてどんな役割で仕事をしているのか、そういう本質的なことは知らなかった。
いつもの簡単な判断と事務処理から離れることで、仕事に興味も湧いたが、一体自分に何が出来るのかを考え、緊張もした。
始まってみると黒峰の指示はわかりやすく、自由度があって難しかったが、眠たくなったり飽きたりすることはなかった。
共に作業をしていくうち、目を合わせることが増えたせいか、黒峰を『感じのいい人』だと思うようになっていく。
ようやく資料ができて、上席から、じゃあ会議の人数分コピーしてきて、というところでそれは起きた。
コピー機のソーター(※複数ページの資料を部数分だけ整えて出力してくれる機能)が壊れて業者を呼んでいるところだったのだ。
今考えれば、別のフロアのコピー機に回るとか、別の手段があった気がする。
だが、その時、その場の判断では、単純にコピーを取ってから、手で資料を整えることになった。
『痛っ』
紙を一部ずつ整えているところで、智子がコピー紙で指を切ってしまった。作業用の指サックをしていれば防げることだった。
ただ、こんなことはよくあることで、どうということはない。
『あっ、大丈夫!?』
黒峰が近づいてきて智子の手を取った。
いや、痛いことは痛いけどよくある話だし。智子はそう思っていた。
指から血がじわっと浮き出てくるところを、彼は上着の内ポケットから白いガーゼ状のハンカチを取り出した。
『あの』
『大丈夫、これは清潔なものだから』
いやそこを気にしているのではない、白いものに真っ赤な染ができてしまう方を気にしているのだ。
だが彼はその白いハンカチで、丁寧に血を拭った。
『もうほぼほぼ終わったから、笹川さんは席に戻って待機してて。僕も、会議に出るわけじゃないから、渡してきたらすぐ戻ってくるよ』
そして絆創膏を丁寧に指に貼ってくれる。
智子は思った。この人なら、私を大切にしてくれるのではないか。
思い出し終えて、智子はハッと気づいた。
今日は今日の作業があるから、しっかり働かないと……
だが、気持ちは乗らない。ただ漫然とマウスを動かし、なんとなくデータを確認しているうちに時間が過ぎていく。
午前中の業務は、そんな感じで終わってしまった。
お昼になると、智子はいつものように、友達である同じフロアの同じ派遣の女性と、お昼ご飯を食べに外にでた。
二人は、いつものようにランチを注文すると並んで席に座った。
智子は隣に座った彼女から肘で突かれた。
「智子。ねぇ、今朝ジムと話してたじゃない?」
ジムは二人の間で、黒峰を話題にする時のあだ名だった。
本来『ジム』は、とある芸能事務所の名前であるが、黒峰がジム出身の男性タレントに似ていることからそう呼んでいたのだ。
「何話してたのよ」
「ちょっとね……」
赤いヒールについては、説明できないことをたくさん話さねばならない。
「耳打ちされて、昇天しそうだった」
智子は繰り返し考えていたことを、また思い出してしまった。
「佳代、ちょっと。こんなところで、そんな事言わないでよ」
「ねぇ、教えて。何を言われたの?」
「ごめん、それは……」
持っているはずもない、赤いハイヒールがバッグに入っていたこと、もしかしたら警察に捕まるかもしれないと考えている、などと言ったら、頭がおかしくなったと思われてしまう。
「……まあいいわ。けどジムと進展があった時は本当に教えてよ?」
「彼、どう考えてもアラサーの派遣女なんて相手にしてないと思うけど」
「そうかな? ワンチャンあると思うけどな」
智子の頭には、黒峰とよく話している正社員の女性の顔が浮かんでいた。
「だって、ほら」
髪を払うような仕草をしてみせる。
その仕草は、黒峰と話している女性社員の真似だ。
「川島さんのこと?」
智子は頷き、それから胸が大きいことを手で示す。
「セクシーダイナマイトだし」
「あれは実際のサイズっていうか、見せ方の問題でしょ? オフィスであの服のチョイスって、やり過ぎだと思うよ。ジムだって、時々引いてる感じあるし」
「……」
そうなのかなぁ、と智子は思った。
ダメ元でも『ワンチャンある』と思えば会社に来るのも少しは前向きになれるかも。
目の前に出てきたランチを口に運びながら、智子はそう考えた。