重い日
布団の中に入っている、その自分の体に違和感がある。
一つは、下着をつけていないことだった。
普段は部屋着を着て寝るため、なぜ裸で寝たのか不思議に思っていた。
もう一つは、強い疲労と、激しい筋肉痛があることだった。
体の痛みで、起きるのにいつもより余計に時間がかかった。
「いたた……」
裸で寝たのは酔った勢いとかが考えられるが、疲労と筋肉痛については、思い返すが要因が全くない。
慌てて、血が漏れていないかベッドを確認する。
まるで突然、一番重い日が来たような感じなのだ。
酷い頭痛もあり、頭を振ると、部屋の床に見知らぬ白いドレスが脱ぎ捨ててあるのに気づく。
「?」
申し訳程度のキッチンと、ベッドがほとんどを占めるリビングから構成される、シンプルな部屋にその白いドレスは豪華すぎて異質だった。
そもそも、智子はそんなドレスを持っていないハズなのだ。
よろよろと立ち上がると、ドレスをラックに吊るし、頭痛薬を探した。
薬を持ってキッチンで水を汲むと、二錠まとめて口に入れ飲み干した。
さらに水を足して、もう一杯を飲み干す。
小さなテーブルに残されたお酒の缶はいつもと一緒で、一つしかない。
こんなに強い渇きがくるほど飲んでいないはずなのに…… 智子は首を傾げた。
ただ一つだけ覚えていることがある。
昨日、家に戻ってきた時、部屋に白い猫がいたのだ。
ここは小さなアパートで、設備も整っていない。当然ペットも禁止だ。
窓も扉も閉まっていて、野良猫が入り込む隙間はない。
手を伸ばすと、その猫は部屋を走り回り、そして消えてしまった。
『幻覚? 疲れているんだわ』
智子は酔って忘れようとした。だから、いつもより飲むペースは早かったかもしれない。
だとしてもドレスの理由にはならないし、筋肉痛の理由にもならない。
すると、ベッドでスマホのアラームが鳴る。
アラームがなる前に目が覚めていたのだ、と思うと少し悔しくなった。
スマホを手に取り、アラームを止める。
智子はなぜか気にかかっていて、そのままスマホの写真を開いた。
「!」
撮った記憶のない動画がある。
タップして再生する。
高いビルから、繁華街の通りを映している。
下には見上げている人々がいて、映像を進めると突然声を上げた。
知らない女性の声が、近くから聞こえてくる。
「バカな男たち。ああいうのが、電車で隣に座った女の胸に肘を当てたり、足を広げて、太ももを擦ったり、痴漢まがいのことするのよね」
知らない女性の声?
映像に撮影している者の足元が映る。どうやら撮影者はビルの屋上、細い金属の手すりの上を、赤いハイヒールで歩いている。
「……こんな映像、撮ったの誰?」
普通に考えれば自分で撮ったことになるが、そんな記憶はない。
スマホを誰かに渡して撮ってもらった? 送られてきた動画を保存した? どういう手段で記録されたにせよ、この映像に関しての記憶が一切ないのだ。
スマホが再びアラーム音を鳴らす。
智子は自らの頬を叩いた。
「とにかく会社よ」
歯を磨き、ファンデーション、コンシーラー、グロスをつけて、マスクをつける。
オフィスカジュアルに着替え、薄手のコートを羽織る。
ラックの中で、異彩を放つ白いドレス。
智子は思う。
どう考えても買ってないし、こんなの着る機会がない。
……動画の中で映っていた裾は、このドレスだった。
考えている時間はない。
アパートを出て、駅に急ぐ。
駅に着くとホームを移動して、いつもの列に並ぶ。
互いに名前も知らないが、毎日この時間の同じ電車に乗ってくる乗客たち。
変わり映えのない通勤風景。
繰り返される退屈な光景に、嫌気と安らぎを同時に感じていた。
いつもなら、ショート動画を見続けるのだが、今日の智子は、自らのスマホに残された動画を繰り返し見て過ごした。
いくら見ても記憶は蘇ってこない。
目的の駅で降り、会社へ行く道を歩きながら、ふと道の先に交番があるのに気づく。
本当に普段、何も意識することがない交番だ。だが、今日はそこにいる警察官が、自分を見ているような気がしてしまう。
スマホにあった動画の中で、女性が警察官の頭を蹴っている場面があった。
それって『公務執行妨害』で十分犯罪なのではないか。
全く記憶がないため、智子は『自分がやった』とは思っていなかったが、加担したとか、何かそういったことで目をつけられていたらどうしよう、そんな漠然とした不安な気持ちを抱いた。
一方的に意識したまま、歩き続ける。
そして何事もなく交番の前を通り過ぎた…… はずだった。
智子は後ろから声をかけられた。
「は、はいっ!」
彼女はそう答えると、緊張からか背筋が伸びてしまった。
ゆっくりと振り返ると、そこには制服の警官が立っていた。
「これ、落されましたよ」
警官の手には赤いハイヒールが握られている。
「あ、あの、私はやってません」
違う、私の靴ではありません、と言うべきだ。
警官は微笑んでいる。
「落とされるのを見たので間違いないかと」
警官の手の先、目線の方向に気付き、自分のバッグを見る。
智子のトートバッグから、もう片方の赤いハイヒールが飛び出していた。
「……あ、ありがとうございます」