血の記憶
智子が新しい派遣先に慣れてきた頃だった。
派遣先の上司が言った。
『君、黒峰が資料を作る間、関連する作業を手伝ってくれないか?』
単調な事務作業に飽きていたというのは言い過ぎだったが、面白味を失っていた時だった。
智子は、苦労もあったが、資料を作る作業に興味を持って取り掛かり始めた。
黒峰と共に作業をしていくうち、目を合わせることが増えたせいか、彼女は黒峰を『感じのいい人』だと思うようになっていく。
ようやく資料ができて、上席から、じゃあ会議の人数分コピーしてきて、という時だった。
『ソーターが壊れた』
コピーして人手で仕分けして資料を作らねばならなくなった。
別のフロアのコピー機を借りるとか、そういうことは考えていなかった。
会議には紙の資料が必要ということも少し遅れている気がしたが、派遣の智子はそんなことを言えるわけもない。
とにかく黒峰と懸命に紙を並べて資料を作っていた。
『痛っ!』
智子は紙を揃える際、指を切ってしまったのだ。
『あっ、大丈夫!?』
黒峰が近づいてきて智子の手を取った。
こんなことを大袈裟に扱う、黒峰の方に驚いていた。
指から血がじわっと浮き出てくるところを、彼は上着の内ポケットから白いガーゼ状のハンカチを取り出し、当てた。
『あの』
『大丈夫、これは清潔なものだから』
清潔かどうかではない。白いものに真っ赤な染ができてしまう方を気にしているのだ。
だが彼はその白いハンカチで、丁寧に血を拭った。
この時、彼は私の血を採取していたのだ。
別の日のことだった。
昼、智子が食事から帰ってきた時、エレベーターのかごの中で、黒峰と会った。
『あれ? 今日は一人?』
その日は佳代が有給休暇をとって休んでいる日だった。
『ええ、佳代は今日有休使ってW県の動物園行ってます。今日は黒峰さん、外で食事ですか?』
黒峰はほとんどの場合、自席で食事をしているようだった。
だからこの時間帯にエレベーター内で会うことは、ほぼないはずだった。
『ああ、今日はたまたま外でね。笹川さんは一緒にその動物園行くとかにはならなかったの?』
『佳代はパンダを見に行ったみたいで。私、パンダにあまり興味なくて』
『そう…… じゃさ、動物園行ったら何を見るの?』
エレベーターが目的のフロアについて、二人は並んで廊下を歩いていく。
『フラミンゴかなぁ』
『フラミンゴなんだ。印象に残っていることでもあるの?』
『ええ。大学の頃……』
この時だ、彼に『フラミンゴの庭』について話したのだ。
黒峰は計画してルビーとアルバートを、それぞれ智子と彼自身に憑依させるつもりだった。そんな気がする。
理由はわからない。
ただ仲良くなりたいのなら、言葉をかけてくれればよかったのに…… 智子はそう思った。私はいつでもそれに応えるつもりだった。
おそらく黒峰はネットの情報を見て、ルビーとアルバートが血を欲していることを知った。そしてクリムゾン・ヴェインのオーナー、ドリュー・ナイトスカイが集めている血に応募した。
一つは白いハンカチを智子になり代わって送り、もう一つは自分自身のものを送ったのだ。
しかし、ネットの様子を見ていて、ドリューが二人に送った血が、智子と黒崎という、黒峰ではない別の男になったことを知った。
吸血鬼が憑依することを期待していた黒峰は、アルバートが黒崎に憑依することを阻止しようと考えた。
考えた末、クリムゾン・ヴェインに侵入し、黒崎の情報を盗み、殺した。
灰になった体に、吸血鬼は憑依できない。
聖水を飲み死に至ったアルバートは、憑依する対象も失って、生と死の狭間を彷徨う。
一方で智子にはルビーが憑依してしまった。
極東の地で体を得た悦びに、ルビーはビルの屋上へと飛び移る。
ビルの屋上、手すりの上に立っている女性を発見した通行人は、警察に通報する。
瞬く間にビルの下に、大勢の見物人が集まってくる。
全ての光景が消え、真っ黒な空間に白い猫が、ゆっくりと降りてくる。
『何よ』
その白い猫は言う。
『確かに、ネットの履歴を見てみると、アルバートが依頼した血は黒峰。ドリューが送ってきたのは黒崎だった。見かけも年齢も、何もかも、似ても似つかない人物だった。似ているのは漢字だけ。極東の生まれではないドリューが見間違えるのは無理もない』
猫は尻尾をピンと伸ばし、背中をそらすように伸びをした。
『智子、あなた、なぜ怒っているの?』
『目的の為に、無関係の人間を殺したことに怒っているに決まっているでしょう』
『殺した理由も聞いてないのに?』
猫は自らの尻尾を追いかけるように、その場を一周した。
『理由がなんであれ、許せない』
『吸血鬼からすれば、人を一人殺したくらいで何を言っているの、という感覚だけれど?』
ルビーと過ごしてきて、智子にもその感覚はわかっていた。
彼女たち吸血鬼は強い闘争本能が常に働いていて、破壊衝動や備わっている殺傷能力を発揮したいという気持ちが存在する。
彼らにとって、人を殺すのはゲームにも近い感覚であり、猫がさらに小さい虫や小動物を遊ぶように殺すのと同じなのだ。
その気持ちを知ってはいるが、人間である智子がそれを理解したわけではない。
黒峰が『黒崎』を殺したのが本当のことだとしたら、理由がどうあれ、黒峰に対して抱いた全ての恋心は無に、いや、それ以下になるだろう。
蛙化現象どころの騒ぎではない。
『殺し』をしたものは罪人だ。
罪人は見合った罰を受けるべきだ。
そして罪人は、智子にとって恋愛の対象外なのだ。
智子の純粋な気持ちだった。
『そう。智子のそれは吸血鬼でいうところの『血がもつ掟』のようなものね』
血の掟。
違う、血の記憶とでも言うものだ。
両親によく言われた。
『智子は正義感が強い』
幼いときは、皆そうなのだと思っていたが、話を聞くと、全員が全員そう振る舞うわけではないらしい。
小さい頃に植え付けられた正義感。
勧善懲悪のドラマに影響を受けた何か。
それらの積み重ねだ。
通勤電車でどうしても許せなくなってしまうのも、正義感から生まれるものなのかもしれない。
頬を涙がつたった。
これは黒峰のために……
黒峰に裏切られたから?
小さな恋が終わった悲しみの涙だろうか。
智子は目を開くと、狭い部屋の天井が見えた。
こんなに暗いのに、吸血鬼の力で部屋の様子がはっきり目に見える。
涙で濡れた枕が気持ち悪い。
「私、バカみたい……」




