32. 神は見ている
「ステファニー!!」
私を呼び止めるマルセル様の声が後ろから聞こえてくるけれど、立ち止まる気は毛頭なかった。
あの男……!イレーヌをズタズタに傷付けて、私たちの……人の人生を好き放題弄んで、それを少しも気に留めることもなく、自分はさっさと次の女性に入れ込んで楽しんでいる。
何も言わずにこのまま見過ごしたりできない……!
沸騰する頭にはあの男への怒りしかなかった。巻き戻った人生をやり直したところで何も変わらない、身勝手な男。思い通りにならないもどかしさ。
私は廊下を進み、駆け上がるようにして階段を上り、あの奥の部屋を目指した。マルセル様の声は後ろからずっと聞こえてくる。
そしてその部屋の前まで来た時、私は中の様子を窺うこともなくドアを思いきり開け放った。
「っ!……は?なんだ、お前か。ステファニー・カニンガム」
「なに?やあだぁ」
(……っ!やっぱり……!)
学舎の最上階、最奥の講義室。そこにラフィム殿下はいた。隣ではだけたスカートの裾を伸ばしているのは、やはりタニヤ・アルドリッジ伯爵令嬢だった。
白けた目を私に向ける殿下の顔を見た途端、座り込んで泣き叫ぶイレーヌの姿が重なるように頭に浮かび、抑えきれぬ怒りをぶつけるべく私は殿下に足早に近付いた。
せめて一度でも、この男の顔をぶってやる……!
「……っ、」
私の剣幕に明らかに怯むラフィム殿下に接近した、その時。
「ステファニー!!待つんだ!!」
「っ?!」
後ろからマルセル様に羽交い締めにされるような格好で抱きしめられる。
「っ!は……離して……!離してください!!」
「ダメだよ、ステファニー。落ち着くんだ」
「いや……っ!」
力で敵うはずもなく、身動きが取れなくなる。そんな私の様子を見てホッとしたのか、殿下はニヤニヤ笑いながら言う。
「なんだ……乱暴な公爵令嬢もいたものだな。気品の欠片もない。またこの俺に暴力を振るうつもりだったのか?ランチェスター公爵令息、妻をしっかり躾けておけよ。俺に相手にされなくなったからといって激昂されたんじゃたまったものじゃないぞ」
(──────っ!!)
怒りのあまり本当に発狂しそうだ。この男……マルセル様の前で何てことを言うの……?!
「あ……あんた……!」
「申し訳ございません、ラフィム殿下。以後このようなことのないよう、しっかりと言って聞かせますので」
「っ?!マルセル様……っ?!」
何故?マルセル様……!こんな男に謝ってほしくなんかない。抗議の声を上げる私にマルセル様は小声でそっと囁く。
「……いいから」
チラリとこちらを見るマルセル様の目はあくまで穏やかだ。
「分かったならさっさと出て行け。見ての通り取り込み中なんだよこっちは」
「そうよ、早く行って。失礼よ」
「……っ!」
こちらの気持ちなど気にもかけずに追い出そうとするラフィム殿下に乗っかるように、タニヤ嬢にまでそんなことを言われ、腸が煮えくり返りそうだ。
だけど私が何か言う前に、マルセル様は強い力で私を引きずるように部屋から連れ出してしまった。
「マルセル様!どうして?!お願いですから今は放っておいて!このまま……このままあの男の好きになんてさせない!そんなの、イ……イレーヌが、あまりにも可哀相だわ……!!」
「……落ち着くんだ、ステファニー。それ以上言ってはいけない。少し黙っていて」
感情が昂り、涙がポロポロと零れる。
マルセル様は私を階下まで連れて行くと、人目のないことを確認しそっと私を抱きしめた。
「……仮にも王太子殿下に対して乱暴な態度はダメだよ、ステファニー。何をされるか分かったものじゃない。……あんな男の言うこと、僕は何も信じない。分かるだろう?」
マルセル様は私の耳元で小さな声で諭すように言う。穏やかなその声は私の心に染み入るけれど、悔しくて悔しくて、涙が止まらない。
「ひっく……、イ、イレーヌが……あまりにも、可哀相ですわ……。こんなのってない……!」
「……神は見ているよ、ステファニー。このままで済むはずがない。大きな声では決して言えないけれど、……あんな軽薄で浅はかな男が人の上に立っていつまでも好き放題していられるわけがないんだ。君が自分の身を危険にさらして今ここで何かしなくても、あの男は必ず報いを受ける日がやってくる。必ずね。僕はそう思っているよ」
「……ひくっ……、……うぅぅ……っ」
「だから、ただ耐えるんだ、今は。必ず時は来る。……分かった?」
「……は……はい……」
「……いい子だ」
子どもをあやすようにそう言うと、マルセル様は私が落ち着くまで優しく抱きしめ、背中を擦ってくれていた。
これ以上遅くなるとご両親が心配するからと、マルセル様は私の手を引き講義室に連れて行く。カバンを置きっぱなしだった。激しい怒りと、泣き続けたことですっかり疲れ果ててしまっていた私は、静かにとぼとぼとついて行く。
講義室の前まで来たところで、ふとマルセル様は足を止めた。
「……?マ……、…っ?!」
話しかけようとした私の口を手のひらで塞ぐと、マルセル様は自分の唇に人差し指を立てて、講義室の中を指差す。
(……?)
私は中を覗き込んで、固まった。
(……ん?)
西日が差し込む部屋の中、椅子に座って俯いているイレーヌの前に跪き、その手を取って何やら真剣に話しかけているのは、グレン様。部屋の入り口に立つ私たちの存在になど気付く様子もなく、その真摯な眼差しは目の前のイレーヌにだけ注がれていた。
イレーヌは覇気のない表情でぼんやりとしているけれど、グレン様の手を払いのけることもせずにただ大人しくその手を握られている。
オレンジ色の光に包まれたその二人の姿は、まるで熱烈な愛の告白の一場面のようで……。
(……んっ?……え、……えぇっ?!そうなの?グレン様……。そうだったの?!)
ハッと気付いた私は、なぜだか興奮して顔が真っ赤になる。
(そういえば、前の人生の時……)
私はぼんやりと思い出していた。イレーヌは他国へ嫁いでいったけれど、近衛騎士となったグレン様は婚約者も持たずに独身を貫いていたっけ。
……それって……。
「……もう少しだけ待っていようか」
「……ええ」
私たちは静かにその場を離れ、廊下の窓から沈んでいく太陽を見ていた。
(……頑張って、グレン様)




