6.善七と為吉親子
彦兵衛は追い風と追い波を船の尻から受け続け、艫の真下にある舵の羽板を壊されるのではないか、気が気じゃなかった。
和船は横波にも弱ければ、羽板もなまじ大きすぎるため、損害を被りやすいのだ。
帆を破られたら推進力を失うし、舵も破損すれば、船の向きを変えることができず、航行不能となる。舵の損失は致命的である。それだけは、なんとしてでも避けなくてはならなかった。
そうこうするうちに、彦兵衛の判断が功を奏していた。
船首から碇を垂らしたことによって、そこを軸に、船体がゆっくりと旋回しはじめたのだ。
その間も容赦なく横波をかぶったが、どうにか持ちこたえた。
福徳丸は大きく傾き、水主たちはなにかの構造物にしがみつかなくてはならなかった。
やがて船尾が進路方向を向いた。船の向きを逆転させたわけである。
すなわち追い波を、尖った舳先で受け流すことになるので、船体にかかる衝撃度を軽減させることができる。
これを『跡ずさり』、もしくは『舳流し』と呼び、横風、横波による転覆まで防ぐことができるのだ。弱点の多い和船ならではの操船技術であった。
それでも、碇ひとつだけの負荷では足りないらしく、依然船は逆向きのままひた走った。本来なら、碇の重みで減速するはずなのだが……。
四爪碇は、重さの異なるものが、まだ三つあった。
が、水主たちは委縮し、垂らしに行く者はいない。
東南からの風向きなので、このままでは陸に押し付けられる形で激突してしまうだろう。
彦兵衛は舵を逆に切り、そうはさせまいとした。
「なんの、これしき! あらよっと!」
むしろ彦兵衛は、この大時化と楽しんでいるかのようであった。あたかも盆踊りで、若い女といっしょに踊っているかのような喜悦の表情を見せる。
またしても、福徳丸はせり出した岩壁にぶつかる寸前、うまく左にかわした。
このあと最悪、さらに激浪が船内に打ち込み、水船になるのを防ぐならば、やむを得ず輸送中の積み荷を投棄する方法もあった。
それが船の安定度を高めるための、刎荷の対策である。依頼された運送業務も、人命優先だった。
しかしながら、江戸で空にした帰り道。彦兵衛にとっては、積み荷があるよりか、はるかに易しい。
彦兵衛をはじめ、水主たちは、持てる技術を総動員して、嵐に立ち向かっていた。
雨は激化したり、小康状態になったり変化すること、さらに半刻(1時間)――。
ようやく時化は峠を越えたのか、波のうねりは衰えを見せた。
舵の羽板もけっして頑丈ではない。何度も波に叩かれれば破壊されかねないのだ。ひと安心できた。
いったいどれほど陸沿いを、流されたことか。
ここが駿河のどのあたりか、見当もつかない。
本来船乗りたちは、陸地の目ぼしい山を利用した、おおよその位置をつかむ測量法で現在地を知ることができる。これを山あてと呼び、現代の船乗りや漁師も、感覚的に使っているのだ。
とはいえ、こうも沿岸に近づきすぎ、ましてや黒々とした崖が連続していると、位置をつかみかねた。
少なくとも離岸流に捉えられ、沖合に流されずにすんだのは確かだった。
いずれにせよ、彦兵衛の腕があればこそ、被害を最小限に食い止めることができたのであった。
「金毘羅大権現さま、どうか我々をお守りください……」
舵柄を両手でにぎった彦兵衛は、神妙な面持ちでつぶやいた。
「『船は帆まかせ、帆は船まかせ』ってやつだ。時化が来りゃ、どうにもならねえ」
定吉が帆柱につかまったまま言った。
さっきまで船首でうずくまっていた巳之吉が、よろよろしながら帆柱の根元までやってくる。
そして泣きながら、
「さっき、船が宙を跳ねたとき、益次郎が落ちちまった……」
と、言った。
もはや弟の転落地点から、かなり行きすぎていた。
今さらあとへは引き返せない。どうせあの荒波である。
落ちれば、泳ぎが達者な水主とはいえ、ひとたまりもあるまい。
「おれもこの眼で見た。だけど、どうすることもできなかった」
と、定吉。その場にしゃがみ、ひざを抱え込み、うつむいた。
「うーっ!」
筵帆を補修していた弥助は立ちあがり、巳之吉の肩を抱いた。
「奴の死は無駄じゃない」と、彦兵衛がしゃがれた声を絞り出した。水主を失ったのは船頭の責任でもある。「おまえたちがたらしをやってくれたおかげで、転覆は免れたんだ。みんなが命拾いした。ただし、奴の亡骸を引きあげてやることはできねえ。許せ、ミノよ」
巳之吉は弥助に支えられたまま、身体を反らし、鬨の声のように吠えた。
双子の兄の声は縷々と、海を恨むがごとく響きわたった。
いまだ海は踊っていたが、嵐は完全に峠を越えたようだった。むろん、気を抜くべきではなかったが……。
少なくとも、跡ずさりを継続することもあるまい。
彦兵衛は舵の羽板が損害を受けていないか確かめ、逆走の解除を命じた。
船首から垂らした碇の綱を轆轤に巻き付け、定吉と弥助、菊之丞の三人がかりで轆轤棒をまわして、やっとのことで回収した。
舵を切って大きく曲がると、自然に舳先が進路方向を向いた。
そのころには雨は小降りになり、波も静まってきた。
みんなで筵帆を、ふたたび揚げる。
東南風も落ち着きを取り戻し、帆はふくらみ、帆走速度が増す。
誰もが口をつぐみ、福徳丸が進む先をにらんでいた。
青黒い闇の、はるか彼方に、白い靄がゆっくりと発生していたことに、このとき誰も気づく者はいなかった。
◆◆◆◆◆
時刻は八ツ(午前2時)。
村長に代わり、甚八が命じたとおり、寒風吹きすさぶなかを、前ノ浜には浦の人々が集まっていた。
まさか海上が時化で荒れていたとは、このとき誰も思わなかった。イナサは局地的な範囲で、荒天をもたらしていたのだ。
各々、松明を手にして並んでおり、順に篝火で火を灯した。
炎をかかげた者が、我先に真っ暗な浜にくり出し、赤々と照らす。
風が出ていたので、松明は松脂でバチバチと爆ぜ、やたらと黒煙をあげた。
炎を片手に、村人たちはすきっ腹を抱えたまま、白浜を練り歩いていく。
壮年の男と、十歳にも満たない息子は、二人寄り添って歩いた。
父親は善七という名で、昨年、妻、お静を亡くしていた。
ただでさえ食べ物を口にできる機会が少ないうえ、風邪をこじらせ、夜通し咳をひいたすえ、血を吐いて息を引き取ったのだ。
善七にそっくりの顔立ちの息子は、為吉だった。
やはり飢餓はこんな幼い子の成長を妨げており、身体は貧弱すぎた。そのくせ異様に腹部が突き出ていた。
砂地を歩く足どりも覚束ない。何度も砂に足を取られた。眠たげに片手で瞼をこする。
「父ちゃん……。これってなんの祭なん?」
事情も飲み込めず、為吉は素朴な疑問をぶつけた。
「祭じゃねえよ、タメ公。これはな、お船さまをおびき寄せるための――」
善七が声をひそめて言ったつもりだったが、すぐ手前を歩いていた老婆がふり返り、鋭く遮った。
「たわけこくでねえ! 聞き捨てならんぞ、善七!」背の曲がった老婆は松明をかかげたまま、親子の横に並んで噛みついた。「わしらはイナサに招かれて、お船さまが寄ってくれるよう、お祈りしているんじゃ。ちゃんと為吉に教えてやらんか!」
「あいや、こりゃすまね」
善七はバツが悪そうな顔をして、頭をかいた。
すぐに為吉を見やる。
老婆は口をつぐみ、また縦列に戻って、それきり干渉してこなくなった。
「銀婆、おっかない顔しとったね……」
と、為吉が小声で言った。
「そ、そやな……。これは、おれたちが生き残るための儀式みたいなもんや。村人みんなで、神さまから使いをよこしてくれるのを、こうして祈るってわけや」
「お船さまが来たんは、もう六年前なんやってね。あんころは、こんな夜中に火、焚かなんでも来てくれたのに。おれ小さすぎて、よう憶えとらんわ」
「お船さまは、浜歩きせんでも、来るときは来てくれる。昔は毎年のように寄ってくれたこともあったそうや。そやけど、ここ最近は船頭の腕もあがっててな。こんあたりが難所だってことも、船乗りに知れ渡ってるから――」
親子は松明をかざしたまま、伊良湖水道を見つめた。
暗くてなにも見えない。
昼間よりも風が吹き荒れ、波も高くなり、近くの岩礁で波濤が砕ける音がいつもより激しかった。
松明の炎で、白い泡が仄白く浮かぶ。
知らず知らずのうちに波打ち際まで寄りすぎていたので、草履履きの足もとを濡らした。
波の音に負けじと、声を大きくせねばならなかった。