8.お清の歌声?
いち早く、次なる異変に気づいたのは、弥助だった。
胴の間でひざを抱えて横になっていた弥助は、おぼろげな眼で船首の向こうを見るなり、驚きの声をあげた。
さっきとは打って変わって、海はベタ凪。
帆が風をはらんでもいないのに、ゆっくりと福徳丸は進み、大規模な白い靄の塊に突っ込んでいこうとしているではないか。
靄は複数のアオダイショウが絡みついたようにうねくり、渦巻きながら、しだいに範囲を広げていくようだった。
弥助にはどうすることもできない。
福徳丸は、あれよという間に乳白色の膜に突っ込んでいってしまった。
ついには一寸先さえも見通せなくなる。
船ごと、密度の濃いそれに包まれてしまった。
「ざだぎぢ! おぎ!」
唖者である弥助は、声にならない声で、かたわらで大の字になっている定吉を揺り起こそうとした。
定吉は月代やら顔じゅう、塩を張り付かせ、寝言で答えただけだった。
代わりに、艫のそばの長い舵柄にもたれ、眼を閉じていた彦兵衛が意識を取り戻した。
「や――これは、なにごとだ?」
しゃがれた声で言うと、弥助は船頭のそばに寄り、海を指さした。
彦兵衛は眼をしばたたいた。
すぐに背筋をしゃんとさせ、舵をつかみなおした。
「うう!」
「いかん……。どのへんまで流されたのか、山あてしようにも、これじゃ位置がわからねえ。弥助、今すぐみんなを叩き起こせ」
言われる前に弥助はしなやかに動き、定吉に平手打ちを与えていた。
定吉はうめきながら眼を醒ました。
次々に巳之吉や菊之丞の頬を叩いたり、背中をどやしつけたりして荒々しく覚醒させる。
事は一刻を争うかもしれないのだ。この際、荒療治もやむなしだった。
みんなは、のろのろと身体を起こした。不満を洩らすことなく、水主らしく本能的に持ち場につこうと動きはじめる。
「時化のお次は、なんだってんだ?」と、定吉が刺子着の襟をなおしながらつぶやいた。あくびを洩らす。丁髷がおかしな寝癖がついてしまっている。「せっかく海は静かになってるってのに、今度は靄だと?」
「どういうこった、この有様は。これほどのものに、お目にかかったことはねえぜ」
巳之吉が低い声で言った。
「朝靄にしては、まだ明けきれていないけど――」
菊之丞が寒そうに我が身を抱いた。用心深い性格なので、わざわざ垣立のそばへ寄って、海をのぞいたりはしない。
事実、まだ日が明けるにはまだ早すぎた。わずかに青みがかった景色になりつつあったが……。
彦兵衛は艫にある居住区に入り、二つばかり行燈を手にして現れた。
弥助と手分けして、火皿に油脂を注ぎ、火打石で灯す。
和紙を貼った風よけに、ぼんやりと橙色の光が映った。
船上はそれで、どうにか視認できるようになった。が、せいぜい一間(1.8m)先も見えない。
生き物の習性か、水主たちは火のそばに集まった。
「ミノは舳先に立ち、見張れ。弥助と定吉は、左舷右舷に別れろ。いいか、左の割れた垣立には近づくな」彦兵衛が、てきぱきと指示する。行燈のひとつを巳之吉に持たせた。「お菊は、おれのそばから離れるな。船尾の警戒をしろ」
「へい!」
水主たちは言われたとおり、それぞれの持ち場へ散った。
靄は船上をも押し包み、お互い離れてしまえば、その姿すら識別できなくなった。
艫の近くの舵で行燈を据え、彦兵衛は待機した。かたわらに菊之丞が佇む。
船首ぎりぎりに、巳之吉が置いたもうひとつの行燈のおかげで、ぼうっと光が浮きあがるものの、みんなの姿形は影絵さえ映し出せない。
そのときだった。
これも異変に気づいたのは弥助だった。視力が他より劣る分、聴覚は鋭い。
白髪の青年は耳を欹てた。
――聞こえる。たしかに聞こえる。聞き間違いではあるまい。
ベン、トン、ベベン。ベン、トン、ベベン……と、なにやら弦楽器の調べがするではないか。
帆綱と船具かなにかが、振動でこすれる音ではない。
明らかに何者かが、音楽を奏でているのだ。
船が進むにつれて、幽かな音色は、はっきりとこの海域にこだますようになった。
「うううっ!」
弥助が叫び、あらぬ方向を指さした。彼の耳をもってして、音の出所がはっきりとしない。
「なにか聞こえる」
定吉が言った。
「なんで海の上で琵琶の音がする! おかしいだろ!」
と、これは巳之吉の声。
行燈を抱えて、船が進む方向を照らすつもりなのだろう。灯りの位置が上にあがり、左右に揺れ動いた。だが、行燈ごときで靄の向こうを見通せるはずもない。
「琵琶だと?」と、舵柄を手にしていた彦兵衛が眉をひそめた。「いったい、どこのどいつが、海のど真ん中で弾こうってんだ?」
単調な琵琶の音に合わせて、やがて女の歌声が聞こえはじめた。
水主たちはゾクリとした。
若い娘ほどの声であった。
時に毅然とし、時には儚く、哀切を帯びた調子を使い分ける。かなりの経験を積んだ歌い手であった。
嫋々たる弾き語りが、凪いだ海一帯に広がる。
「この曲、聴いたことがある。前に大坂の堺で、眼の見えない坊さまが歌っていた――」菊之丞が耳に手を当て、しばらく集中した。そして思いついたように、「平曲です。平家物語の『祇園精舎』!」
「だったら、まさしくお清! お清にちがいあるめえ!」突如として、彦兵衛は喜色満面で目尻をさげた。だらしなく鼻の下を伸ばす。「吉原で世話になったお清が、おれに会いにきてくれたんだ!」
と、言ったとたん、でたらめに舵を切り、菊之丞はよろめいた。
「そんなわけないでしょうが、親方!」
「おーお、これこそは! この可愛い娘っ子の声こそは、お清だろがっ! やれ、お清――っ!」
異様であった。
彦兵衛は嬉々とした笑みを浮かべているわりに、眼はでんぐり返り、白眼をむいていた。歯列を見せて喜ぶ。
それを間近で見た菊之丞は悲鳴をあげた。
すぐさま、定吉と弥助が舵のところのまで駆けつけた。
「正気か、親方!」
「うーっ!」
水主たちが心配するのをよそに、彦兵衛は舵柄を握りしめたまま、右に左に舵を切り、福徳丸を動揺させる。船が揺れるごとに、嫌な軋みを放った。
支離滅裂である。彦兵衛がでたらめに舵を切るたびに水主たちはよろめき、なにかにつかまらなくてはならなかった。
――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
――娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
――おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
――たけき者も遂にはほろびぬ、偏へに風の前の塵に同じ。
琵琶の旋律に合わせ、世にも霊妙な娘の歌声は、靄に包まれた海に響きわたる。
弾き語りは切々とこだまし、近づくことはなくとも、遠のくこともない。
この靄の中で、距離感はつかみかねた。物理的に不可思議な現象であった。
その間、さっきまで廻船の最高責任者としての威厳を示していた彦兵衛だったのに、娘の歌が聞こえ出してからというもの、人格が変わったかのような狂態を示している。
相変わらず白眼をむき、口の端からカニのように泡を噴き、そのくせでたらめに舵柄を操る姿は、およそ正常な精神状態ではない。
船は蛇行しながら進んだと思ったら、急旋回したりと、あまりにも無軌道すぎる操縦だった。
帆をあげているとはいえ、ベタ凪のなかを船が独りでに進むのも奇異なことだった。まるで、前方からなにかに引っ張られているかのように、勝手に走っていくのだ……。
水主たちは彦兵衛を持ち場から離そうと取っ組んだが、磔にされたかのごとく踏ん張っており、むしろ邪魔すると殴りつけられたり、足蹴にされたりして反撃を食らう始末だった。
船があさっての方角へ迷走されては、たまったものではない。
ましてやこの靄の中を、岩壁めがけ突っ込まれでもしたら……。
木造船は砕け、一巻の終わりであろう。それでなくても、遠州灘は無数の岩礁がひそんでいるのだ。
四人の水主たちは、顔を突き合わせ、手短に相談した。
弥助と定吉は、彦兵衛の両脇から同時に組みついた。
その隙に背後から巳之吉が近づき、櫂をふりかぶる。
船頭の脳天にお見舞いした。
ゴン! と音がしたとたん、一瞬遅れて彦兵衛は頽れた。
白眼をむき、奇っ怪な笑みを浮かべたまま、地べたに横たわっている。
「まさか、死んじゃいねえよな?」
と、定吉。かわりに舵の番をする。
「これでも手加減したつもりじゃ。やるしかなかったろ」
巳之吉は言った。
櫂をかたわらに放り出し、返り血を浴びたわけでもあるまいし、しきりに両手を着物の裾で拭った。
相変わらず琵琶の弾き語りは、物憂げにくり返されている。
いまだ船は遠州灘の真っ只中にあって、陸地からかなりの距離が離れているにもかかわらず、人声が聞こえてくる道理はないのだ。
とすれば――人ならざる者の仕業としか思えない。
「どこまで流されたのか知らんが、鳥羽の湊あたりで、風待ちすべきじゃねえか?」
「なら、そうしよう」
定吉と巳之吉が言葉を交わした。
代わりに弥助が舳先に立ち、前方を警戒していた。
依然、靄の真っ只中を、福徳丸はなにかに牽引されるかのごとく、突き進んでいく。
海は鏡のように凪いでいる。無風であるにもかかわらず、ふしぎな推進力を得て……。
このまま手を拱くのは、あまりにも不吉すぎた。