5.イナサの到来
しばらく水主たちは、一刻(2時間)ばかり、平和なひと時を満喫しているときだった。
今夜は、きりのいいところで碇をおろし、停泊するつもりだったのだが……。
船首で見張りをしていた巳之吉がふり返った。
「親方、空が怪しくなってきたぜ!」
彦兵衛は真顔に戻り、とっさに立ちあがった。
弥助と定吉も中腰になり、身を硬くする。
「おかしい。さっきまで東風だったんだが」と、彦兵衛が乱れたドテラの前をなおしながら言った。「急に風向きが変わっちまったな。東南からの風だから、船を進める分には差支えないが――」
今しがたまで満月が出ていたのに、いつの間にかそれさえ、ぶ厚い雲で隠れてしまった。
青黒い闇がすべてを覆う。
とはいえ、水主たちは、こんな場合を想定して夜目を慣らしていた。視力の弱い弥助だけは難儀していたが……。
やがて、霜月とは思えぬほど、生温い風が吹くようになった。湿気まで増している。
風が出てきてからは、あれよという間だった。
波まで荒れ出したのだから、大自然はわからないものである。海は穏やかな面と、狂った面を併せ持つ。
船が動揺しはじめた。
左舷に、やたらと白波がぶつかり出したからたまらない。
次々に波は沖から発生し、はじめこそ低い平坦なそれの連続だったが、しだいに高波へと変じた。
これほど急激に海が荒れるのもめずらしい。
「おまえたちは、ただちに持ち場につけい」彦兵衛は鋭く言った。「空船だから、荷物をだめにする心配はないが、用心するに越したことはない。舵はおれがやる」
福徳丸はいつしか嵐に揉まれ、弄ばれた。
急に、どしゃ降りの雨までもが甲板を叩き、しぶきで白く煙る。
さっきまでの穏やかな海はどこへやら、百戦錬磨の彦兵衛でさえ首を傾げたくなるほどだった。
篠突く雨が水主たちをずぶ濡れにし、左舷にぶつかる波頭で船は激しく揺さぶられる。
激浪は砕けると、波しぶきが高く舞いあがり、船内に打ち込まれた。
風がびゅうびゅうと唸る。
筵帆が風をはらみ、異様にふくらんだ。
思いがけず追い風となり、福徳丸は劇的な速度で、右に本土の影を見ながら走る。
恐るべき速さだった。
速すぎて、弥助は腰が引けるほどであった。
帆柱が撓っているのが、いくら視力の弱い弥助にもわかった。
ミシミシと嫌な音を立て、背筋を寒くさせる。
弥助は彦兵衛に向かって、柱を指さした。
「ううーっ!」
「まずいな……。このままでは帆を破られる」雨に打たれながら、顔をしかめた彦兵衛が言った。一刻前まで吉原でのお楽しみを回顧していたのが、嘘のような局面にさしかかっていた。「おまえたち、今すぐ帆をおろせ!」
言われる前に、弥助はすばやく轆轤の細い胴に、綱を巻き付けていた。
四本飛び出た轆轤棒を、腰を落としてまわそうと格闘する。
ところが風をはらんだ十三端帆は、なかなかおろせるものではない。負荷がかかりすぎているのだ。
見かねた定吉も歯を食いしばって轆轤まわしを手伝ったが、ビクともしない。
その間も船は、右舷側に黒い海食崖と並行しながら、遠州灘をひた走る。
斜め後方からの風向きのせいで、徐々に本土に近づきつつあった。
そうはさせぬと彦兵衛は舵を切ろうとするのだが、帆に受ける風の方が強く、修正は利かない。
遠州灘は、崖沿いに岩礁が点在していることで知られていた。うかつに近づきすぎるのは破船を招くことにつながる。
それに加え、横波の衝突を防ぐ必要もあった。
さもないと、遠からず転覆しかねない。和船に限らず、一般的に船は横からの力に脆いのだ。
轆轤棒に、巳之吉と益次郎の兄弟までがとりつき、加勢した。
四人の水主たちは、いっせいに唸り声をあげる。
菊之丞は帆柱につかまり、おろおろするばかりだ。
四人がかりで轆轤はまわり、ようやく帆綱が巻き取られていった。
ゆっくりと帆が、おろされていく。
帆による推進力がなくなったにもかかわらず、福徳丸は追い波に押し込まれた。
夜目にも、すぐ前方に、岬状に張り出した隆起が見えてきた。
青い闇のなか、黒々とした不気味な駿河の切り立った崖が間近に迫る。
これ以上接近するのは危険すぎた。
福徳丸は激しく揺れ、さながら駿馬に跨ったかのような速さで、岬に突っ込んでいく。
「ぶつかる!」
益次郎が前を見て叫んだ。
「くそっ!」
定吉はどうすることもできず、罵った。
「くそは厠でひってこいや!」
彦兵衛は全体重をかけて、渾身の力で舵柄を切った。
岬にぶつかる寸前、船体を右に大きく傾けて、かろうじてかわした。
なおも福徳丸は、右に海食崖を見ながら疾走する。
早急に船べりに横波がぶつからないよう、対策を講じるべきであった。
福徳丸に限らず、弁才船は喫水線から上甲板までの舷側(海面から甲板までの高さ)が低いため、波をかぶりやすいのが難点なのだ。
陸に激突するか、岩礁にぶつかるのも避けなくてはならなかったが、大量の海水が打ち込まれ、転覆するのも防がなくてはならない。
ますます嵐は過激になった。
もはや会話もできぬほど雨は激しさを増し、暴風と波のうねりとで複合攻撃をしかけてくる。
ひと際うねりが大きくなり、船体は大きく沈み込んだ。
ふたたび波乗りする形で、福徳丸が空を見あげたときだった。
舳先で波濤が砕けた。
波しぶきが派手に四散し、高々と舞いあがる。
甲板上や胴の間は、豪雨やら潮しぶきで、てんやわんやの騒ぎである。
船内は水浸しだ。
「おい、菊之丞!」と、定吉は帆綱をたぐり寄せながら、炊の少年の耳元で絶叫した「ボサッとしてないで、船底に行って水をかき出せ! 水船になっちまうぞ!」
「だって、怖いよ!」
「お菊、スッポンを使え!」
彦兵衛が舵柄と取っ組んだまま叫んだ。この暴風雨のなかでは声は届きかねた。
スッポンとは船に常備している木で作られた道具で、水鉄砲の要領で排水できる仕組みになっているのだ。
定吉に背中をどやされて、菊之丞はスッポンを手に、胴の間をおりていく。
弥助は、おろされた帆が風に飛ばされないよう、固定するのに忙しい。
船は左右に大きく揺れ、あらゆる部位がミシミシと軋んだ。
激烈な横波が船べりにぶつかり、今の衝撃で左舷の垣立(左右の船べりに取り付けられた欄干状の垣)の一部が砕けた。
波が泡となって船内に入り込み、ますます水浸しになる。
一段下がった胴の間に、大量の水が入り込んだ。菊之丞は悲鳴をあげている。
彦兵衛は、炊を気づかうどころではない。
福徳丸の最高責任者として、どうにかして横波による転覆を防がないとならない。
かと言って東南風に対し、船の尻を向けて直角にしようものなら、陸と激突する恐れがさらに高まるのだ……。
「ミノ! マス!」と、彦兵衛は双子を呼んだ。巳之吉と益次郎も胴の間におり、手桶で海水をかき出していた。「船首に行き、碇を垂らせ! 跡ずさりをやる!」
「へっ!」
「よしきた!」
見た目もそっくりの坊主頭の兄弟は、激しく上下する船上を、イタチのようにすばやく動いた。
甲板上の海水に負けじと、身を屈めて走る。
船首に到達すると、鉄でできた四爪碇を二人で手にした。すでに長い綱を結び付けてある。
息の合った動きで、真下の漆黒の海に向かって、碇を落とした。
どんぶりをひっくり返したかのように、海が盛りあがり、次の瞬間、うねって福徳丸は沈み込んでいく。
海底にぶつかるのではないかと思いきや、ふたたび波乗りし、大きく持ちあげられる。
この三百石積みの巨体は放り出されたかのように、一瞬、フワリと宙に浮かんだ。
と思ったら、ふたたび着水。
潮しぶきが放射状に散った。
その拍子に、益次郎は踏ん張りそこない、左舷の割れた垣立のすき間から、海に転落した。
「マス!」と、巳之吉は絶叫した。船は上下に揺れ、激しい雨と、波が砕ける大音響で他の水主仲間には届かない。「益次郎――――っ!」
双子の兄はボロボロになった垣立に走り寄り、海をのぞいたが、黒々とうねくっているだけで、弟の姿は見当たらなかった。