22. マルセルの愛
結局付け焼き刃の言い訳で両親を納得させることはできず、昨夜の交渉は失敗に終わった。私はがっくりと項垂れたまま学園に登校した。
学舎の中を自分のクラスに向かって歩いていると、まるで待ち構えていたかのようにラフィム殿下が目の前に現れた。
「おはよう、ステファニー」
「ひっ……!」
心の準備がまったくできておらず、心臓が大きく跳ね上がり、喉がヒュッと音を立てた。殿下はそんな私の様子をニヤニヤと笑いながら見ている。
「ふ……可愛いな。そんなに怯えることはないだろう。こんな人目がある場では、何もしないよ。ただ……」
誰にも聞かれたくないような会話なのに、殿下は声を潜める配慮もない。そしてそのまま私に顔を寄せると、耳元で言った。
「君の唇は、とても甘かった。……忘れられない」
「……っ!!」
全身に鳥肌が立ち、私は挨拶もなく足早にその場を立ち去った。
「ステファニー、俺の言葉を忘れるなよ」
追い打ちをかけるように、背中に殿下の声が刺さる。
『……俺は諦めないぞ、ステファニー』
「……っ、」
あの日。ラフィム殿下に無理矢理唇を奪われて、ショックでその場から逃げ出した私の背中に容赦なく浴びせられた言葉。思い出させられて、恐怖と怒りで唇が震える。歯を食いしばって私は涙を堪えながら歩いた。
「わぁ、すごい。豪華だなぁ。嬉しいよ」
「ふふ。どうぞ。私が作ったわけではないけれど」
「君のところのシェフは本当に腕が良いから、楽しみだよ」
お昼休み。中庭にもカフェにも食堂にも行きたくない私は、学園の敷地内から出て近くの広場にあるベンチで持参したサンドイッチを広げていた。マルセル様は文句も言わずに私とここまで来て、ランチタイムを一緒に過ごしてくれている。
「……うん、さすがだ。美味しい。食べなよ、ステファニー」
「……ええ。でも、今日はいいの、私は」
「……?どうして?」
マルセル様がサンドイッチを手に持ったままキョトンとして私を見ている。わざわざお昼を持参した上にこんな所まで引っ張り出してきて自分は食べないのだから、それは不思議にも思うだろう。でも私は今朝の一件で完全に食欲がなくなってしまったのだ。
「ん……、最近少し太った気がして。ちょっとだけダイエット中なの。だから気にしないで、マルセル様がたくさん食べてね」
「……。」
私をじっと見つめながらもぐもぐと咀嚼していたマルセル様は、それを飲み込みサンドイッチを籠に置くと、私の方に体を向けた。
「……あのさ、ステファニー」
真剣な、だけどとても優しく慈しむようなマルセル様の茶色の瞳。見つめ返しているだけで、少し気持ちが落ち着いてくる。
するとマルセル様は、突然こんなことを言い出した。
「……僕はずっと前から、君のことを見てきた」
「……。……え?」
「君との婚約が正式に決まるよりずっと前から、僕は君のことだけを見ていたんだよ。ずっと、君のことが好きだった」
「……。……っ?!」
予期せぬ唐突な愛の告白に、私は驚いてマルセル様を見つめたまま固まる。頬がじわじわと熱を帯びはじめた。
……え?……こ、婚約が、決まる前から……?
ほ、本当に……?
頬を火照らせながらマルセル様を見つめて硬直している私に、少しはにかみながら彼は続ける。
「だからね、何となく分かっているつもりだよ。今の君が、何か大きな悩みを抱えて苦しんでいることは」
「……っ!」
(……マルセル様……)
「最近の君はいつも何かを抱えて追い詰められている。僕にできることがあるのなら、どんなことでもして君をその苦しみから解放してあげたいんだけど……。ご両親にも僕にも、周りの皆にも、こんなにずっと必死でごまかし続けているのだから、きっと簡単には言えないことなんだろうね」
「……。」
マルセル様……。
気付かれていたんだ……。私がこうして困っていることに……。
…………え。
ということは……もしかして……。
私はドキドキしながら次の言葉を待った。まさか……まさか、マルセル様……、
「……先日の夕食会で、君が僕との結婚をすぐにでもしたいと言ってくれたのも、本当はあんな理由ではないんだよね。もっと何か……、他の事情があってのことだ」
「……っ、」
冷たい手で心臓を掴まれたような感覚だった。やはり気付かれていた。マルセル様に。
……どうしよう。……私……、
「だけどどんな事情であれ、僕は嬉しかったんだよ、ステファニー。君が僕のことを想うあまりに結婚したいと言ってくれたわけじゃないとは分かっていたけれど、……それでも、嬉しかった。すごく。理由は愛じゃなかったかもしれないけれど、それでも君は僕の存在を必要としてくれたんだ。君が生涯の伴侶として、僕を選んでくれたことに間違いはないのだから」
「……マルセル様……っ……」
もう顔が上げられなかった。涙が次々に溢れ、膝に置いた自分の手にポトポトと落ちていく。マルセル様は全部気付いていたのだ。私が自分の事情のために、マルセル様を利用するようなかたちで結婚を急いだだけだということを。
私をずっと好きでいてくれたというこの人を、愛のためだと嘘をついて利用したのだということを。
激しい罪悪感と自己嫌悪に嗚咽が止まらない。ラフィム殿下のことでずっと追い詰められていた私の心は、完全に決壊してしまった。醜い顔を覆ってしゃくり上げて泣きはじめた私を、マルセル様は庇うようにそっと抱きしめてくれた。
「だから僕はあの時、すぐに君に同意したんだ。君が何か切羽詰まった事情で苦しんでいるのなら、守ってあげたかったから。力になれるのなら何でもしたかった。……もちろん、単純に君が妻となってくれる日にちが早まるのなら、僕にとってもこれ以上ない幸運だからね」
「……ふ……っ、……うぅ……」
私の気持ちを楽にしようとおどけたように言い足したマルセル様の心遣いに、ますます涙が止まらない。抱きしめてくれている彼の胸に顔を埋めたまま、痙攣するように震える喉から、私はしゃくり上げながらも必死で声を絞り出す。
「……ごめ……な、さい……。……ごめ……」
「大丈夫だから、ステファニー。もうそんなに泣かないで」
「いっ……いま、は……、今は、ちが、い、ます……っ。わ、私は……、ほ、本当に……マルセル様のことを……っ、」
「……うん。分かってる。ちゃんと分かってるんだよ、ステファニー。……ありがとう」
何もかも、この人にはお見通しだった。
それでもマルセル様は、私の全てを受け入れてくれていた。




