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9.罠

 乳白色のもやは渦巻き、上昇気流に乗り、千々(ちぢ)に乱れながらもまた奥から密度の濃いものが塊となって押し寄せる。

 富士宮口ふじのみやぐち五合目あたりの、雲海さながらであった。

 水主かこたちを混乱させ、方向感覚まで狂わせた。


 そんなさなか、相変わらず琵琶の弾き語りがこだまとなって聞こえ、船上のみんなの心をかき乱す。

 たしかに、彦兵衛ほどではないにせよ、娘のぎんじる声は、聞く者を陶然とさせる抗しがたい魅力があった。


 弥助たちは助かりたいがため、気が張っているせいか、なんとか踏みとどまっていた。

 命をあきらめたら最後、たちまち忘我の穴へ引きずり込む魔力を秘めているのだ。まさに魔魅まみといえよう。


 いつの間にか、曲調は変わった。

 琵琶の弦は激しくかき鳴らされ、水蜜桃すいみつとうのような甘美な声のまま、熱気を帯びるようになったのだ。


「これは――」と、菊之丞は耳を澄ませた。「だん(うら)の演目にちがいない」


 菊之丞が指摘したとたんだった。

 甲板に倒れていた彦兵衛がむくりと半身を起こし、白眼のまま、歯ぐきをむいた。

 こう言った。


「これぞ、女神さまのお導きにちがいあるめえ! お清に決まってら! お清――っ!」


 恐るべし、遊女に入れあげたその熱意。

 彦兵衛は立ちあがり、だしぬけに定吉に体当たりし、舵柄を奪おうとした。

 それにしても首を傾げたくなる彦兵衛の狂いっぷりであった。なにが、こうも福徳丸を窮地に陥れようとしているのか?


 嵐が来る前、吉原でお清という娘にぞっこんになったと弥助たちは聞かされていた。

 とはいえ、なぜ琵琶の奏者とを結び付けるのか、理解に苦しまずにはいられない。


「しっかりしてくれ、親方! 正気に戻れ!」


 定吉は小さな身体で、彦兵衛の相撲技さながらのぶちかまし(、、、、、)を軽くいなし(、、、)、足を引っかけて転倒させた。

 倒れたところを菊之丞が馬乗りになり、今度こそ綱で後ろ手に縛った。




「ううーっ!」


 弥助はようやく、弾き語りの出所を見つけた。

 彼は白い髪をふり乱し、帆柱の上を指さした。

 太い帆柱は、てっぺんまで優に十一間(約20m)を超え、靄のせいで見えない。

 しかしながら、弥助には確信があった。

 その不安定な帆の真上で、何者かが琵琶をかき鳴らしているのだと。


「弥助、上がどうした?」


 巳之吉が櫂を手にしたまま言った。

 福徳丸が進むにしたがい、靄がさっきより晴れるようになってきた。

 ぼんやりとだが、帆柱の影が見えるようになったのだ。


 ありえなかった――。

 帆柱の突端の断面は、わずか二尺四寸(約62cm)しかあるまい。そのてっぺんに、誰かが腰かけている姿が見えるのだ。その上に座り、演奏するには、曲芸師なみの身体能力を必要とするであろう。


 ほっそりした身体の線。たおやかな着物の裾や袖が影絵となって浮かびあがる。

 斜めに抱えている物体こそ、琵琶に相違あるまい。弦を張った細いくびと、特徴的な糸巻いとまきの部分が影絵となって見えた。


「そこにいるのは、誰じゃ!」


女子おなごか! 船に無断で乗るたぁ、船霊ふなだまさまのお叱りを受けても知らねえぞ!」


 ひっつめ髪にした娘の顔が、靄の中から現れた。

 死人のように青ざめた顔をした、冷たい感じの美人だった。

 艶やかな衣装を身にまとい、大きな琵琶を抱いている。

 三角形のばちで、かき鳴らすさまが見えた。

 聞く者をうっとりさせる歌を口ずさむ。


 あの謎の女が吟じるかぎり、彦兵衛の抵抗は緩むまい。

 弥助は刺子着の懐から、護身用の小刀を出した。

 鞘から刀身を抜く。

 ふりかぶり、帆のてっぺんめがけ投げた。


 小刀は狙いあやまたず、帆柱のぎりぎりに突き刺さった。

 が、手ごたえはない。

 瞬時に、娘の姿はかき消されていた。

 同時に、琵琶の弾き語りもピタリと止んだのである。


「なんだったんだ、今の……」


 と、巳之吉は帆柱を見あげたまま言った。


「わからね。なにがなんだか、さっぱり」


 定吉は肩をすくめた。

 彦兵衛の抵抗もやみ、綱で縛られ、横になったままだ。

 なおも福徳丸は、音もなく前方へ引っ張られていた。


 そのとき、菊之丞が右手を指さした。


「みんな見て! あっちに火が見える!」


 あたりは青みがかり、夜が明けつつあった。

 周囲を覆っていた乳白色の垂れ幕はしだいに薄れ、遠くの景色も見えるようになってきた。ずっと向こうに炎が灯っているのを、目ざとく菊之丞は発見したのだ。


「火だって?」


「だとすれば、燈明台とうみょうだいか?」と、定吉が額に手でひさしを作り、眼を細めた。「燈明台にしては、いくつも見えるが?」


「だったら、人家にちげえねえ。おかだ。定吉、あっちに舵を切れ」


 彦兵衛が寝っ転がった姿勢で言った。


「あいや親方、正気に戻ったかい?」


「お菊、おれははじめから正気だ。なんでおれを縛っていやがる。ほれ、これを外さんか!」


「やれやれ……」


 定吉は言われたとおり、無数の火に向けて舵を切った。というより、他に選択肢はなかった。

 船首のはるか彼方に、ずらりと炎が並んでいた。

 等間隔に無数の光が揺らいで見えた。

 ほとんどが小さいものばかりだったが、時おり大きい火柱も混じっているのは、どういうわけか。




 ゆっくりと、音もなく福徳丸は海をすべっていく。

 その先に、集落のある浜だと信じて、突き進んでいった。

 船べりにつかまった弥助は、右手を胸にやり、嫌な予感を憶えていた。


 予期せぬ嵐に巻き込まれ、乗りきったと思ったら今度は一転、大規模な靄に包まれ、謎の琵琶の弾き語りに誘われた。

 彦兵衛が狂わされたのは、なんだったのか?

 あの帆柱の上にいた娘との因果関係はあるのか?


 正体もわからぬまま、船が独りでに進んでいくのにまかせるしか術はない。

 考えれば考えるほど、できすぎていた。巧妙に仕組まれた策略のように感じていたのだ。

 もしや、なんらかの罠ではないか――そう弥助の頭によぎった、次の瞬間であった。




 突然、硬いなにかとぶつかる音とともに、船が激しく上下に揺れた。

 たちまち、甲板上の雑多な船具が散乱する。

 水主たちは衝撃で吹っ飛ばされ、腰を打ち付けたり、尻餅をついたりした。


 なおもゴリゴリと、硬いものと木が接触する音が続く。

 大きく船が傾いたのが体感的にわかった。

 同時に、福徳丸の動きが止まったことまで――。


「くそくそくそっ! やっちまった!」


 彦兵衛は戒めを解かれ、地べたに伏せたまま悪態をついた。


「くそは厠でひってこいだろが!」


 と、巳之吉が言った。


「ちくしょうめが! 暗礁に乗りあげた! やっちまった!」


「なんだと?」


 と、定吉が言った。

 あわてて舵柄を動かそうにも、船は斜めに傾いたまま、ビクともしない。

 動きの止まった船上は喧騒に包まれ、水主たちは事態をつかもうと躍起になった。

 ようやく靄が散り散りになり、晴れてきた。

 東の空まで白みはじめていた。




 こく(午前5~7時)に入る手前だろう。早朝だった。

 眼の前には、壮絶な光景が広がっていた。

 彼らがめざしていた炎の連なりは、3町(327m)ばかり向こうの砂浜で焚かれるものだった。


 大勢の人間が手に松明をかかげていたにすぎない。

 なかには戸板らしき板で篝火かがりびを焚き、四人がかりで抱えている者もいて、みんな一様にこちらの成り行きを見守っているようだった。


 その背後には岬状になった丘がせり出し、真下に貧相な集落が広がっていた。卒塔婆そとばの乱立する墓場を思わせた。


 白浜から手前の海には、数えきれぬほどの大小さまざまな形の岩礁が顔を出していたり、ところどころ浅瀬が潜んでいたりして、いかにこの海域が危険な難所かを示していた。

 福徳丸はそのうちの暗礁に乗りあげ、身動きがとれなくなったのだ。


 なまじ弁才船べざいせんは船底が平らな構造なので、勢いよく突っ込んでしまえば、よけいに瀬に当たる面積が大きく、にっちもさっちもいかなくなる。

 こんな危険地帯をうっかり突っ切ろうとしたのが、そもそもの失敗であった。

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