クリムゾン・ヴェイン
智子はずっと会社を休んでいた。
今日は黒峰の面会をするわけでもなく、会社にすら連絡をしていない。
そもそも吸血鬼になってしまった時点で、今の会社を続けることは出来ない。働く場所を変えても、おそらくまともに務めることはないだろう。智子は半ば、諦めていた。
まともな社会生活が送れなくなるが、通勤電車に乗る必要もなくなるわけで、悪事ばかりでもない。それだけでも気が楽になった。
今日はルビーの執事、つまりハートリッジ家の極東担当執事である壁谷からアプリで連絡が入って、ある場所で会うことになっていた。
『アルバート様が最初に憑依する予定だった男の名は、黒崎健太といいます』
それを読んで、智子は『黒峰健斗の打ち間違えだと思った。
智子は思ったまま返した。
『いえ、打ち間違えではありません。お二人は非常に似た名前です。黒峰様がいらっしゃる場所で、そのことは判明しておりましたが、言い出しづらく』
黒峰がアルバートの件に関わっているとでも言いたげだ。
『この件で、ルビー様のお力を借りしたいのです』
壁谷はアプリで位置情報をメッセージを送ってきていた。
その場所に来てほしい、ということのようだ。
移動のため智子は電車に乗った。
智子が座っている正面のガラス窓に白い猫が映る。
『今日、対峙する相手は吸血鬼よ。殺す気持ちがないとこっちが殺られる』
「……」
吸血鬼は誰も殺さずに生きることは出来ないのだろうか。
力づくで情報を奪うのではなく、もっと紳士的にことを済ませることができれば……
『そんな話を、ここで議論するつもりはないわ。その時が来たら体を借りるから』
そう言うと白い猫は壁を駆け上るようにして、電車の屋根側へ消えていった。
電車が目的の駅に着くと、智子は地図を出口を確認する。
駅から地上に出ると、そこに壁谷が待っていた。
「まだこの状態でいいわよね?」
智子はそう言った。
「ええ、目的地は地下ですから、そこに行ってからで間に合います」
「行きましょう」
「一つ、伝えておきたいことがあります。今日、私は黒峰様の面会に行ったのですが……」
確か、黒峰は前田が提案する手術の件で相談したいと言っていた。
ルビーが言うには、その話の内容なら執事である壁谷のだけでいいだろうということだった。
「黒峰様は、どうやら警察に探られているようです」
「どういうこと!?」
智子はつい大きな声を出し、周囲の人の視線を集めてしまった。
「どういうこと?」
「私の推測ですが…… いえ、やめておきましょう。まだ『推測』でしかありませんから」
すごく嫌なことしか思いつかない。
智子は考えないようにして、ただひたすらその白衣の男の後を追うことに専念した。
しばらくすると『クリムゾン・ヴェイン』と言う看板が、端に置かれている場所についた。
「智子様、ルビー様と入れ替わる準備を」
「まだ地下には入ってないけど」
「吸血鬼の気配が、複数あります。こちらの行動がバレたのか、あるいは……」
ルビーが急に意識を取り戻し、考えに混じってくる。
『早くその階段に入って。入れ替わるわよ』
壁谷が飛ぶと、地下に降りる階段の踊り場に着地した。
靴底が、大きな音を響かせた。
智子も急いで階段を駆け降りる。
駆け下りながら、智子の姿は『ルビー』へと変わっていく。
壁谷に追いつくときには、完全にルビーの姿に変わっていた。
「扉が開いている」
扉を閉めているデッドボルトも、ラッチボルトも鋭い刃物で断ち切られている。
「人がこんな扉の開け方はしない」
ルビーにも智子にも、それがどう言う意味かはわからなかったが、通常はバールを差し込んでデッドボルトの受け側を変形させるように『こじ開ける』ものらしい。
「慎重に、急ぎます」
ルビーの力で、智子にもこのバーに複数の吸血鬼、あるいは吸血鬼に近い存在が複数いることがわかる。
入り口付近には『ゴルフバッグ』が置いてあった。
「!」
これはあのバンパイア・ハンターが持っていた物に違いない。
吸血鬼バレしてハンターに狙われてしまったのだ。
智子は店内の状況を把握しつつ、奥へと移動する。
カウンター後ろの酒棚が開いて隠し部屋が見えている。
「出てこい!」
壁谷が呼びかける。
酒棚の開いた隙間から、影が動いて見えた。
不意に突っ込めば例の聖杯の銀を先端に施した銛を打ち込まれてしまう。
完全な吸血鬼なら、体を霧にして中に侵入してしまえば、簡単に圧倒できるのだが、智子と一緒にいるルビーにはそれが出来なかった。
壁谷は呼びかける。
「ドリュー。ドリュー・ナイトスカイ」
答えはない。
「生きていたら答えてくれ」
「血の気配はある。まだ殺されては……」
いきなり、酒瓶が床に叩きつけられると、アルコールが飛び散る。
カウンターから手が出て、また別の酒瓶が投げられ、床で割れた。
今度は天井で別の酒瓶が割れると、強いアルコールの臭いが部屋中に広がった。
どうやら酒ならなんでも良いわけではなく、濃度の高いものを選んでいるようだ。
「ルビー様、下がって!」
フリントの上を滑る金属のヤスリの音。
飛び散る火花と着火した紙が燃え上がる。
燃えた紙が落ちると、床に広がった高い純度のアルコールに引火する。
燃え上がる炎を見つめるルビー。
「そこのバンパイア・ハンター。このままでは貴様も逃げ場はないぞ。それとも、自らも死ぬ気なのか?」
そんなわけはあるまい。
この炎の中を脱出する手段を考えているに違いない。
それとも、この煙に反応して動作する装置を……
ルビーの頭にスプリンクラーが思い浮かんだ。
吸血鬼は流水が苦手とされるが、実際、そこに水が流れていたからといって、どうと言うことはない。
大蒜も同じだ。全く問題にならないものや、どうしても克服出来ないものに二分される。
聖水や聖杯などがそれだ。
単純な銀が問題になることはない。
キリスト教の儀式で用いられた、という事実が問題になるのだ。
高位の僧が用いた『錫杖』であっても、吸血鬼に対しては同じ効果を発揮する。
彼ら吸血鬼は邪悪なものであり、宗教を根幹とする強い意志を持った者が、最も存在を異にするものであり、受け入れ難いものなのだ。
部屋全体に火がうつり、まもなく火災報知器が鳴り始める。
同時にスプリンクラーも動作を始め、部屋中に音と水が撒き散らされた。
あっというまに火は消し止められた。
壁谷が扉を指さす。
「ルビーお嬢様、逃げてください。人が来ます。それが奴の狙いです」
カウンターで固定電話が鳴る。
ルビーはカウンターを飛び越え、固定電話の受話器を取って言う。
「今のは誤報よ。酔った客が天井近くでライターを使ったの」
カウンターの内側で、ダンピールとルビーは向き合った。
「!」
ダンピールは持っていた銛を突いてきた。
銀の銛をかわしながら、フックスイッチで通話を切る。
銛を突いたのは、ルビーを殺そうとしたものではない。
逃げるきっかけを作るためだった。
ダンピールは銛を握ったままカウンターを飛び越える。
素早く構えて壁谷との距離を取る。
二人とも、スプリンクラーからの放水を浴びて、髪が目にかかってしまい顔を拭った。
「俺に構っている時間はないぞ」
「!」
ルビーは慌てて酒棚の隙間に飛び込んで行く。
それを見て壁谷も意味を理解した。
「なぜ殺した」
「バンパイア・ハンターにその質問はヤボだぜ」
ジリジリと間を詰める壁谷を回りつつ出口を目指すダンピール。
「では質問を変えよう。誰に依頼された?」
「同じことだ」
一方、ルビーはバーの中で、消えかけの吸血鬼を見つけた。
由緒だだしい棺に横たわって休息をとっていたところを襲われたようだった。
「まだ死なないで! ドリュー・ナイトスカイ」
「アンタがルビー・ハートリッジだね」
「ねぇ、教えて。黒崎の情報を盗んだ者は誰?」
「見間違えたんだ……」
か細く、小さい声。
ルビーは彼に顔を近づけた。
「何を?」
「アルバートに渡す血」
「血? どう言うこと!?」
ドリュー・ナイトスカイの体が消える。全身が粒子のように分解され、浮き上がる泡のように消えていく。
もう、その口が動くことはなかった。
「そんな……」
ルビーは空っぽになった棺に背中を預け、その小部屋の天井を見つめた。
彼に聞いた話だけでは、何も分からなかった。
なぜ、彼が今殺されねばならないのか。
口止めをする必要があったからではないのか。
だとしたら、誰?
真実を知られると困る者は誰?
考え続けても答えは出ない。
「お嬢様。申し訳ございません」
壁谷が酒棚の隙間から言う。
彼は体が大きすぎて入ってこれないようだ。
「逃げられてしまいました」
「しかたないわ」
「その吸血鬼は何か言い残したことはないですか?」
ルビーは呆然としたまま、言った。
「見間違えた。アルバートに送る血。とだけ」
「……」
壁谷は何か考えてから言った。
「やはり…… こう考えるしか」
ボソボソと話し続ける壁谷を話を聞きながら、ルビーは次第に智子の姿へ変わって言った。
「間違いないわ」
立ち上がった智子は言った。
「絶対、許せない」




