ハートリッジの執事
智子は夜明け前、家に戻ってきた。
扉を開けようとして鍵を取り出す指が震えている。
ようやく鍵穴に鍵が入り、部屋に入った。
智子はそのままベッドに飛び込むように入り、布団を抱きしめていた。
思い出すのはちょっと前にあった、ファミレスでの出来事だった。
『じゃ、いいかな』
近づいてくる黒峰の顔。
血を吸われるのだとばかり、思っていた智子は、そのまま唇を奪われた。
そこからどこにキスされて、何をされたのか、全くわからないほど混乱状態になっていた。
一つ言えることは、決してファミレスでやってはいけないようなことをしたということだ。
男性とこんな深い関係に置いたことはなかった。
私が、今更、彼と男女の関係になるとは予想外だったのだ。
家に帰っているのにも関わらず、指が震えるのは、それらが全て初めての出来事だったからだ。
「けど……」
彼は半ば『アルバート』でもある。
そして、私は『ルビー』を内包している。
ルビーとアルバートの関係を、ただ私と黒峰くんの体に置き換えただけの出来事だったとしたら…… つまり黒峰くんは『智子』として抱いたのではなく、『ルビー』として抱いたとしたのかもしれない。
ルビーが覚醒したら、ルビーとアルバートの関係では普通のことを、私と黒峰くんを使ってやらないで欲しい、と主張しよう。
閉じているはずの目の中に、白い猫の姿が飛び込んでくる。
『違うわよ』
「違うって何が?」
『アルバートではないわ。確かに体を再生させていたみたいだけど』
じゃあ、あの大胆な行動は黒峰くんの意思だということ? けど、吸血鬼でマシマシになった無敵感がベースにあったとしか思えないような大胆な行動だった。
『それは一理あるわね』
やっぱり、と智子は思った。
彼の心に吸血鬼の影響が強く現れてしまい、ファミレスでは絶対にしないような大胆な行動に走らせていたのだろう。そうでないと、あそこであんなことをした彼の常識を疑ってしまう。
ふと、智子は冷静になる。
「えっと、私も吸血鬼の影響を受けていたわよね?」
そうでないと、彼の行為を許してしまった私だけが非常識な人間のように思えてしまう。
白い猫は笑ったように見えた。
『そうね。私も楽しませてもらったから、そうだったんじゃない』
見られていた、どう感じているか、ルビーに知られてしまった、と考えると、余計に顔が熱くなってきた。
「忘れてよ」
『逆に私とアルバートがいたす時に呼んであげる、というのはどう?』
「とにかく忘れて。二度とこの話をしないで」
白い猫はプイとそっぽを向いて、跳ねるようにして駆け出していってしまった。
智子は、その後も悶々としながらも、しばらくすると疲れのせいか寝てしまった。
再び目が覚めた時には、昼が過ぎていた。
服は皺だらけで、化粧も乱れていたため、服を洗濯機に入れ、智子はシャワーを浴びた。
自分の体を確かめるように触りながら、記憶の中で黒峰とのことを思い返す。
体を洗い切ると、気持ちを切り替えた。
「とにかくやることをやらないと……」
着替えると部屋の片付けと掃除、衣類の洗濯を終えると、陽が沈みかけていた。
朝も昼も抜いていたので、食事は作るのではなく、外で食べることにした。
駅近くのレストランに入ると、白い猫が目の前に現れた。
もう、本物と幻影猫と区別がつくようになっていた。
智子が案内された席に、素早く回り込み、机の上に座っていた。
「なんの用?」
店員や、周りの客に聞こえないように話す。
『食事は楽しいから』
智子は首を傾げた。
「吸血鬼が血を吸うのと同じじゃないの?」
猫は真顔で否定する。
『全く違うわ。吸血行為はいわば呼吸よ。やらなきゃどうにもならないからしていること。いい? 血って基本的に同じフレーバーなのよ』
「けど、黒峰くんはあんなに嬉しそうに」
白い猫が人間のように口に手を当てて、クスクスと笑った。
『好きな人と結ばれることが嫌な人はいないでしょう』
「さっき、みんな同じフレーバーだって」
『彼に取っては初めてのフレーバーなのよ』
猫は笑い転げた。
『智子、あなた顔が真っ赤よ、店員に誤解されるわ』
彼女は慌ててメニューを立てて持ち、顔を隠すようにした。
「やめてよ揶揄うの」
『ちょっと待って。来たわ』
白い猫は、テーブルを降りて店の外へ出ていってしまう。
だが、すぐ一匹で帰ってきた。
『一緒に食事させて』
「えっ、なんの話?」
ルビーは私の体の中にいる。一緒に食事させてと言われても意味がわからない。
『今から入ってくる客は、ハートリッジ家の執事よ。智子はこの席で一緒に食事をして欲しいの』
その言葉で、動物園からずっとつけ回されたノクター家の執事のことを思い出した。
スリーピースのスーツをきっちり着こなしていた『執事だ』と言われれば納得してしまうような人物だった。
「ハートリッジだから、ルビーの知り合いなのよね?」
『昨日のアルバートのことで、お金を工面してもらう必要があるの』
「お金…… ねぇ……」
吸血鬼の話なのに、やけに現実的で智子はガックリした。
話の詳細を、二人は相互に伝え合う。
店の扉が開く音がすると同時に、客が騒ぎ始めた。
智子は扉を振り返った。
「!」
それを見た瞬間、智子すぐに立ち上がっていた。
扉のところに立っていたのは、屈むように背を丸めた大きな男だった。
本物の相撲取りを見たことはなかったが、二人分を足して丸めたように見える。
顔は顎からもみあげまで髭を蓄えていて、まん丸いサングラスを掛けていた。
服は真っ青なTシャツとさらにベージュのチノパンで、上に白衣を羽織っていた。
白衣は清潔なものではなく、あちこちに茶色い染みが出来ていて、着続けている感じが顕になっていた。
こいつは執事ではないだろう。智子の直感がそう言っていた。
下手すればルビーに敵対するダンピールかも知れない。
答えを求めて白い猫に視線を移す。
テーブル上の猫が視線を外して俯いた。
『あれがハートリッジの執事よ』
「えっ?」
猫は視線を逸らしたまま、慌てて捲し立てる。
『あっ、ほら、誤解しないで。極東担当の執事の一人というだけだから。ハートリッジの家も沢山あるから、こんなのばっかりじゃないんだから』
「とりあえず、あの人と一緒に話す必要があるのね?」
白い猫は頷いた。
入ってきたところで注目を集めていた白衣の男は、脇目も降らずに智子の元にやってきた。
必然的に智子が視線を集めることになってしまった。
身長差が大きすぎ、猫背になっている男を智子は見上げる形になる。
ぶつかるかと思うほど近づいた後、いきなり男が膝をついて頭を下げた。
「お嬢様、お困りごとについて、ご相談とのことですが」
「しょ、食事をしながら話をしましょう」
智子が先に座り、執事が座った。
「えっと」
「失礼ですが、ルビーお嬢様はどちらへ?」
ここで変身するわけにはいかない。
「私が代理で説明します」
「承知いたしました」
彼は机の上で深く頭を下げる。
「名前を教えてください。呼びずらいわ」
執事という言い方をすると、視線を集めてしまうだろう。
現段階でも聞き耳を立てられているに違いない。
「壁谷仁左衛門と申します」
仁左衛門と呼ぶのは大袈裟すぎる。壁谷にしよう、と智子は思った。
「壁谷、私はある人に多大な協力をいただいて、謝礼を払わねばならないのです」
「それがフィオン・マックムールですか」
智子は頷いた。
その時、智子のスマホが振動した。
送信者は前田歴彦、つまりフィオン・マックムールだった。
壁谷に待って欲しいと合図すると、智子は前田からのメッセージを開いた。
時間はもう夜になっていた。
智子はメッセージを読み始める。
どうやら黒峰のことらしい。
「そうだ検査をするって……」
前田曰く『予想通りの結果』だという。
やはり聖杯ーーダンピールの投げた銛の先端に使った銀のことだーーが体に残っていたのだ。そもそも体に異物が残っているだけで、場所によっては致命傷であり無事に生きているのが奇跡的だ。
吸血鬼の弱点と言われる『聖杯』の銀である点が、問題をややこしくしている。吸血鬼が触れることができる異物なら、なんの問題もなくその場で取り出せたに違いない。触れ吸血鬼の血肉は『聖杯』の銀であるため、その場で焼けてしまう。
手術が必要となるが、執刀するものがいない。
奇跡的に生きているのなら、心臓付近を開いて異物を取り除く手術をする方がリスクだと考えるからだ。
この外科手術を敢えて執刀するとしたら、彼が『吸血鬼』だということ理解している者となる。
白い猫は、イライラしたように机をまわっている。
『なぜこうなるの? 何故アルバートは何一つ上手くいかないの? 普段、カッとならないアルバートが吸血鬼殺しをしてしまったとこだって信じられないのに、最初の憑依も失敗して、ようやく人の体に取り憑いたと思ったら体の奥に『聖杯』の銀が残っているなんて』
ルビーの声は壁谷にも聞こえているようだった。
「お嬢様、落ち着いてください。彼は、自分が『執刀』すると言っているのでは?」
『アルバートをあの体に憑依させるだけでも高額な金を要求してきたのよ、あの男に一生むしり取られるわ』
智子は思った。
今、吸血鬼と人の均衡が保たれて生きていられるなら、この状態を続ければいい。
私とルビーはそういう利害関係もなく同居を続けているのだから、出来なくないのではないか。
『智子、あなたが考えていることは、少し違う。精神は別として体が変身できないということは、黒峰はアルバートではないということなの』
「よくわからない」
『アルバートが体を支配できないということは、吸血鬼の力を維持できない。つまり、生と死の狭間をうろうろしていた時と、なんら変わらないということ』
やがて死んでしまうということだ。
私たちは夜に入れ替わることができる。どういうことかはわからないが、完全に吸血鬼の体になることで得られる何かがあるということだ。
壁谷のサングラスに、室内灯の光が反射して光った。
「簡単な解決方法はあります」
白い猫は壁谷の方を向いた。
『だめよ』
「手術などによらず、ルビー様が『手で取り出せばいい』のです」
智子は思った。
「つまり、どういうこと?」
「人間の男を殺してしまえばいいのです。人間の意識も死にますが、アルバート様はその死をきっかけとして肉体を奪うことができます」
智子は叫けびそうになるのを必死に堪えた。
吸血鬼たちは、そもそも人間ではない。『死んでいる』体を動かしているのだ。
彼らは日中棺の中で眠っているイメージがある。イメージ通り、彼らは屍人だ。死んだ肉体に取り憑いて生きている。
彼らに人の常識が通用するわけもない。
「そんなことはさせません」
黒峰くんは私が守らないと。
「……ルビー様でなくとも実行は可能ですよ」
「だから! そんなことさせないって言ってる!」
智子は激昂し立ち上がった。
店員が近づいてくる。
「このまま騒がれるようでしたら、他のお客様のご迷惑になりますので、御退店いただきますでしょうか」
智子は興奮したまま、店を出ていく。
白い猫は、壁谷に向かって言う。
『アルバートの件について調べてもらえないか。これだけ問題が重なるのは偶然ではないように思える』
「わかりました。ルビー様」
白い猫は智子を追うようにして飛び上がると、消え去った。




