4.彦兵衛、お清に入れあげる
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すっかり日が暮れ、船上の男たちは緊張を解いていた。
彦兵衛をはじめ、水主たちは船尾に近い居住区の前に集まり、炊の菊之丞が箱膳をふるまった。夕食だった。
こんなご時世であったが、船乗りはちゃんと白米を口にできる特権があった。
かぐわしい薫りの鰯のつみれ汁と、塩鯖で飯が進み、里芋と牛蒡の煮物、野沢菜の香の物で口直しができた。
若い水主たちはみんな、飯三杯はたいらげた。
交替で見張りを立たせ、くつろいでいる者は冷えてきたので、徳利を傾けて酒をちびちび飲む。
暮れ六ツ(午後6時)にさしかかるころだった。
星は出ておらず、満月が薄い膜を張って空に浮かんでいた。
定吉が舵の番をしているとき――。
暗くなったので弥助は菅笠を脱ぎ、顔を巻いていた布をはがし、冷えた空気を吸っていた。
夜こそ完全武装を解いて、気楽になれる時間である。真っ白な肌をさらし、きれいな白髪をかきあげる。
月代は剃っておらず、髷も結っていなかった。他の水主たちは慣れっこになっていたので、彼の外見にどうこう口を挟まない。
驚くほど美しい青年であった。
弥助は夕方、カモメと会話した言葉が気がかりで、心ここにあらずの状態だった。
子どものころから野鳥と話をするのが得意で、他人からめずらしがられた。
大抵鳥は、単純な会話しか成立しないものだ。ときおり優れた知性の持ち主や、諧謔に富んだ個体、年の功を積んだ老翁の風格をそなえた鳥とも出会えることもあり、見知らぬ相手とやりとりするのは楽しかった。
にもかかわらず、あのカモメの言葉が頭から離れない。
『私は警告します。浦の人たちはこの船を、転ばせるつもりです――』
――転ばせるとは、どういうことだ?
「どした弥助さん、浮かない顔して。おれの作った料理はどうだったい?」
舳(船首のあたり)で夜風に当たっていた弥助に、菊之丞が声をかけてきた。
最年少の十六歳は身体つきは細く、繊細な手をしていた。これでもう少し背丈があれば、船乗りになるよりか、歌舞伎役者の方が向いているかもしれない。
「うう」
唖者の弥助は、身ぶり手ぶりで茶碗に箸を動かし、かき込む仕草を示し、何度もうなずいてみせた。
飯をたいらげたとき、その場で菊之丞に感想を言うべきであったのだ。料理人は味の良し悪しを知りたくて、不安にかられることもあるのだろう。
「そうかい、満足してくれてよかった」と、菊之丞は童顔をほころばせた。「そりゃそうと弥助さん、大坂へ帰りゃ、しばらくは羽を伸ばすつもりなんだろ」
弥助は、金子をいただいたら、まとまった暇をもらい、三年ぶりに故郷へ足を運ぼうかと考えていた。時折貯まった金を手に、母のもとを訪ねるのを楽しみにしていた。
母は再会するたび、金のことよりも、たくましくなった息子の姿を喜んでくれ、抱きしめてくれたものだ。
薩摩国の南にある離島出身者の弥助は、母だけが気がかりだった。
今でも素潜り漁でアワビや海藻をとって生計を立てていたが、身体は強い方ではなく、よく寝込むことがあった。
父はどうしたかというと――。
弥助がまだ物心がつくかつかないうちに、父は職人の弟子として年季奉公に行ったきり、十年すぎたにもかかわらず、帰ってくることはなかった。
人づてに聞いたところによると、劣悪な環境に住まわされ、主人からのたび重なる暴力で半身不随となったのではないかということだ。悪い評判の絶えない奉公先だったらしい。
その後、流行り病にかかって、命を落としたのではないかとのもっぱらの噂だった。
故郷である離島では、特殊な死生観が根付いていた。
海の彼方にある常世の国は、島々に豊穣をもたらしてくれる。年のはじめに神がやってきて祝福し、年末に帰っていくという。
同時にそこは、生命の根源でもあるとされていた。常世から命は生まれ、島にやってくるのだと。
そして死ねば、常世へ帰っていくと信じられていた。
仏教におけるあの世とは根本的に考え方が異なった。仏教のそれの場合、死んで彼岸に渡ってしまえば、生者は追うことはできない。
かたや常世の国だと、あちらの世界とこちらの世界は地続きになっているとされ、生きた人間でも行き来できると信じられていた。
だから弥助はしばしばこう願った――いつか船乗りとして独り立ちし、船を持てたら、それに乗って常世がどこにあるか、探し当てたいと。母をいっしょに連れて行ってもいいとさえ思った。
そうすれば、ふたたび親子そろって暮らせるのではないか。そんな淡い幻想を抱いていた。
薩摩国の親元へいったん帰ると伝えたつもりだったが、菊之丞は理解しかねるらしく、首をひねった。
「……まあ、なんにしてもさ」と、菊之丞は苦笑いして弥助の二の腕を引いた。「引き続き、おれを飯炊きとして使ってくれるかどうかは親方次第って奴だ。また同じ船に乗れたら、今後ともよろしくな」
「あ、うん」
弥助は頭をさげたあと、にっこり笑った。
菊之丞もまんざらでもない様子で顔を赤らめ、後方の櫓の方へ走り去っていく。おかしな恥じらいであった。
順風だったので、このまま月夜のなかを、帆に風を受けた福徳丸はすべり続けた。
舵の番を双子の弟、益次郎が担当し、舳の見張りを兄、巳之吉が立っているときだった。
空の胴の間(甲板のない船の一段下がった中央部。ここに積み荷を満載する)の壁にもたれ、あぐらをかいた彦兵衛は、定吉と弥助を呼びつけた。菊之丞は炊事場で食器の洗い物に行っている。
彦兵衛は盃に酒を注ぎ、吸い付いた。
酔うにしたがい、おしゃべりになる。
「それにしても吉原の遊女たち……。前にも増して、見目麗しいのが揃っていたな」と、好き者の船頭は、酒の香を漂わせながら盛大なため息をついた。「とくに揚屋には、いつも世話になっている。今回、十指に入る人気花魁、きくの、おりん、飛鳥をご指名できたのは、大枚はたいただけある。本来ならば先約があって、なかなかお相手はしてくれん。おれも出世したってことかな。役得役得!」
と、言って豪快に笑った。
弥助と定吉はあきれて、開いた口がふさがらない。
「親方も、懲りねえ男だな。どうりで家庭が壊れるわけだ」
定吉はあぐらをかいて、遅めの夕飯をとっていた。飯を頬張ったまま茶々を入れる。
「まあ、続きを聞けよ。なかでも収穫だったのは!」彦兵衛は相好を崩して、ひざを叩いた。「最近、吉原で働き出したばかりっていう、お清って名の娘さ。ふつう、吉原に売られてきた新米の遊女は、棒を飲み込んだみたいなおぼこ娘だったり、色気もへったくれもないがさつな餓鬼だったりするもんだが、初めてのわりには、恐ろしく仕草が洗練されていてな。これがとびきりの美人! おまけに口も達者だし、愛敬もあるうえ、将棋の相手をさせると、めっぽう強い。しかも芸事――琵琶を弾きゃかなりの腕前で、歌わせたら、おれなんかうっとりしちまうほどの美声の持ち主よ」
滔々とまくし立て、眼までうるませる始末だった。
船上では時に、若い水主たちをしごき、厳しい指導をする男とは同一人物とは思えぬほどの落差である。
「そうですかい」
「そのうえ、床上手! アッチのあしらいなんか抜群なの。おれが江戸からの船出を遅らせ、二日連続でその店に通ったのも、お清に夢中になっていたからなんだ。もうぞっこんよ。つくづく、あれはいい女だった――」
彦兵衛は斜め上を見つめ、なにやらいかがわしいことを思い出しているのか、しゃっくりでもするかのように笑って身体を揺らしている。
弥助と定吉は、うんざりした様子で互いの顔を見合わせた。