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7.常世の国に

 十年前、善七はもともとは大坂の堺で、小間物屋に奉公していたにすぎなかった。

 ある日、行商として独り立ちして町を歩いていたとき、立派な建物の味噌問屋に飛び込んでみた。


 あいにく店の主人は不在で、店の看板娘が応対してくれた。

 それがお静だった。

 駄目でもともと――試しに営業してみると、お静は愛想よく、くしかんざし白粉おしろいべになどを、こづかいで買ってくれたのだった。


 その娘は、今までお目にかかったことがないほど上品で器量もよかった。それでいて庶民的な考え方の持ち主で、よく笑うところが善七の心をつかんだ。

 彼女は味噌問屋の、実の一人娘でもあるという。


 会話を重ねるうちに、おない年ということもわかり、たちまち意気投合した。

 しばらくすると両親が帰宅した。親しげに娘と話をしている善七を見るなり、露骨に顔をしかめた。コバエでも払うかのように、善七は店から追い出されてしまった……。


 それ以来、夜ごとお静のことを思い出しては、悶々と寝返りを打つようになる。

 自分とは釣り合うはずもない。

 しかしながら、お静に恋心を抱いた気持ちを制するつもりもなかった。善七は根っからの小心者ではあったが、本心に忠実な男であった。


 仕事を抜きにして味噌問屋へ通い、お静に会えれば御の字、両親とかち合えば、痛罵されて追い払われることをくり返した。

 やがて若い二人が逢瀬おうせを重ねる仲になるまで、そう時間はかからなかった。

 善七は待ち合わせの日時を記したふみを、店先の打ち水をする桶の下に隠し、お静に知らせたのだった。


 しかしその恋も、厳格な父によって引き裂かれる。

 両親らは年老いてから、やっと子宝に恵まれただけに、お静への寵愛ちょうあいは度を越えるほどだった。

 ましてやちっぽけな小間物屋の、しがない奉公人にすぎぬ善七に奪われるのは許しがたいのであろう。


 お静とて、善七以外に考えられぬと強く思うようになっていた。親から溺愛されてきた一人娘の、はじめての反抗であった。

 二人は駆け落ちした。ある日、真夜中の堺を、善七とお静は手を取り合って逃げたのだ。

 紀伊半島を浜づたいに旅し、旅人たちの縁もあって、伊良湖岬の浦にたどり着き、そこに根をおろしたのだった……。




「あんときは、腹一杯、米を食えたね」と、為吉は声を弾ませた。「もらったロウソクで家も明るかった。新しい木綿の服も着られたし、あの甘いのもめられた。なんやったの、あのお菓子?」


「ありゃ黒砂糖いうてな。はるばる中国から大坂に届き、江戸へ運ばれる荷物やったんやろ。菓子っていうか、病人や身体の弱った人に舐めさせる薬みたいなもんらしい。薬屋で売っとるようやけど、おれらみたいな庶民には、手ぇ出せれんほど高価なもんだとか」


「江戸じゃ、あんなもん手に入んのか。ええな、もっぺん(、、、、)食べたい」


「すまんな、こんな貧乏臭い田舎暮らし、させちまって」


「な、父ちゃん」と、為吉はとぼとぼ歩きながら口にした。歩幅が大人より小さいため、遅れがちになる。弱々しいため息。「なんで一昨年からおれたち、あんまり食べられへんの? ここ最近はとくに食い物にありつけてへん。痩せっぽちのサツマイモばっかりや」


「おれがたまにいわし、獲ってくるやろ。こないだは彼岸花の球根も食べたやないか。ありゃ、味付けしだいで、なんとかなるもんやな」


「少なすぎるやないか。贅沢やって村長から怒られてもええ。お腹一杯、白米食べてぇ。おれ、腹と背中の皮、くっついちまいそうや」


「おれかて、同じや。胃袋がぐーぐー言うて、ろくに唾も出やん。ま、おまえは食べ盛りやから、しゃあない」善七は為吉の手を引いた。「お船さまが寄らへんかって、ふだんから白米なんて、正月や祭りの日ぐらいしか食べられへんかったやろ。そないな贅沢言うたらあかん」


「ほんなら、父ちゃん。これに答えてや――」


「なんや、タメ公」


「死んじまったおっ母は、海の向こうへ行ったんやろ? お爺やお婆も住んどるって世界へ。前に言うたやないか」




 漁村の死生観は山のそれと異なった。奇しくも弥助の故郷と同じであった。

 人が死ねばその魂は、はるか彼方の(、、、、、、)沖合へ(、、、)船に乗って(、、、、、)帰っていく(、、、、、)という。


 死後七代を経てその魂は、親族の守護神へと格上げされる。海の彼方にある常世とこよこそ、つまり祖霊神が生まれる場所だと誰もが信じて疑わなかった。

 同時に、この世に人が誕生するとき、魂も常世からやってきて、妊婦の胎児に宿り、再生するとされている。仏教が普及したというのに、ここでは南方系の信仰が根付いていた。


「おれな」と、為吉は思いつめた顔でつぶやいた。炎で痩せ細った頬が浮かびあがる。いつの間にか、前を歩いていた銀婆との距離は開いていた。「――いっそのこと、おっ母のところ行きたい。こんなひもじい思いするの、もう嫌や。もっといっぱい物が食える世界に帰りたいわ」


 為吉の告白に、善七は胸をかきむしられる思いをした。

 同時に、子どもを幸せにしてやれない己の不甲斐なさよ。

 せっかく生まれてきた命だというのに、この年ごろで帰りたい(、、、、)と言わせてしまう不幸な時代を嘆いた。


 海の彼方にあるとされる理想郷、常世の国。

 生命の根源であり、お船さまを使いとして豊穣ほうじょうをもたらすのも、そこからやってくると信じられてきた。


 為吉の幼心にして、母をはじめ、祖霊が平和に暮らす国こそ、楽土のように思い描くことができるのだろう。

 そこでは貧しさに苦しめられることなく、ましてや飢える心配もあるまい。新生児を仕方なく間引きする悲劇さえ、ないにちがいない。――二年前、お静が次男を身ごもったのを、善七は思い出した。しかし養えないと思い、冷たい海に腹までつかり、泣く泣く流産させたこともあったのだ。


 そこへ生きながら(、、、、、)旅立つ(、、、)ことができたら、どれほど幸せか。

 常世の国は、生者も行き来できる地続き(、、、)の場所だと信仰されてきた。

 為吉は甘えたい盛りなのに、早く母を亡くし、憧れを抱くのも無理はなかった。




「そやな」善七はふるえをおびた声で言った。はなをすする。「おれかて、お静に会いてえ。お静はいつでも優しかったからな。もういっぺん三人で――いんや、お爺やお婆も、みんなで暮らせたら。ついでに、お隣の銀婆もな」


「そんためには、お船さまに来てくれんといかんわけやな。そやろ?」


「そや。眠たいやろが、信じて儀式、続けような」


「うん」


 すでに前を歩く銀婆の姿は闇に消え、小さな炎だけが風に揺れていた。

 うしろをふり返ると、後続の中年の男との距離も広がっていた。腹が減りすぎて歩くのもやっとなのだろう。

 さらにそのうしろへと続く松明の群れは、一定の間隔が開きすぎていた。不吉な葬列を思わせた。

 善七は為吉の手を引きながら、炎をかざして歩き続けた。

 暗闇の砂浜を、みんなして照らしていれば、いつか救いの手が差し伸べられるだろうと信じて。


◆◆◆◆◆


 大坂へ帰る途中の福徳丸が嵐に遭い、どれほど時間がすぎたのことか。

 疲れきった水主たちは、時間の感覚も麻痺していた。

 正確には、イナサと五時間にわたる死闘のすえ、なんとか乗りきったのだった。

 幸い舵の羽板も帆も、帆柱さえ壊されなかったし、黒潮につかまり、沖へ流されずにもすんだ。構造上、船乗りたちは和船が漂流するのをもっとも恐れるのだ。


 嵐に遭遇した場合、漂流を防ぐべく船の安定を保つため、自ら帆柱を切り倒す選択肢も彦兵衛の頭をかすめたほどだ。

 しかしながらこの船頭の操船技術により、なんとか陸伝いから遠ざからずにすみ、被害は軽微で抑えられたのだった。


 本来、帆柱は船尾側へ数人がかりで手動で倒せ、邪魔にならないよう綱と滑車で、船首側に寄せられる構造にはなっている。

 とはいえ、福徳丸の帆柱自体は、長さ十一(げん)(約20m)を超え、筵帆も含め、重量も計り知れない。ましてや暴風雨と、船が動揺しているさなかでは、到底作業は行えるものではないのだ。


 したがって荒天に遭い、漂流を防ぐため、人為的に帆柱を切り倒す究極の選択を迫られることも少なくない。

 最悪、帆柱を切り倒してしまうと、あとは水主らのまげを切り落として、神仏に誠意を示し、生還を祈るしか術はない。

 そうなると、たとえ大時化を切り抜けたとしても、風による推進力は得られず、ほぼ航行不能となる。かいを数本載せているとはいえ、いくら空船でも三百石積み(45t)の船を手で漕ぐのは現実的ではない……。




 時刻は八ツ半ば(午前2時半)をすぎ、さすがに船頭を含め、若い水主たちは思い思いの場所に座り込んだり、横になったりしていた。みんな、精も根も尽き果てていた。

 暗い海はいつの間にか、もとの静けさを取り戻していた。


 さっきの荒天が本当の出来事なのかさえ思えてくる。

 しかしながら、船上の水浸しのさまを見れば、時化に揉まれたことを如実に示していた。

 死んだ魚まで打ちあげられていた。あいにく食えそうもない雑魚ばかりだった。

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